第64話 「エリカちゃんと風邪」
ある朝のチェーン荘。
「エリカお姉ちゃーん、朝稽古しよー」
惠那ちゃんが、いつものように襖を開けました。
しかし、布団から返事がありません。
「エリカお姉ちゃん?」
布団がもぞもぞと動いて、金髪ツインテールが半分だけ出てきました。
「……うにゅ」
「あれ?」
惠那ちゃんは首をかしげました。
エリカちゃんの顔が、ほんのり赤いのです。
そして、額に汗。
呼吸が、いつもより少しだけ早い。
「海斗君ー! エリカお姉ちゃんが、なんか変ー!」
惠那ちゃんの声に、台所から海斗君が飛んできました。
「どうしたの!?」
海斗君がそっと額に手を当てます。
「……熱い」
「熱い?」
「すごく熱いよ。エリカちゃん、風邪だ」
その瞬間。
布団の中から、けたたましいエンジン音が、低く、低く、鳴り始めました。
ウィ……ィィン……。
「エリカちゃん、寝てるのにチェーンソー出してる!」
「うにゅ……敵が……前髪揃えて……」
「夢の中で何してるの!?」
海斗君はあわてて布団から、ぐいっとチェーンソーを引き抜きました。
「カトリーヌ、いったん預かるね」
ウィン……。
カトリーヌは、しぶしぶ静かになりました。
「うー、海斗くーん……」
エリカちゃんが、布団の中から手を伸ばしました。
「氷……いらない……」
「氷、いるよ。冷やそうね」
「うー、海斗くんの手の方が冷たい……」
「そう?」
「あったかい……」
「どっち!?」
エリカちゃんはふにゃっと笑って、また目を閉じました。
廊下から、ぞろぞろと住人たちが顔を出します。
「どうしたの?」
花子さんがトイレから半身を覗かせました。
「エリカちゃん、風邪だって」
「あら、珍しい」
「エリカちゃんも風邪ひくの?」
「ひくみたいだね」
惠那ちゃんは算盤を取り出しました。
「医療費、概算」
「治療費じゃないよ、ただの風邪だよ」
「念のため、収支」
「真剣にやめて!」
エリポンが、ぽんっと煙を出してエリカちゃんに化けました。
「エリポンが代わりに学校に行くでちゅ!」
「だめだよ、すぐバレるから!」
「しっぽ、しまったでちゅ!」
「出てるよ、後ろ!」
「あれー?」
化け猫さんは枕元で丸くなり、エリカちゃんの頬をふみふみしました。
「にゃあ」
「猫の手は、温かいわね……」
エリカちゃんが、ぼんやり笑いました。
そこへ、秀明おじさんがやって来ました。
「俺は、看病は苦手だぞ」
「おじさんは、薬局でスポーツドリンクとゼリーを買ってきて」
海斗君がてきぱき指示します。
「あいよ」
「あと、おかゆの米を多めに」
「おう」
秀明おじさんは、なぜか少しほっとした顔で出かけていきました。
「秀明おじさん、看病より使い走りの方が安心するんだね」
「責任が軽いからね」
海斗君は氷枕を準備し、タオルを絞り、エリカちゃんの額に置きました。
「気持ちいい?」
「うー……」
「うん、わかった。冷やすね」
ぴた。
ぴた。
エリカちゃんは、海斗君の手の動きをぼんやり目で追っていました。
「海斗君」
「なに?」
「将来の旦那の練習ね」
「ぶっ」
海斗君は、絞っていたタオルを取り落としました。
「ええっ!?」
「うー……えへへ……」
「エリカちゃん、熱でおかしくなってる!」
「いつもよりちょっとだけ正直ね……」花子さんがトイレから論評しました。
「いつもじゃないの!?」
「私の見立てでは、いつもよ」
「補足はいいから!」
惠那ちゃんは、布団の脇でメモを取っていました。
「『練習』、発言記録」
「記録しないで!」
「あとで利息つけて請求」
「何を!?」
エリポンは布団の中にもぐりこんで、
「あったかいでちゅー」
「エリポン、出てきて! 熱がうつるよ!」
「狸は風邪ひかないでちゅー」
「ほんとに?」
「ほんとでちゅー、たぶん」
「たぶんなんだ……」
そこへ、玄関のチャイムが鳴りました。
ぴんぽーん。
「はいはい」
海斗君が出てみると、玄関には、両手にお見舞いの紙袋を提げた山本先生が立っていました。
「お見舞いに来ました」
「先生!」
「クラスのみんなも心配していて」
山本先生は、にっこり笑いました。
「エリカちゃん、起きていますか」
「うー、先生……」
部屋まで通すと、山本先生は枕元に正座しました。
そして、お見舞いの果物と、ゼリーと、なぜかしっかり封がしてある胃薬を取り出しました。
「胃薬は?」
「これは、私の常備薬です」
「先生用ですか?」
「先生用です」
「ここまで持ってこなくても」
「ここに来るのに、必要なんです」
「先生、それ持参してくる場所じゃないですよ……」
エリカちゃんが、ぼんやり目を開けました。
「先生」
「はい」
「私、ちゃんと、可愛いですか?」
山本先生は、少しだけ目を細めました。
そして、優しい声で言いました。
「可愛いですよ」
「ほんと?」
「ほんとです」
「やったあ」
エリカちゃんは、ふにゃっと笑って、また目を閉じました。
海斗君は、横でちょっとびっくりしていました。
「先生、優しい」
「風邪の子には、優しくします」
「いつもそうしてくれたら……」
「いつもは、いつものエリカちゃんなので」
「先生、強い……」
山本先生は、エリカちゃんの寝顔をしばらく眺めました。
そして、ぽつりと言いました。
「あなたのお母さんも、心配していると思いますよ」
エリカちゃんは、半分眠ったまま、小さく頷きました。
「うん」
「あとで、電話してあげなさい」
「うん」
それだけのやり取りでした。
海斗君は、なんとなく、聞いてはいけない種類の静かさを感じて、口を閉じていました。
山本先生は、すっと立ち上がりました。
「では、お大事に」
「先生、ありがとう」
「明日、無理なら休んでいいですよ。連絡帳は、海斗君に頼んでおきますから」
「はい」
帰り際、玄関で、山本先生は海斗君に小声で言いました。
「海斗君」
「はい」
「エリカちゃんを、よろしくね」
「……はい」
山本先生は、にっこり笑って、帰っていきました。
その夜。
エリカちゃんは、まだ少し熱が高くて、うとうとしていました。
布団の脇には、海斗君がずっと座っていました。
「海斗君」
「なに?」
「ずっと、ここにいて」
「うん。いるよ」
「明日も?」
「うん」
「あさっても?」
「うん」
「ずっと?」
海斗君は、少し顔を赤くしました。
「……うん」
「やったあ」
エリカちゃんは、満足そうに目を閉じました。
ウィ……ィィン……。
布団の足元で、カトリーヌが、また小さく唸りました。
夢の中で、まだ誰かの前髪を揃えているようです。
「カトリーヌは、休めないんだね……」
海斗君は、苦笑いしました。
三日後。
エリカちゃんはすっかり元気になり、いつも通り朝稽古をして、いつも通り塩辛のおにぎりを食べていました。
「海斗君」
「なに?」
「私、寝てるあいだ、何か変なこと言ってなかった?」
「……言ってなかったよ」
「ほんと?」
「ほんと、ほんと」
「ふうん」
エリカちゃんは、にっこり笑って、おにぎりにかぶりつきました。
惠那ちゃんが、すっと算盤を取り出しました。
「発言記録」
「えっ」
「『将来の旦那の練習ね』」
「ぶっ」
エリカちゃんは、お茶を吹きました。
「海斗君! 言ってないって言ったでしょ!」
「言ってないって言ったのは、僕だよ……」
「裏切り者ー!」
「裏切ってないよー!」
花子さんが、トイレから半身を覗かせました。
「私もちゃんと聞いてたわよ」
「花子さんまで!」
エリポンが、ぽんっと煙を出しました。
「エリポンも覚えてるでちゅ!」
「やめて、忘れて!」
エリカちゃんは、顔を真っ赤にして布団を頭からかぶり直しました。
「うー、もう一回風邪ひくー!」
「それは無理だよエリカちゃん!」
その日、チェーン荘には、いつもの騒がしさが戻りました。
なお、台所の冷蔵庫には、新しいメモが貼られました。
風邪のときは、ゆっくり休みましょう。
その下に、小さくこう書かれていました。
※ただし、寝言は録音されることがあります。




