第73話 「エリカちゃんと高級レストラン」
三学期が始まって、数日が経ちました。
冬休みの日記帳は、まだ山本先生の机の奥に保管されています。
理由は簡単です。
エリカちゃんの日記帳の一月二日のページに、A国大統領とB国首相の名刺が貼ってあったからです。
山本先生は、そのページに赤ペンでこう書きました。
知らない人からお金をもらってはいけません。
必ず大人に相談しましょう。
エリカちゃんは、それをきちんと覚えていました。
覚えていたのです。
ただし、解釈が正しいとは限りません。
「海斗君」
「なに?」
「まとまったお金ができたわ」
「うん……できちゃったね」
「だから、高級なお店にご飯を食べに行きましょう」
「えっ」
放課後の教室で、エリカちゃんは胸を張って言いました。
海斗君は、少しだけ嫌な予感がしました。
「エリカちゃん、そのお金って……」
「お年玉よ」
「うん。お年玉なんだけど……」
「山本先生も、大人に相談しましょうって言ってたわ」
「言ってたね」
「だから、秀明おじさんに相談したわ」
「相談したの?」
「したわ」
「なんて言ってた?」
「『飯くらいならいいんじゃねえか』って」
「大人に相談って、そういうことなのかな……」
海斗君は、不安そうに首をかしげました。
しかしエリカちゃんは、すでに行く気満々でした。
「お店も決めたの」
「どこ?」
「銀座の高級レストラン」
「銀座!?」
「お店の名前は、銀の鹿亭」
「名前からして高そうだよ!」
「大丈夫よ。惠那ちゃんが、予算計算してくれたもの」
その言葉を聞いて、海斗君はさらに不安になりました。
惠那ちゃんの予算計算は、だいたい普通の小学生の予算計算ではありません。
その夜。
チェーン荘の居間では、エリカちゃんたちが高級レストラン作戦会議を開いていました。
参加者は、エリカちゃん、海斗君、惠那ちゃん、エリポン、花子さん、化け猫さん、マリンちゃん、そして秀明おじさんです。
「まず、予算」
惠那ちゃんが、算盤をぱちぱち鳴らしました。
「お年玉のうち、現金化して問題なさそうな分を食費に回す」
「問題なさそうな分って何!?」
海斗君が叫びました。
「大丈夫。怪しい分は、まだ封印」
「封印って言葉が出る食費、初めて聞いたよ」
「高級店のコース料理、ひとり二万円から」
「にまんえん!?」
海斗君は目を丸くしました。
エリカちゃんは、きょとんとしています。
「二万円って、チェーンソーの替え刃より安いわね」
「比較対象がおかしいよ!」
「エリポンも行くでちゅ!」
「行ってもいいけど、食べすぎちゃだめだよ」
「高級なものは、お腹にやさしいでちゅ?」
「たぶん、君のお腹にはやさしくないよ」
花子さんも、すっと手を上げました。
「私も行くわ」
「花子さん、外出できるの?」
「高級店なら化粧室があるでしょ」
「トイレ経由で行くんだ……」
「しかも銀座の高級店の化粧室。興味あるわ」
「興味の方向が花子さんらしいね……」
秀明おじさんは、腕を組んで難しい顔をしていました。
「お前ら、本当に高級店に行く気か?」
「もちろんよ」
「ドレスコードってもんがあるぞ」
「ドレス?」
「ちゃんとした格好じゃないと入れないってことだ」
「なら大丈夫よ」
エリカちゃんは、にっこり笑いました。
「私、勝負服があるもの」
翌日の夕方。
銀座の高級レストラン、銀の鹿亭。
入口には黒服のスタッフが立ち、店内からは静かなピアノの音が聞こえています。
大きなガラス扉。
ふかふかの赤い絨毯。
金色の照明。
いかにも、普通の小学二年生が来る場所ではありません。
しかし、その日、そこに現れたのは。
白いフリルのワンピースを着たエリカちゃん。
小さなスーツ姿の海斗君。
着物姿の惠那ちゃん。
蝶ネクタイをつけたエリポン。
なぜか黒い作業服をきれいに洗ってきた秀明おじさん。
そして、化け猫さんを抱えた花子さんでした。
「……花子さん、普通に来てる」
「今日は化粧室から先に出てきて、入口で合流したの」
「器用だね……」
エリカちゃんは、胸を張って入口へ向かいました。
黒服のスタッフが、丁寧に頭を下げます。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でございますか」
「はい。神谷エリカです」
「神谷エリカ様ですね。お待ちしておりました」
スタッフは名簿を確認し、少しだけ目を見開きました。
予約欄には、こう書かれていました。
神谷エリカ様
支払い方法:現金
備考:大きなポチ袋持参
スタッフは、表情を崩さないまま言いました。
「恐れ入りますが、危険物のお持ち込みはご遠慮いただいております」
「危険物?」
エリカちゃんは首をかしげました。
「カトリーヌのこと?」
「その、チェーンソーケースの中身でございます」
「でも、カトリーヌは私の大事なお友達よ」
「レストラン内では、お預かりいたします」
「クロークに?」
「はい」
「カトリーヌ、いい子にしてるのよ」
エリカちゃんがケースを渡すと、中から小さく、
ウィン。
と音がしました。
スタッフの笑顔が、ほんの少しだけ固まりました。
「……大変、個性的なお友達でございますね」
「そうでしょう」
「褒められてないと思うよ、エリカちゃん」
海斗君が小声で言いました。
一行は個室へ案内されました。
テーブルには白いクロス。
銀色のナイフとフォーク。
大きい皿。
小さい皿。
何に使うのかわからないグラス。
エリカちゃんは、席に座るなり目を輝かせました。
「すごいわね、海斗君」
「うん。すごいね」
「フォークがいっぱいあるわ」
「外側から使うんだよ」
「海斗君、知ってるの?」
「パパとママに少し教わったことがあるんだ」
「さすが怪盗の息子ね」
「考古学者ってことになってるから!」
惠那ちゃんは、メニューを見ていました。
目が真剣です。
「原価率、推定」
「やめて。高級店で原価率を計算しないで」
「この水、無料?」
「たぶん有料じゃないかな……」
「危険」
「水を危険扱いしないで」
エリポンは、ナプキンを首に巻こうとしていました。
「これ、よだれかけでちゅ?」
「違うよ、エリポン」
「じゃあ何でちゅ?」
「ナプキンだよ」
「高級よだれかけでちゅね」
「違うけど、まあ近いような遠いような……」
花子さんは、化粧室の評価をしていました。
「ここのトイレ、かなりいいわ」
「花子さん、もう見てきたの?」
「手洗い場が大理石だったわ。個室も広い。幽霊的には高評価」
「幽霊的なレビュー、初めて聞いたよ」
やがて、最初の料理が運ばれてきました。
大きな白い皿の中央に、小さな丸いものがちょこんと乗っています。
周りには、きれいなソースが点々と描かれていました。
エリカちゃんは、しばらく皿を見つめました。
「海斗君」
「なに?」
「これ、食べかけ?」
「違うよ。前菜だよ」
「ちょっとしかないわ」
「高級料理って、そういうものなんだよ」
「お腹いっぱいになるの?」
「コースだから、少しずつ出てくるんだ」
「少しずつ攻めてくるのね」
「敵じゃないよ」
エリカちゃんは、フォークで前菜をつつき、口に入れました。
もぐ。
しばらく考えます。
「……おいしいわ」
「よかった」
「でも、塩辛を乗せたらもっとおいしいと思う」
「乗せないでね」
「持ってきてないわ」
「本当に?」
「……ちょっとだけ」
「持ってきてるんだ!?」
エリカちゃんは、小さな瓶をポケットから取り出しました。
高級レストランの白いクロスの上に、塩辛の瓶。
海斗君は全力で止めました。
「エリカちゃん、ここではだめ!」
「でも、合うかもしれないわ」
「合うとしてもだめ!」
そこへ、ソムリエのようなスタッフがやってきました。
「お飲み物はいかがなさいますか」
「イチゴミルク」
エリカちゃんは即答しました。
「……イチゴミルクでございますか」
「はい。大きめで」
「かしこまりました」
高級店のスタッフは強かった。
表情を崩さず、イチゴミルクを用意しに行きました。
「海斗君は?」
「僕はお水で」
「惠那ちゃんは?」
「一番利益率の低いもの」
「注文の仕方!」
次に出てきたのは、スープでした。
金色の器に入った、香り高いスープ。
エリポンが目を輝かせました。
「おいしそうでちゅ!」
「熱いから気をつけてね」
「わかったでちゅ!」
ずずっ。
「あちゅいでちゅー!」
「だから言ったのに!」
エリポンは舌を出して、涙目でぴょんぴょん跳ねました。
スタッフが水を持ってきます。
その水を、惠那ちゃんがじっと見つめました。
「追加料金?」
「無料でございます」
「安心」
「惠那ちゃん、そこ本当に大事なんだね……」
魚料理が出ました。
白身魚のポワレ、季節の野菜添え。
エリカちゃんは目を細めました。
「海斗君」
「なに?」
「これ、焼き魚?」
「うん、まあ、焼き魚だね」
「大根おろしは?」
「ないよ」
「しょうゆは?」
「たぶん言えば出るかもしれないけど……」
「海斗君、高級な焼き魚って不便ね」
「フランス料理だからね」
「お味噌汁がないわ」
「それもないよ」
「ご飯は?」
「最後に出るかな……出ないかも」
「高級店なのに、ご飯がないの?」
エリカちゃんは、少し真剣に驚いていました。
高級とは何か。
小学二年生にとって、それは大盛りご飯とおかずがたくさん出ることだったのです。
肉料理では、分厚い牛肉が出ました。
表面は香ばしく、中はきれいな赤色。
ソースの香りが広がります。
「これはおいしそうね」
「うん。これは普通においしそう」
エリカちゃんは一口食べました。
目が輝きました。
「おいしい!」
「よかった」
「海斗君、これならご飯三杯いけるわ」
「ご飯から離れられないんだね」
秀明おじさんも肉を食べて、うなりました。
「うめえな。さすが高いだけある」
「おじさん、作れそう?」
「無茶言うな。俺は建築と修理だ。肉は焼けても、こんなソースは無理だ」
「じゃあ、チェーン荘にこの人を雇いましょう」
「シェフを!?」
「毎日高級ご飯」
「予算が死ぬ」
惠那ちゃんが即座に言いました。
「月額、赤字」
「だめみたいね」
「判断が早いね……」
デザートが運ばれてきました。
白い皿の上に、チョコレートのムース、ベリーのソース、金箔が少し。
エリカちゃんは、金箔を見て首をかしげました。
「惠那ちゃん」
「なに?」
「この金、回収できる?」
「量が少ない。食べた方が早い」
「そう」
「金箔まで資産として見るのやめようね」
エリポンは、デザートを前に震えていました。
「食べたいでちゅ」
「ゆっくり食べるんだよ」
「わかったでちゅ」
ぱくっ。
「うまいでちゅ!」
ぱくぱくぱく。
「あ、エリポン、また一気に!」
数分後。
エリポンは椅子の上でお腹を押さえていました。
「高級でも、お腹は壊れるでちゅ……」
「だから言ったのに」
食事が終わり、会計の時間になりました。
スタッフが、革の小さなケースを持ってきました。
中には、細長い紙。
エリカちゃんは、それを見て言いました。
「海斗君、これ何?」
「お会計だよ」
「ふうん」
エリカちゃんは金額を見ました。
そして、首をかしげました。
「チェーンソーより安いわ」
「またその比較!?」
惠那ちゃんが金額を確認しました。
「予算内」
「よかった……」
「ただし、イチゴミルク追加分、やや割高」
「そこ見るんだ」
エリカちゃんは、大きなポチ袋からお金を出そうとしました。
スタッフの目が、一瞬だけ揺れました。
普通のポチ袋ではありません。
どう見ても、書類封筒くらいあります。
「エリカちゃん、それをここで出すのは……」
海斗君が止めようとしたとき。
惠那ちゃんが、すっと別の封筒を出しました。
「支払い用に小分け済み」
「惠那ちゃん!」
「大きい袋を出すと目立つ」
「そこまで考えてたんだ!」
「資産管理、大事」
無事に会計は終わりました。
スタッフたちは最後まで丁寧に見送ってくれました。
「本日はご来店ありがとうございました」
「おいしかったわ」
「ありがとうございます」
「でも、次はご飯とお味噌汁もあるとうれしいわ」
「……検討いたします」
「あと、イチゴミルクはもっと大きい方がいいわ」
「検討いたします」
店を出たあと、エリカちゃんは満足そうに夜の銀座を歩いていました。
「高級店って、面白いわね」
「うん。ちょっと緊張したけど、おいしかったね」
「でも、量が少なかったわ」
「やっぱり?」
「帰ったら、お茶漬け食べましょう」
「食べるんだ……」
「塩辛もあるわ」
「あるんだ……」
その日の夜。
チェーン荘の台所では、海斗君が普通のお茶漬けを作りました。
エリカちゃんは、それを食べて、ふうっと幸せそうに息をつきました。
「やっぱり、これね」
「高級レストランのあとに塩辛茶漬け……」
「最高よ」
「エリカちゃんらしいね」
惠那ちゃんは、帳簿に今日の支出を書き込んでいました。
エリポンは、お腹を壊して寝ています。
花子さんは、銀の鹿亭の化粧室について、なぜか評価表を書いていました。
秀明おじさんは、肉料理を思い出しながら、安い牛肉で再現できないか考えていました。
化け猫さんは、デザートの皿についていたクリームを思い出して、しっぽを揺らしていました。
マリンちゃんは、銀のスプーンを溶かしかけたので、現在ガラス容器の中で反省中です。
そして、冷蔵庫には新しいメモが貼られました。
高級レストランでは、静かに食べましょう。
チェーンソーはクロークに預けましょう。
塩辛は持ち込まないようにしましょう。
その下に、エリカちゃんの字でこう書き足されていました。
でも、お肉にはご飯がほしいです。
さらにその下に、海斗君の字でこう書き足されていました。
それは少しわかる。




