「行ってくるね」
白い翼が、雲を割った。
ファティが静かに高度を下げていく。
蹄が地面に触れる音もなく、ただ夜明けの空気を押しのけるようにして着地した。
ユーアンが背から降りた。
孤児院の前。
瓦礫と溶解液の跡が残る庭に、ソウマたちがいた。
リナリィが地面に座り込んでいた。
ハンナがその隣で膝を抱えていた。
セリアが子供たちを後ろに庇うようにして立っていた。
そしてソウマが、幻装を解いた状態で、ユーアンを見上げていた。
「……先生」
それだけだった。
ユーアンは歩み寄りながら、ソウマの頭から爪先まで一度だけ見た。
消耗している。立っているのがやっとのはずだ。それでも、足は地を踏んでいる。
「よくやったな」
静かに言った。
褒め言葉というよりは確認だ。
出来るという事はわかっていた。
「先生こそ」
「……私は平和主義なので、疲れましたよ」
リナリィが力の抜けた声で吹き出した。
ハンナは何も言わず、ただ小さく肩をすくめた。
誰も大きく笑わなかった。
笑う体力が残っていなかった。
それでも、庭の空気が少しだけ緩んだ。
ユーアンは両腕をゆっくりと下ろした。
頬の傷はもう塞がっている。
だが腕の奥に残る鈍い重さは、まだそこにあった。
「……ちょうどロケの最中でしてね」
ユーアンは独り言のように続けた。
「幻顕力切れで戻ることになったら、倦怠感がひどくて撮影どころじゃなくなる。そこだけが心配でした」
「……先生」
ソウマが半ば呆れたような顔で言った。
「今それ言います?」
「今だから言えるんですよ」
ユーアンは涼しい顔で答えた。
ソウマは一瞬、何と返すべきか迷ってから——口を閉じた。
この人は本当に、と思った。
異種格闘技世界大会を14歳で制して以来8連覇を続ける生ける伝説が、現役アクションスターがロケの心配をしながら特級執行者と殺し合いをしていた。
それを今さらっと言った。
何も言えなかった。
ユーアンは全員をもう一度だけ見回してから、静かに言った。
「全員、立っていますね」
それで十分だと、その声が言っていた。
夜が明けていた。
東の空が白み始めて、瓦礫の輪郭がはっきりしてくる。
昨夜まで街だった場所が、朝の光の中に静かに晒されていく。
溶けた石畳。
崩れた壁。
焦げた木の枠だけが残る窓。
それらがゆっくりと、別のものに変わり始めていた。
土だった。
溶解液の跡が、砂と泥に変わっていく。
崩れた建物の瓦礫が、流れ込んだ土砂に置き換わっていく。
街の輪郭が、まるで山の斜面が崩れたかのような姿へと、静かに、確実に塗り替えられていく。
世界の修正力だった。
幻顕者たちの痕跡を、世界が自ら覆い隠していく。
戦いがなかったことになるのではない。
ただ、説明のつく形に置き換わる。
孤児院だけが残っていた。
修正力も壊れた建物そのものを直すことはできない。
かつて孤児院だったその場所は、土砂に半ば埋もれた廃墟として、朝の光の中に立っていた。
子供たちは眠っていた。
庭の隅に寄り集まって、誰かが持ってきた毛布に包まって、肩を寄せ合って眠っている。
泥だらけの顔のまま、それでも穏やかな顔で。
ハンナがその横に座って、膝の上に手を置いたまま、ぼんやりと空を見ていた。
「……世界って、すごいですね」
独り言のように言った。
リナリィが隣に腰を下ろした。
「何が?」
「全部、なかったことみたいに変えてしまうから」
リナリィは視線を子供たちに落とした。
「でも孤児院は戻らない。壊れたものは、ちゃんと壊れたままで」
「……そうですね」
ハンナはそう答えてから、膝を抱え直した。
二人はしばらく、並んで夜明けを見ていた。
セリアが、ユーアンの隣に来たのは、子供たちが眠り込んでからだった。
ソウマたちから少し離れた場所。崩れた塀の残骸に腰を下ろしたユーアンの横に、黙って立った。
ユーアンは空を見ていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……あの」
セリアが口を開いた。
「さっき、教えてもらった話」
合流してすぐ、ユーアンはセリアに一通りの説明をしていた。
卵のこと。
幻顕者のこと。
楽園がなぜセリアを狙ったのか。
これから何が起きるのか。
セリアは一度も遮らずに、全部聞いた。
「全部、本当のことですか」
「はい」
ユーアンは空から視線を下ろさないまま、答えた。
「信じられないのは当然です。ただ——貴方が今日見たものは、全部本当のことです」
セリアは少し俯いた。
孤児院が溶けていく光景。
巨大な泥の塊。白と赤と金の機体が空へ跳ぶ瞬間。
遥か上空で走った閃光。
全部、見た。
「……ソウマさんたちは、ずっとああいうことをしてるんですか」
「ええ」
「あなたも」
「私も」
セリアはユーアンの横顔を見た。
22歳。現実では格闘技の世界大会を8連覇して、今もアクションスターとして映画を撮っている人間だとソウマから聞いた。
それがあの規格外の剣使いと殺し合いをして、涼しい顔でここにいる。
何がこの人をそうさせているのか、セリアにはまだわからなかった。
ただ。
「……強いですね」
気づいたら、口に出していた。
「ソウマさんも、あなたも」
ユーアンはそこで初めて、セリアを見た。
「強さにも、いろいろありますよ」
断言でも、否定でもなかった。
ただ、そう言った。
「貴方が今日見せたものも——私は強さだと思います」
ユーアンは眠る子供たちを見た。
少しだけ
目を細めた。
それだけだった。
セリアは少し目を見開いた。
ユーアンは続けた。
「それで、一つ聞いていいですか」
「何ですか?」
「これからどうしたいか、もう決めていますか」
セリアはすぐに答えなかった。
答えられなかった。
幻顕者になるという気持ちは、もうある。
今日の出来事が、それを決めた。
でも——どういう幻顕者になりたいのかが、まだわからない。
子供たちを守れる強さなのか。
ソウマのように前へ出る強さなのか。
ユーアンのように極めた何かなのか。
自分の中に、答えがない。
「……まだ、わかりません」
正直に言った。
「幻顕者にはなりたい。でも、どういう——何のために強くなりたいのかが、まだ」
ユーアンは少し考えてから、言った。
「それなら、ちょうどいい場所があります」
揺り籠、とユーアンは言った。
V.C.T本部の中にある居住区。
時間の流れが止まった場所。
救われた人たちが、自分のペースで自分と向き合うための場所。
「現実の時間は一秒も進まないから、焦る必要はありません。 ただ、自分が何者でありたいかを、そこで考えればいい」
セリアはしばらく、黙っていた。
セリアは孤児院を見た。
崩れた屋根。
泥の庭。
それでも子供たちは笑っている。
守れた。
でも——
次も守れる保証はない。
セリアは顔を上げた。
「…行きます!」
決断だった。
子供たちが、目を覚ました。
朝の光が瓦礫の隙間から差し込んで、毛布の中でまだ眠そうにしていた子たちが、一人ずつ起き上がっていく。
泥だらけの顔のまま、きょろきょろと周りを見回して——セリアを見つけると、駆け寄ってきた。
「セリアおねえちゃん!」
「おはよ!」
セリアは屈んで、一番小さい子の頭をわしゃわしゃと撫でた。
普通の声で言った。
いつもと同じ声で。
「おなかすいた」
「あとで。もうちょっと待って」
「まだ眠い」
「じゃあもう少し寝てな」
次々に集まってくる子たちをあしらいながら、セリアは一人ずつの顔を見た。
泥だらけで、寝癖だらけで、昨夜のことなんてもう半分忘れかけているような顔で。
この子たちはこれからも、ここで朝を迎える。
セリアも、体はここにいる。昨日と同じように。
何も変わらない。
変わったのは、アタシの中だけだ。
それでいいとセリアは思った。
「ちょっとだけ行ってくるから、おとなしくしてなよ」
子供たちに向かってそう言った。
「どこ行くの」
「ちょっとそこまで」
「すぐ帰ってくる?」
「すぐ帰ってくるよ!」
嘘じゃなかった。
体の時間は、一秒も進まない。
子供たちはそれで納得して、また別の話を始めた。
おなかがすいた。あっちの石が面白い形をしている。
ねえねえ聞いてよ。
セリアはその声を聞きながら、立ち上がった。
ユーアンのところへ歩いた。
「……あの」
「はい」
「さっきの話、もう一度聞いていいですか。その——揺り籠に行くには、どうすればいいですか」
ユーアンは少し目を細めた。
「決めましたか」
「決めました」
迷いのない声だった。
ユーアンは頷いた。
「ソウマに頼めばいい。フルゴオルビスがあれば、サルヴァなしで連れていける」
セリアはソウマを振り返った。
ソウマはすでにこちらを見ていた。
話が聞こえていたのか、それとも気配でわかったのか。
一瞬目を閉じてから、セリアは前を向いた。
フルゴオルビスを呼ぶ、とソウマが言った。
メリルが応えて、孤児院の庭の隅に赤と白と黄の機体が静かに姿を現した。
ガルウィング式のドアが開く。
昨夜も乗った機体だ。
なのに、今は少し違って見えた。
昨夜は避難だった。何も考える余裕がなかった。
でも今乗ったら、別の世界に行く。
本当に、行く。
「……行くんだな、ってなるなぁ」
セリアは呟いた。独り言のつもりだったが、隣のソウマに聞こえた。
「そうだな」
ソウマはあっさり答えた。
「でも案外、普通だぞ。向こうも空気あるし」
「いやそういう問題じゃないんですけど」
「ささ、乗って乗って」
セリアは半ば呆れながら、乗り込んだ。
ソウマが続いて乗る。
リナリィとハンナとユーアンは各自の魂玉でそのまま移動するので、ここでいったん別れる形になる。
「またすぐ向こうで」
リナリィが手を振った。
「待ってます」
ハンナが短く言った。
セリアは三人に向けて、頭を下げた。
「ありがとうございました!」
それからもう一度、子供たちを見た。
子供たちはまだ石の話をしていた。
こっちなんか見ていない。
それでよかった。
ドアが閉じた。
メリルの声が響いた。
『セリアさん、じゃあ行くよ』
「うん…大丈夫!」
セリアは前を向いて、答えた。
「行ってください、」
「よし」
ソウマが言った。
「行くぞ、メリル」
調律粒子が、機体全体に広がった。
虹色の歪みが孤児院の庭を包んで——次の瞬間、景色が変わった。
特異領域。
どこまでも続く静かな空間。
時間の流れが止まった、世界と世界の狭間。
ドアが開いた。
外に出た瞬間、セリアは足を止めた。
目の前に、小さな少年が立っていた。
見た目は十歳ほど。新雪のように白い髪。静かな目。それなのに、その佇まいだけが——世界の重さを知っていた。
「おかえり」
アルバートが全員に向けて言った。
それからセリアに視線を移して、柔らかく微笑んだ。
「ようこそ、セリアさん。よく来てくれました」
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