表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
79/81

第76話 「エリカちゃんとお弁当」



 三学期のある朝。


 教室では、朝から少しだけそわそわした空気が漂っていました。


 理由は、お弁当です。


 今日は給食室の工事があるため、給食はありません。


 そのため、全員がお弁当を持ってくる日でした。


「海斗君、今日のお弁当楽しみね」


「うん。エリカちゃんの分も、ちゃんと作ってきたよ」


「ありがとう。海斗君のお弁当、好きよ」


「そ、そう?」


 海斗君は少し顔を赤くしました。


 しかし、その直後。


 海斗君は、はっとしました。


「エリカちゃん」


「なに?」


「お弁当、持ってる?」


「……」


 エリカちゃんは、自分の机の横を見ました。


 ランドセル。


 給食袋。


 チェーンソーケース。


 以上。


「ないわね」


「忘れてるよ!」


「そうみたいね」


「どうするの? 僕のお弁当、分けようか?」


「大丈夫よ。取ってくるわ」


「えっ、家に?」


「ううん。女子トイレに」


「女子トイレ!?」


 海斗君が叫ぶ前に、エリカちゃんはすたすたと教室を出ていきました。


 クラスメイトたちは、顔を見合わせました。


「お弁当を取りに、女子トイレ?」


「どういうこと?」


「エリカちゃんだから……」


「それで納得していいのかな……」


 数分後。


 女子トイレの方から、いい匂いがしてきました。


 まず、揚げ物の香り。


 次に、トマトソースの香り。


 さらに、甘い生クリームの香り。


 そこへ、にんにくとオリーブオイルの香り。


 魚を焼く香ばしい匂い。


 だしの香り。


 カレーの香り。


「……ねえ」


「今、トイレからとんかつの匂いしない?」


「パスタの匂いもする」


「ケーキの匂いもする」


「寿司屋みたいな匂いもする」


「寿司屋の匂いって何?」


「わかんないけど、なんか高そう」


 教室がざわついた、そのとき。


 エリカちゃんが戻ってきました。


 両手にお盆。


 その上には、揚げたてのとんかつ。


 湯気の立つミートソースパスタ。


 そして、いちごがたっぷり乗ったホールケーキ。


「お待たせ」


「待ってないよ! というか何それ!?」


 海斗君が立ち上がりました。


「お弁当よ」


「お弁当の量じゃないよ!」


「花子さんが作ってくれたの」


「花子さん、学校の女子トイレで!?」


「うん。今日は個室三番が揚げ場で、個室四番が洋食とお菓子だったわ」


「学校のトイレを厨房区画にしないで!」


 しかし、それだけでは終わりませんでした。


 女子トイレの方から、花子さんが顔を出しました。


「まだあるわよー」


 次に出てきたのは、アヒージョ。


 小海老とマッシュルームが、熱々のオリーブオイルの中でぐつぐつしています。


 その次に、子牛のテリーヌ。


 さらに、白身魚の香草焼き。


 握り寿司。


 焼き魚。


 フカヒレスープ。


 ツバメの巣。


 イベリコ豚のカツレツ。


 松茸ご飯。


 そして、なぜか、きりたんぽ鍋。


 教室が、完全に静まり返りました。


 小学生のお弁当の日とは、いったい何だったのでしょうか。


「エリカちゃん」


 海斗君が、震える声で聞きました。


「これは……お弁当?」


「そうよ」


「鍋があるよ」


「きりたんぽ鍋よ」


「種類を聞いたんじゃないよ」


「寒いから、温まるようにって花子さんが」


「気遣いはありがたいけど、教室で鍋を始めちゃだめだよ!」


 クラスメイトたちは、ぽかんと口を開けていました。


「フカヒレスープって何?」


「高いスープらしいよ」


「ツバメの巣って、鳥の巣?」


「食べられるの?」


「イベリコ豚って名前かっこいい」


「松茸ご飯、いい匂い……」


「きりたんぽ鍋って給食で出ないよね」


「そもそも弁当で鍋が出ないよ」


 そこへ、山本先生が教室に入ってきました。


「みなさん、そろそろお弁当を……」


 先生は、止まりました。


 教室の真ん中。


 エリカちゃんの机の上。


 揚げたてのとんかつ。


 ミートソースパスタ。


 ホールケーキ。


 アヒージョ。


 子牛のテリーヌ。


 白身魚の香草焼き。


 寿司。


 焼き魚。


 フカヒレスープ。


 ツバメの巣。


 イベリコ豚のカツレツ。


 松茸ご飯。


 きりたんぽ鍋。


 そして、女子トイレの方から漂う料理の香り。


「……エリカちゃん」


「はい」


「これは何ですか?」


「お弁当です」


「お弁当」


「はい」


「お弁当箱はどこですか?」


「入りませんでした」


「そうでしょうね」


 山本先生は、静かに目を閉じました。


 そして、ゆっくり開けました。


「どこから持ってきましたか?」


「女子トイレです」


「もう一度聞きます。どこから持ってきましたか?」


「女子トイレです」


「聞き間違いではありませんでしたか」


「はい」


 山本先生は、机に手をつきました。


「エリカちゃん」


「はい」


「お弁当は、家から持ってきましょう」


「忘れたので、花子さんに作ってもらいました」


「花子さんは、どこで作りましたか」


「女子トイレです」


「……」


 山本先生は、そっとポケットから胃薬を取り出しました。


 クラスメイトの一人が、小声で言いました。


「先生、また胃薬だ」


「エリカちゃん、すごい」


「トイレからホールケーキ出てきた」


「給食より豪華じゃない?」


「たしかに」


 山本先生は、何かを言おうとしました。


 しかし、揚げたてのカツレツの香りは、とてもおいしそうでした。


 松茸ご飯も、教室中にいい香りを放っています。


 フカヒレスープも、どう見ても本格的です。


 先生は、長い沈黙のあと、言いました。


「……味は?」


「おいしいです」


「そうですか」


「先生も食べます?」


「いえ、先生は……」


 その瞬間。


 女子トイレの方から、花子さんの声が聞こえました。


「山本先生の分もありますよー」


 教室が静まり返りました。


 山本先生は、震える声で言いました。


「どうして、先生の分もあるのですか」


「大人は疲れているからです」


 花子さんの声は、妙に優しかった。


 山本先生は、少しだけ心が揺れました。


 揺れてしまいました。


 疲れている大人に、できたてのカツレツと松茸ご飯。


 それは、強い誘惑でした。


「……持ってくる場所だけは、今度から考えてください」


「先生、食べるんですね」


 海斗君が小声で言いました。


「先生も、人間です」


 山本先生は、小さくそう言いました。


 そして、花子さんは最後に、銀色の大きな寸胴を押してきました。


 ごとごとごと。


 教室中に、スパイスと玉ねぎと肉の香りが広がります。


「花子さん、それは?」


 エリカちゃんが目を輝かせました。


「本物の海軍カレーよ」


「海軍カレー?」


「ええ。今日は特別」


 花子さんは、得意げに鍋のふたを開けました。


 ほわっと湯気が立ち上がり、濃いカレーの香りが教室を満たします。


 クラスメイトたちが、一斉に鼻をひくひくさせました。


「いい匂い……」


「カレーだ」


「すごい、給食室よりいい匂いする」


 海斗君は、少しだけ嫌な予感がしました。


「花子さん、本物の海軍カレーって、どういう意味?」


「そのままよ。海軍のカレー」


「どこで作ったの?」


「戦艦の厨房」


 教室が、ぴたりと静まり返りました。


 山本先生の赤ペンが、ぽとりと床に落ちました。


「……花子さん」


「はい?」


「戦艦の厨房、と言いましたか?」


「言いました」


「どうやって、そこへ?」


「戦艦にもトイレはあるでしょう?」


 花子さんは、当たり前のように言いました。


「そこから艦内に出て、厨房に忍び込んで、少し分けてもらってきたの」


「少し?」


 山本先生は、寸胴を見ました。


 どう見ても、少しではありません。


 クラス全員に配れそうな量です。


「……これは、少しですか?」


「花子基準では、少しです」


「基準を見直してください」


「厨房のおじさんたち、忙しそうだったから、邪魔しないように静かに持ってきたわ」


「それは、分けてもらったのではなく、持ってきたのではありませんか?」


「細かいことは気にしちゃだめです」


「気にします」


 山本先生は、額に手を当てました。


「戦艦の厨房から、カレーを持ってきてはいけません」


「でも、本物ですよ」


「本物かどうかの問題ではありません」


「おいしいですよ」


「おいしいかどうかの問題でもありません」


 エリカちゃんは、すでにスプーンを持っていました。


「先生、食べないんですか?」


「……」


 山本先生は、カレーを見ました。


 香りは、暴力的なまでにおいしそうでした。


 よく炒めた玉ねぎ。


 肉。


 深い色のルー。


 いかにも、しっかり煮込まれたカレーです。


「……食べるかどうかの問題でもありません」


「先生、目が負けてます」


 海斗君が小声で言いました。


 山本先生は、静かに胃薬を取り出しました。


「先生は、今日は胃薬を先に飲みます」


 こうして、その日のお弁当の時間。


 エリカちゃんの机には、女子トイレから出てきた料理の数々が並びました。


 山本先生の机にも、なぜか花子さん特製の松茸ご飯とカツレツと海軍カレーが置かれました。


 クラスメイトたちは、最初はざわざわしていました。


 しかし、香りには勝てませんでした。


「先生、少しだけならいいですか?」


「……少しだけです」


「寿司も?」


「少しだけです」


「カレーも?」


「少しだけです」


「ケーキも?」


「食後に少しだけです」


「先生、けっこう許してるね」


 海斗君が言うと、山本先生は静かに答えました。


「先生も、人間です」


 なお、花子さんの料理は、どれも本当においしかったそうです。


 ただし、出どころについては、全員が深く考えないことにしました。


 その日の黒板には、山本先生の赤いチョークでこう書かれました。


 お弁当は家から持ってきましょう。

 女子トイレから、フカヒレスープ、ツバメの巣、イベリコ豚のカツレツ、松茸ご飯、きりたんぽ鍋を持ってこないようにしましょう。

 戦艦の厨房から海軍カレーを持ってきてはいけません。


 その下に、花子さんの字でこう書き足されていました。


 本物です。


 その下に、山本先生が赤いチョークでこう書き足しました。


 本物かどうかの問題ではありません。


 さらにその下に、エリカちゃんが小さくこう書き足しました。


 おいしかったです。


 さらにその下に、海斗君が小さくこう書き足しました。


 それも否定できません。


 その日の放課後。


 どこかの戦艦の食堂では、料理担当の隊員が寸胴を見て首をかしげていました。


「あれ? 今日のカレー、寸胴ひとつ減ってないか?」


「まさか」


「いや、減ってるぞ」


「誰か持っていったのか?」


「そんなことあるかよ。ここ戦艦だぞ」


「でも、トイレの方から変な気配がしたって話は聞いた」


「艦にも出るのかよ、花子さん」


 その噂は、しばらく海の上で語られることになるのでした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ