閑話 「深海の花子さん」
潜水艦には、怪談が少ない。
いや、ないわけではない。
深い海の底。
光の届かない場所。
鉄の箱の中に閉じ込められた人間たち。
それだけで、いくらでも怖い話は生まれる。
誰もいないはずの通路を歩く足音。
夜間に聞こえる、金属を叩く音。
乗員名簿にない名前を呼ぶ声。
だが、潜水艦の怪談には、一つ大きな問題がある。
外から誰かが来るはずがない。
潜水艦は海の中にいる。
ハッチは閉じている。
出入りは管理されている。
乗員の数も、食料の量も、水の量も、すべて数えられている。
だからこそ、ある潜水艦で起きた事件は、艦内の者たちを震え上がらせた。
それは、金曜日の夜だった。
その艦では、金曜日の夕食にカレーが出る。
海上艦と同じように、曜日感覚を失わないための習慣だった。
その日のカレーは、よくできていた。
厨房担当は、朝から玉ねぎを炒め、肉を煮込み、いつもより少しだけ丁寧にルーを仕上げていた。
「今日はうまいぞ」
そう言って、厨房担当は満足そうに寸胴を見た。
艦内には、じんわりとカレーの香りが広がっていた。
密閉空間である。
香りは逃げない。
逃げないぶん、よく回る。
そのため、乗員たちは夕食前から少しそわそわしていた。
そのときだった。
食堂近くのトイレから、こんこん、と音がした。
ノックの音ではない。
内側から、誰かが扉を叩いたような音だった。
近くにいた若い乗員が、首をかしげた。
そのトイレは、さっき確認したばかりだった。
誰も入っていないはずだった。
それでも、念のため声をかけた。
「誰か入っていますか?」
少し間があった。
そして、中から返事があった。
「使用中です」
女の子の声だった。
乗員は、固まった。
潜水艦である。
海の中である。
艦内の乗員は全員、確認済みである。
そして、この艦に、子どもはいない。
まして、女の子はいない。
「……誰だ?」
乗員は、かすれた声で聞いた。
中の声は、落ち着いて答えた。
「花子です」
乗員は、返事をしませんでした。
返事をする代わりに、ゆっくり後ずさりました。
その直後、厨房の方から叫び声が上がりました。
「寸胴が一つ消えた!」
艦内が、一瞬で騒然となりました。
潜水艦の中で、寸胴が消える。
それは、かなり大きな事件です。
なにしろ、隠す場所がありません。
動かせば音がする。
通路は狭い。
人の出入りも限られている。
それなのに、カレーの寸胴が一つ、きれいに消えていました。
白米も少し減っていました。
福神漬けも一瓶なくなっていました。
そして、食堂横のトイレの三番個室だけが、内側から鍵をかけられていました。
「開けろ!」
艦長が命じました。
乗員が恐る恐る扉を叩きます。
「中にいる者、出てこい」
返事はありません。
鍵を外して扉を開けました。
中には、誰もいませんでした。
ただ、ほんのりとカレーの匂いが残っていました。
艦長は、長い沈黙のあとに言いました。
「……報告をまとめろ」
「なんと書きますか」
「食料管理上の不備」
「しかし、三番個室から声が」
「食料管理上の不備だ」
「女の子の声が」
「食料管理上の不備だ」
艦長は、強い声で繰り返しました。
だが、その目は笑っていませんでした。
なぜなら、彼も聞いていたからです。
誰もいないはずのトイレから聞こえた、女の子の声を。
それ以来、その潜水艦では金曜日の三番トイレに近づく者が減りました。
特に、カレーの日は誰も近づきません。
ある乗員が冗談めかして言いました。
「三番トイレに、貼り紙しませんか」
「何と書く」
「花子さん立入禁止」
「効くと思うか?」
「思いません」
「なら貼るな」
別の乗員は、真顔で言いました。
「カレーの寸胴に鎖をつけましょう」
「潜水艦の中で、カレーの寸胴を鎖でつなぐのか」
「守るためです」
「何から」
「花子さんから」
笑い話のようで、誰も笑いませんでした。
それから数週間後。
別の潜水艦でも、同じような話が出ました。
航海中、食堂横のトイレから女の子の声がした。
厨房のシチューが減った。
夜食用のラーメンが消えた。
士気向上用のプリンが、人数分より三つ少なくなっていた。
監視記録に不審な影はない。
しかし、トイレの三番個室だけが、いつの間にか内側から閉まっていた。
そして、中からこう聞こえたという。
「プリン、余っていたわ」
余っていなかった。
その話を聞いた潜水艦乗りたちは、顔を見合わせました。
海上艦なら、まだわかる。
基地なら、まだわかる。
だが、潜水艦は違う。
海の底にいる。
外部から来ることはできない。
それなのに来る。
トイレから。
ある古参の乗員は、若い隊員にこう言いました。
「いいか。潜水艦で一番怖いのは、浸水でも故障でもない」
「何ですか」
「誰もいないはずのトイレから、女の子の声がすることだ」
「それは……怖いですね」
「しかも、カレーを持っていく」
「そこは少し腹が立ちますね」
「腹が立つから、余計に怖い」
潜水艦版の都市伝説は、やがてこう呼ばれるようになりました。
深海の花子さん。
金曜日。
潜水艦の食堂近く。
三番トイレ。
誰も入っていないはずの個室から、
「カレー、余ってる?」
と聞こえたら、答えてはいけない。
「余っています」と答えれば、寸胴が消える。
「余っていません」と答えれば、
「じゃあ、少しだけ」
と言われる。
無視をしても、やっぱり少しだけ消える。
だから正しい対処法はない。
せいぜい、福神漬けを二瓶用意することくらいである。
ある潜水艦では、対策としてカレーを二つの寸胴に分けました。
一つは乗員用。
一つは予備。
厨房担当は、予備の方に小さく札を貼りました。
花子さん用。
上官に見つかり、怒られました。
「こんな札を貼るな!」
「ですが、持っていかれるので」
「公式に認めるな!」
「では、非公式に」
「なお悪い!」
その夜。
花子さん用と書かれた寸胴だけが消えました。
乗員用の寸胴は無事でした。
厨房班は、複雑な顔をしました。
「効果があったな」
「あったな」
「でも、認めたことになるな」
「なるな」
「次からどうする」
「……札は貼らずに、同じ場所に置く」
「それはもう、供え物では?」
「言うな」
深海の花子さんは、恐れられました。
しかし、ほんの少しだけ感謝もされました。
なぜなら、花子さんはまずい料理を持っていかないのです。
煮込みが浅い日は来ない。
味が薄い日は来ない。
プリンが固まりすぎた日は、声だけがする。
「もう少しなめらかな方がいいわ」
それだけ言って、何も持っていかない。
厨房班は、悔しがりました。
悔しがりながら、翌週からプリンの配合を見直しました。
ある若い厨房担当は、真剣な顔で言いました。
「いつか、花子さんに全部持っていかれるカレーを作りたいです」
先輩は、複雑な顔で言いました。
「それは勝利なのか?」
「料理人としては、たぶん」
「潜水艦乗りとしては敗北だ」
「難しいですね」
「難しいな」
こうして、深海の花子さんは、潜水艦乗りたちの間でひそかに語られるようになりました。
公式記録には残りません。
残してはいけません。
潜水艦のトイレから女の子が来て、カレーやプリンを持っていくなど、正式な報告書に書けるわけがありません。
だが、現場の者たちは知っています。
金曜日のカレーの日。
食堂近くの三番トイレ。
そこから女の子の声がしたら、もう遅い。
深海でも。
密閉空間でも。
海の底でも。
トイレがあるなら、花子さんは来る。
そして、少しだけ持っていく。
花子さん基準で、少しだけ。
そのころ。
とある小学校の女子トイレでは、花子さんがカレーの寸胴を開けていました。
「今日は潜水艦カレーよ」
エリカちゃんは、目を輝かせました。
「潜水艦カレー?」
「ええ。海の底の味ね」
「海軍カレーと違うの?」
「揺れ方が違うわ」
「揺れ方?」
「海上艦は横に揺れるけど、潜水艦は静かに沈んでいる感じがするの」
「カレーの説明なのかしら」
海斗君は、遠い目をしました。
「花子さん」
「なに?」
「潜水艦から持ってきたの?」
「少しだけね」
「潜水艦って、外から入れないよね」
「トイレはあるでしょう?」
「あるけど、それで行けることにしちゃだめだよ」
「でも、行けたわ」
「行けたからって、行っていいわけじゃないよ!」
花子さんは、スプーンでカレーを少しすくい、味を見ました。
「うん。よく煮込めているわ」
「評価しないで!」
「福神漬けも残してきたわ」
「また優しさの方向が違う!」
エリカちゃんは、カレーを一口食べました。
「おいしいわ」
「でしょ」
「潜水艦の人たちは、料理が上手ね」
「そうね。密閉空間だから、香りがよく回るの」
「勉強になるわ」
「勉強しなくていいよ!」
その日の黒板には、山本先生の赤いチョークでこう書かれました。
潜水艦のトイレから厨房に忍び込んではいけません。
潜水艦のカレーを「少しだけ」と言って持ってきてはいけません。
密閉空間だから香りがよく回る、という感想を授業中に言わないようにしましょう。
トイレがあるから行ける、という理屈は使わないようにしましょう。
その下に、花子さんの字でこう書き足されていました。
プリンは改良の余地あり。
さらにその下に、山本先生が赤いチョークでこう書き足しました。
料理審査の問題ではありません。
さらにその下に、エリカちゃんが小さくこう書き足しました。
カレーはおいしかったです。
さらにその下に、海斗君が小さくこう書き足しました。
それも否定できません。
なお、潜水艦乗りたちの間では、今もこんな噂がささやかれているそうです。
金曜日の三番トイレをノックしてはいけない。
もし、中から女の子の声で、
「カレー、余ってる?」
と聞かれたら。
その質問に、正しい答えはありません。
答えても、答えなくても。
カレーは、きっと少しだけ消えるのです。




