閑話 「海軍の都市伝説」
海には、いくつもの怪談がある。
誰もいない甲板を歩く足音。
夜の見張り台に立つ、知らない水兵。
霧の中から聞こえる、沈んだ船の汽笛。
だが、近ごろ海軍の一部で語られる怪談は、そのどれとも少し違っていた。
怖い。
たしかに怖い。
だが、どうにも締まらない。
その怪談の名は、こう呼ばれている。
金曜日の花子さん。
金曜日。
艦内食堂でカレーが出る日。
その日の夜、艦内トイレの三番個室をノックしてはいけない。
もし、誰もいないはずの個室から、女の子の声で、
「カレー、余ってる?」
と聞こえたら、その日のカレーは守れない。
「余ってます」と答えると、寸胴ごと消える。
「余ってません」と答えても、
「じゃあ、少しだけ」
と言われて、やっぱり消える。
それが、海軍でささやかれる新しい都市伝説だった。
最初の報告は、ある護衛艦から上がった。
深夜、厨房班の一人が食堂横のトイレに入ろうとしたところ、使用中の札が出ていた。
妙だと思った。
その時間、食堂周辺にいるはずの者は全員確認済みだったからだ。
ノックをした。
すると、中から女の子の声がした。
「使用中です」
厨房班の隊員は、固まった。
ここは学校ではない。
艦の中である。
しかも航海中である。
外は海。
乗員以外、いるはずがない。
「……誰だ?」
隊員が聞いた。
中の声は、少し考えるような間を置いてから答えた。
「花子です」
隊員は、そっと後ずさった。
その直後、厨房の方から悲鳴が上がった。
「カレーの寸胴が一つ消えてるぞ!」
その日の被害は、海軍カレー寸胴一基。
白米二十人分。
福神漬け一瓶。
人的被害なし。
精神的被害、厨房班に大。
報告書には、そう書かれた。
上官は当然、信じなかった。
「つまり何か。艦内に侵入者が入り、厨房からカレーを盗み、トイレから逃げたと?」
「いえ、逃げた形跡はありません」
「では、どこへ消えた」
「……三番個室です」
「個室に寸胴が入るか!」
「入りません」
「では何があった!」
「花子さんです」
「ここは小学校ではない!」
そのとおりだった。
ここは小学校ではない。
だが、その後も同じような事件は続いた。
別の艦では、戦闘訓練中に起きた。
「総員、戦闘配置!」
艦内に緊張が走る。
通路を隊員たちが駆ける。
厨房では、訓練後の食事に備えてカレーが温められていた。
そのとき、食堂横のトイレから、かすかな声がした。
「少し分けてもらうわね」
厨房班は、嫌な予感がした。
次の瞬間。
寸胴が一つ消えた。
「カレー消失!」
「敵弾か!?」
「違います! 三番トイレです!」
「この状況でか!?」
「この状況でです!」
戦闘訓練の記録には、こう追記された。
訓練そのものは成功。
艦の損傷なし。
ただし、カレー一基消失。
原因、不明。
備考、三番トイレより少女の声。
その報告書を読んだ司令部の人間は、頭を抱えた。
「なんだ、この備考は」
「現場からの正式な報告です」
「正式に書くな!」
「ですが、実際に聞こえたそうです」
「少女の声が?」
「はい」
「艦内で?」
「はい」
「三番トイレから?」
「はい」
「……海軍に、花子さんが出るのか?」
誰も答えられなかった。
噂は、さらに広がった。
ある基地では、夜間警備中に食堂の明かりが勝手についた。
警備員が向かうと、厨房には誰もいない。
しかし、鍋だけが減っていた。
豚汁。
唐揚げ。
白米。
デザートのプリン。
監視カメラには、何も映っていなかった。
ただ、食堂横の女子トイレの個室三番だけが、内側から閉まっていた。
警備員が震える声で尋ねた。
「誰かいるのか?」
中から、女の子の声がした。
「プリン、余っていたわ」
余っていなかった。
配膳前だった。
基地内では、その日からプリンの管理が厳重になった。
しかし、効果はなかった。
鍵をかけても消える。
見張りを置いても消える。
トイレを封鎖しても、内側から鍵が開く。
そして、どこからともなく聞こえる。
「子どものお弁当に使うから、少しだけ」
少しだけ。
花子さんの言う少しだけは、信用してはいけない。
やがて、海軍内では奇妙な対策が生まれた。
金曜日のカレーの日は、食堂横の三番トイレに近づかない。
厨房の寸胴には、ふたを二重にする。
福神漬けは別保管。
プリンは人数分より多めに用意する。
それでも、消えるときは消える。
ある若い隊員が、先輩に聞いた。
「本当に出るんですか、金曜日の花子さん」
先輩は、真顔で答えた。
「出る」
「見たんですか?」
「声は聞いた」
「どんな声でした?」
「普通の女の子だ」
「普通の女の子が、艦のトイレから出るんですか?」
「だから怖いんだ」
「でも、被害はカレーですよね」
「だから腹が立つんだ」
先輩は、遠い目をした。
「しかも、うまいものを持っていく」
「うまいもの?」
「煮込みが浅い日は来ない」
「味を見ているんですか?」
「たぶんな」
その証拠に、ある艦では、三番トイレからこんな声が聞こえたという。
「もう少し煮込んだ方がいいわ」
翌週、その艦のカレーは改善された。
厨房班は悔しがった。
だが、味は良くなった。
これがまた、都市伝説をややこしくした。
ただの怪異ではない。
料理を見る目がある。
盗む。
いや、本人の言葉を借りれば、分けてもらう。
しかし、味の指導もする。
そのせいで、海軍の厨房班の一部では、金曜日の花子さんを恐れながらも、少しだけ意識するようになった。
「今週は来ると思うか?」
「味が決まれば来る」
「来ない方がいいんじゃないのか?」
「だが、来ないと、それはそれで負けた気がする」
「何にだよ」
「花子さんにだ」
そんな会話が、厨房で交わされるようになった。
もちろん、司令部は認めていない。
公式には、金曜日の花子さんなど存在しない。
カレーの消失も、白米の減少も、プリンの紛失も、すべて管理上の問題として処理されている。
だが、現場の隊員たちは知っている。
金曜日。
食堂横の三番トイレ。
誰もいないはずの個室。
そこから女の子の声がしたら、もう遅い。
「少し分けてもらうわね」
その言葉が聞こえたとき、カレーはすでに消えている。
ある古参の厨房長は、後輩にこう言った。
「いいか。金曜日の三番トイレを甘く見るな」
「はい」
「カレーの寸胴は、絶対に目を離すな」
「はい」
「福神漬けは二瓶用意しろ」
「二瓶ですか」
「一瓶は持っていかれる」
「前提なんですね」
「前提だ」
厨房長は、真剣な顔で続けた。
「それと、プリンは多めに作れ」
「花子さん用ですか?」
「違う」
「違うんですか?」
「持っていかれたあと、隊員が荒れる」
「そっちですか」
「士気に関わる」
海軍にとって、カレーとプリンは大事だった。
その後、金曜日の花子さんの噂は、さらに尾ひれがついた。
潜水艦にも出るらしい。
外国の軍の基地にも現れたらしい。
戦闘配置中の艦でも、三番トイレから声がしたらしい。
どこまでが本当で、どこからが作り話なのかはわからない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
トイレがある場所には、花子さんが来るかもしれない。
そして、おいしい料理がある場所では、少しだけ持っていかれるかもしれない。
少しだけ。
あくまで、花子さん基準で。
そのころ。
とある小学校の女子トイレでは、花子さんが満足そうに寸胴のふたを開けていた。
「今日は、なかなかいい出来ね」
エリカちゃんは、スプーンを持って目を輝かせました。
「花子さん、これが海軍カレー?」
「ええ。本物よ」
「いい匂いね」
「金曜日の味よ」
海斗君は、少しだけ遠い目をしました。
「花子さん」
「なに?」
「これ、どこから持ってきたの?」
「海の方」
「海の方って、広すぎるよ」
「大丈夫。少しだけだから」
海斗君は、寸胴を見ました。
どう見ても、少しではありません。
「たぶん、向こうの人たち困ってるよ」
「大丈夫よ。福神漬けは一瓶残してきたわ」
「優しさの方向が違うよ!」
エリカちゃんは、カレーを一口食べました。
「おいしいわ」
「でしょ」
「また食べたいわ」
「金曜日なら、あるかもしれないわね」
海斗君は、天井を見上げました。
世界のどこかの海で、今も誰かがカレーの寸胴を守っているのかもしれません。
でも、たぶん守れません。
なぜなら、相手は花子さんです。
その日の黒板には、山本先生の赤いチョークでこう書かれました。
海軍のカレーを勝手に持ってきてはいけません。
戦闘中の艦から料理を持ってきてはいけません。
基地のプリンを「余っていました」と言って持ってきてはいけません。
トイレがある場所なら行ける、という理屈は使わないようにしましょう。
その下に、花子さんの字でこう書き足されていました。
味見は大事です。
さらにその下に、山本先生が赤いチョークでこう書き足しました。
味見の問題ではありません。
さらにその下に、エリカちゃんが小さくこう書き足しました。
カレーはおいしかったです。
さらにその下に、海斗君が小さくこう書き足しました。
それも否定できません。
なお、海軍では今も、金曜日の三番トイレに近づく者は少ないそうです。
近づいた者は、こう聞かれるかもしれません。
「カレー、余ってる?」
その質問に、正しい答えはありません。
余っていても、余っていなくても。
カレーは、きっと少しだけ消えるのです。




