第68話 「エリカちゃんと年越しそば」
十二月三十一日。
大晦日の夕方。
チェーン荘の台所では、海斗君が、そばを打っていました。
「海斗君、すごいわね、そばまで打てるの」
「うん。お父さんが、こういうの教えてくれて」
「将来の旦那ね」
「またそれ?」
「だってそうじゃない」
エリカちゃんは、台所の入り口で、海斗君の手元を覗き込みました。
打ち粉が、ふわりと舞います。
包丁が、すっ、すっと、生地を切っていきます。
「綺麗な動きね」
「うん。包丁は、こうやって使うんだよ」
「私も切るわ」
「だめだよ、エリカちゃん」
「私だって、できるわ」
「チェーンソーで?」
「うん」
「だめだよ!」
「太麺になるわ」
「太麺になりすぎるよ!」
「うどんもびっくりの太さよ」
「うどんもびっくりするレベルになっちゃだめ!」
海斗君は、ひとまずエリカちゃんを、台所から押し出しました。
「エリカちゃんは、薬味の準備をお願い」
「薬味ね」
「うん。そばに合うやつ」
「わかったわ」
エリカちゃんは、嬉しそうに、棚の奥から、いろいろな瓶を取り出しました。
塩辛。
たこわさ。
わさび漬け。
ふきのとう味噌。
そして、なぜか、イチゴジャム。
「エリカちゃん」
「なに?」
「最後の一つ、何?」
「イチゴジャム」
「そばにいる?」
「甘くて、合うわ」
「合わないよ!」
「やってみたの?」
「やったらたぶん負ける気しかしない!」
「じゃあ私が証明してあげる」
「証明しなくていいから!」
エリカちゃんは、薬味の瓶を、テーブルにずらりと並べました。
塩辛、たこわさ、わさび漬け、ふきのとう味噌、イチゴジャム、そしてなぜかチョコレートシロップ。
「エリカちゃん、最後の二つは、絶対に違う」
「甘い系も、選択肢としてあってもいいじゃない」
「年越しそばに甘い系の選択肢、いらないよ!」
そこへ、玄関のチャイムが鳴りました。
ぴんぽーん。
「はーい」
海斗君が出てみると、玄関には、両手に紙袋を抱えた山本先生が立っていました。
「お邪魔します」
「先生!」
「クラスの集まりの帰りに、お声をかけたら、エリカちゃんが『来てもいいわよ』って」
「呼んだの、エリカちゃん!?」
「だって、年越しそばは、大人数の方がおいしいでしょ」
「言い方が、もはや主催者だね……」
山本先生は、紙袋から、海苔と、天ぷらと、なぜか胃薬を取り出しました。
「胃薬は?」
「私の常備薬です」
「先生、また持ってきた」
「ここに来るのに、必要なんです」
「先生、それ持ってこないとうちに来れないんですか……」
「来れません」
「気合いの入り方が違う……」
リビングのテーブルには、ぞくぞくと住人が集まりました。
エリカちゃん。
海斗君。
秀明おじさん。
惠那ちゃん。
エリポン。
花子さん(トイレからの参加扱い)。
化け猫さん(膝の上)。
マリンちゃん(隅のガラス容器)。
そして、山本先生。
「みなさん、こんばんは」
「こんばんはー」
「先生、いらっしゃい」
「お邪魔します」
席についた山本先生は、テーブルの薬味を見て、にっこり笑いました。
そして、にっこり笑ったまま、固まりました。
「……エリカちゃん」
「はい」
「これ、薬味ですか」
「はい」
「イチゴジャムが、ありますね」
「はい」
「チョコレートシロップも」
「はい」
「そばに、合いますか」
「私は合うと思います」
山本先生は、すっと胃薬の小袋を取り出しました。
「先生、まだ食べてないですよ!」
「予防です」
「予防が早すぎる!」
「経験です」
「先生、強くなりましたね……」
そばが、テーブルに運ばれてきました。
ほかほかの湯気。
醤油の香り。
ねぎと、刻み海苔。
そして、海斗君の天ぷら。
「いただきます」
「いただきまーす」
みんなが、いっせいに箸をつけました。
エリカちゃんは、まず、普通にそばを一口食べました。
「うん、おいしいわ」
「よかった」
それから、塩辛の瓶を引き寄せました。
ちょん。
「塩辛のせ、よし」
「うん、それはわかる」
ちょん。
「たこわさのせ、よし」
「うん、それもまあ、わかる」
ちょん。
「イチゴジャムのせ、よし」
「だめだよ!」
「まだ食べてないわ」
「食べる前にやめて!」
エリカちゃんは、にっこり笑って、イチゴジャムのせのそばを、ずるずる、と食べました。
「……」
「どう?」
「……微妙」
「やっぱり!」
「でも、なくはない」
「なくはあるよ!」
「海斗君も、ひと口」
「いやだよ!」
「未来の旦那なら、奥さんの実験には付き合うべきよ」
「実験!?」
山本先生は、その横で、無心にそばを食べていました。
そばに集中することが、いまの自分にとっての唯一の防衛だと、達観したような顔でした。
惠那ちゃんは、ぱくぱく、と上品にそばを食べていました。
「このそば、原価いくら?」
「あー、惠那ちゃん、それは聞かないで」
「気になる」
「数えると、楽しい食事じゃなくなるから」
「私の楽しい食事は、原価計算」
「業の深い座敷わらしだ……」
エリポンは、わんこそばのように、ずるずる、ずるずる、と食べ続けていました。
「もう一杯でちゅ!」
「エリポン、お腹壊すよ」
「壊さないでちゅ!」
「クリスマスから二回壊してるから!」
「三回目はないでちゅ!」
「言い切ったね……」
秀明おじさんは、満足そうに、そばと一緒に晩酌をしていました。
「いいなあ、年越しそば。大人になったって感じがする」
「おじさん、いつも大人でしょ」
「気分の問題なんだよ」
「気分の大人なんだ……」
そんなふうにして、年越しそばの夜は、にぎやかに過ぎていきました。
そして、二十三時五十分。
「そろそろ、除夜の鐘ね」
エリカちゃんが、ふと言いました。
「うん。ちょっと、外で聞こうか」
みんなで、縁側に出ました。
冬の夜は、しんとしていました。
息が、白くなります。
遠くから、ぼーん、と、お寺の鐘の音が聞こえてきました。
「いい音ね」
「うん。落ち着くね」
「私もやろうかしら」
「えっ?」
「除夜の鐘」
「うち、鐘ないよ」
「カトリーヌがあるわ」
「えっ」
「百八回、吹かすわ」
「やめて!」
エリカちゃんが、ぱっとチェーンソーを構えました。
「人間の煩悩は百八。私のカトリーヌも、それと同じ数だけ唸るのよ」
「数を合わせなくていいから!」
ウイイイイイイイイイイイイン!
「一回目!」
「やめて、エリカちゃん、近所迷惑!」
ウイイイイイイイイイイイイン!
「二回目!」
「お願いだから!」
ウイイイイイイイイイイイイン!
「三回目!」
「もう三回もやった!」
近所の家々の電気が、ぱちぱち、と点きました。
カーテンの隙間から、いくつもの目が、こちらを見ているのがわかりました。
「ねえ、嬢ちゃん、それ、たぶん、苦情くる」
秀明おじさんが、慌てて止めました。
「百八回までは、まだ百五回あるわ」
「五回でやめろ! もう五回やった!」
ウイイイイイイイイイイイイン!
「六回目!」
「やめてー!」
ぴんぽーん。
ぴんぽーん。
ぴんぽーん。
「ほら、もう来た!」
ぴんぽーん。
「あちこちから来てる!」
ぴんぽーん。
「玄関、複数同時に押されてる!」
秀明おじさんは、頭を抱えて、玄関に走っていきました。
「すみません、申し訳ありません、すぐ止めます、すみません、ええ、ええ、申し訳ない、おみやげ、おみやげあります、ええ、ちょっと待ってください……」
廊下の向こうで、秀明おじさんの低い詫び声が、延々と続きました。
エリカちゃんは、縁側で、首をかしげていました。
「私、何が悪いのかしら」
「全部だよ!」
「煩悩を払う行為なのよ」
「払う前に近所の安眠が払われてる!」
山本先生は、すっと胃薬を二錠、口に入れました。
「先生、今日二袋目です」
「気のせいです」
「先生、もう七袋目くらいです」
「……七袋目です」
「数えてた」
時計の針が、零時を回りました。
「あけまして、おめでとう」
エリカちゃんが、にっこり笑いました。
「あけまして、おめでとう、エリカちゃん」
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとうでちゅ!」
「あけまして、おめでとう」
「にゃあ」
「ぷるん」
「あけまして、おめでとうございます」
みんなが、口々に、新年の挨拶を交わしました。
ただし、玄関の方からは、まだ秀明おじさんの謝罪の声が続いていました。
「ええ、ええ、すみません、来年は静かに、ええ、ええ……」
「秀明おじさん、お正月の挨拶、後回しね」
「あとでまとめてやるよ……」
なお、その日のチェーン荘の冷蔵庫には、新しいメモが貼られました。
年越しそばは、薬味を選んで、ゆっくり食べましょう。
その下に、小さくこう書かれていました。
※除夜の鐘の代わりに、チェーンソーを百八回吹かすのは、近所迷惑になります。
※甘い系の薬味は、別の機会に試しましょう。
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