2Eギフテッド 失敗がない娘の世界
「見ないで」と娘は言う。
折り紙を折っている時、絵を描いている時、何かを作っている時。こちらが覗き込もうとすると、体で遮る。でも完成すると、必ず見せに来る。
ただ恥ずかしいのだと思っていたけれど、違った。過程を人に見られたら、失敗した時にリセットにならないのだ。
娘は以前、自分図書館を作った。本に手書きのバーコードを貼り、ポスターとチケットを作った。私と夫をお客さんにし、手続きを踏まないと本を借りられない。
最初は微笑ましく見ていた。でもだんだん気になってきた。この子はなぜ、こんなに本気なのだろう…
そうか、娘が作っているのは、ただの遊び場ではない。自分が失敗しない世界だ。
並んでいるのは、自分の知っている本だけ。館内ルールも、返却期限も、全部娘が決める。この世界に失敗という概念は発生しない。なぜなら基準ごと、娘のものだから。
完璧主義で、失敗したくない子供は他にもたくさんいるだろう。やらない。確信が持てるまで動かない。失敗しても人のせいにできる状況を作る。こっそりと練習をして完璧にできるようになってから披露する。
娘の戦略は違った。世界を作り直す。自分が主導権を持つ場所に入ることで、失敗の定義ごと自分のものにする。
将棋を覚え始めた頃、娘は駒の動かし方をうろ覚えだった。間違えた動きをした時、私が違うよと言っても、娘は納得しない。けれど説明書を自分で開いて確認すると、黙って駒を動かし直した。
頑固なのではない。自分で確認したから、納得できた。主体を手放さずに納得する方法を、この子は知っている。
公園に行くと、娘は飛び回って遊ぶ。踊る。
室内で何かを作る時とはまた違う、自由さがある。評価の目が届かない場所で、娘の体は解放される。
もしかしたら、彼女は評価がない場所でしか、自由になれないのだろうか…
「ママ来て」と言いながら、「ママ見ないで」と娘は言う。
私がいないとやらない。でも私が見ていてもだめ。そばにいる、ただそれだけでいい。見守りではなく、存在。この子が求めているのはずっとそれだった。
私が仕事をしていて娘を構えない時、娘は問題行動で気を引くことがある。
放置された時の、自分の存在がその場から消える感覚が恐ろしいのだろう。だから、行動で無理やり存在を取り戻す。構って欲しいわけではない。私はここにいるという確認がしたいのだと思う。
「なぜ言った言葉は取り消せないの」と娘はよく聞いてくる。「なぜやってしまったことはなしにならないの」と。
娘が作れるのはこれからの世界だけだ。言葉はすでに出てしまった。行動はすでに起きてしまった。これは、娘の衝動性が関係しているかもしれない。
「手が勝手にしちゃう」「口が勝手に言っちゃう」衝動性をそんな風に言う娘にとって「なぜ取り消せないの」と考えることは必然なのかもしれない。
世界の構造への、本気の疑問だ。自分の世界では失敗を消せるのに、なぜ現実は消せないのか。娘はそれを、本当に理不尽に感じている。
私はこう伝えた。
「人が見ていないところでの失敗は、自分がなしにしたければなしにしてもいいかもしれない。でも自分は知っているよね。どうする?」
娘は「わからない」と答えた…
2歳から、娘はダンス教室に通っていた。けれど、3歳の夏、娘は自分で「バレエがいい」と言った。いくつもの教室を見て、最終的に今の教室を選んだのも娘だ。
自分で決めた場所だから、やる。
自分で選んだ事だから、続ける。
その軸は、この子の中で一貫している。だから私は思っていた。ここなら大丈夫だと。
バレエの発表会、娘はちゃんとやる。
音楽に合わせて、振り付け通りに、最後まで。でも表情が硬い。客席から見ていると、「耐えている」か「こなしている」そのどちらかに見える。
発表会は娘にとって、自分でルールを決められない場の極致だ。曲も順番も決まっている。大勢の目が一斉に向く。完全に、評価される場である。それでもちゃんとやる。
家で、公園で。自分の世界で踊る娘は、発表会の時と、顔が明らかに違う。こちらまで楽しくなるような、見事な笑顔で踊っている。
娘ができているかどうかより、どんな顔でやっているかを、私は見るようになった。
主体が自分にある時、娘はいつだって楽しそうな顔をしている。主体でいたいというのは、娘の根っこにあるものだ。幼い頃からそうだった。後から形成されたものではない。
乳児の頃、自分で哺乳瓶を持ってミルクを飲んだように。離乳食の時、スプーンを私から奪い、食べたいものだけ食べたように。
けれど、現実世界ではそうもいかない。自分でルールを決められない世界で、娘が娘の顔で笑っていられるようにするには、一体、どうしていけばいいのだろう…




