癇癪は成長の合図 〜なぞり書きから見えた成長の記録〜
娘が、宿題のひらがなのなぞり書きをしながら「上手に書けない」と泣いた。
線が少しずれる。お手本と重ならない。
それが悔しくて仕方がないらしい。
昨日までは、雑だけどご機嫌に書いていたのに…と、私はため息をつきたくなった。
「上手じゃなくてもいいんだよ」
「頑張ってやったら、終わっていいんだよ」
なだめるように声をかけてみたけれど、娘は納得しなかった。
雑に書いても花丸はもらえる。先生は褒めてくれる。昨日まではそれでよかった。
でも、今、娘が欲しいのは花丸ではないのだ。
一番初期のなぞり書きを見返してみる。
「え」。
お手本の線から大きく外れている。全体が右下へ流れていくように、一気に書き切っている。
けれど、娘は気にしていなかった。
「できた」
当時の娘にとって、文字はだいたい同じ形ならいいものだったのだと思う。
その後の「ね」。
まだ雑だ。勢いよくなぞっている。
けれど、右側の丸はまだ大きく流れているのに、左側だけは、合わせようとしているのがわかる。
文字全体ではなく、文字の中を部分ごとに見始めているように感じる。
それでもまだ、「できた」で終われる範囲だった。
そして「わ」。
娘は急に「上手に書けない」と怒り始めた。
丁寧になぞり、少しでもずれると悔しがる。
せっかく書いたのに消して、書いて、また消した。
「難しすぎる」
一心不乱に、叩くように消しゴムで消す娘の姿に、既視感があった。
ピアノで、初見の楽譜を思うように弾けなくて、乱暴に鍵盤を叩くように弾く娘。
あの時と同じだ。
娘は癇癪を起こしながらも、弾くのをやめない。
だから、「わ」もきっと書ける。
私はただ、娘が気の済むまで、やりきれるように、そばで見ていればいいだけだ。
消しゴムを受け取り、私が消した。娘が納得するまで、何度も繰り返した。
「わ」が書けた。
昨日までと、何が変わったのだろう。
「え」の頃の娘は、ただ書けばいいと思っていた。
「ね」の頃の娘も、お手本は少し意識し始めたけれど、雑でいいと思っていた。
変わったのは、見る目だ。今まで見えていなかった、お手本との違いが見えるようになった。
だから苦しくなった。だから悔しくなった。
お手本が、ただの薄い線から、娘の理想の形に変わった。
最近、私は娘の癇癪を見るたびに考える。
癇癪をするとき、それは娘の中でどこかが急激に伸びたときなのではないだろうか。
見る力。
感じる力。
考える力。
何かが急に伸びる。
けれど、他の部分がまだ追いつかない。
その急激に大きくなった段差が苦しくて、癇癪になる。
なぞり書きも、ピアノも、今までのたくさんの癇癪も。
娘が成長したサインだった。癇癪は、忌避することではなかったのだ。
「え」では見えなかったものが、「ね」で少し見え始め、「わ」で無視できなくなった。
「簡単簡単」と雑になぞり書きをする日々は終わった。
そして始まった、自分自身の納得を探す旅。
これが、娘の成長の仕方なのだ。
今、私がどんなに怒っても何も響かず、改善しない娘の行動の数々がある。
それらもきっと、娘の何かが成長したとき、急になくなる日が来るのかもしれない。
娘は、親や先生の評価が必要ないわけではない。
褒められれば嬉しいし、認められれば喜ぶ。
けれど、それだけでは足りない。
娘が本当に求めているのは、自分自身の納得なのだ。
だから、花丸では泣き止まない。
「頑張ったから」では、終わりにできない。
娘には、急に理想が高くなる瞬間がある。突然、頭の中の完成予想図が、アップデートされる。
そしていつも、理想と現実の差に苦しむ。けれど、苦しくても、完成予想図さえあれば娘は、何度も挑戦することができる。
「え」から「ね」へ。
「ね」から「わ」へ。
娘はこれからも、何度も同じことを繰り返すのだろう。
そして、乗り越えていく。
癇癪は、後退ではなかった。
娘の世界の解像度が、また一段上がった合図だった。




