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第62話 「エリカちゃんと帰り道の落とし物」



温泉旅館ゆけむり館をあとにしたエリカちゃんたちは、白い中古ワゴンに乗って、チェーン荘への帰り道を走っていました。


運転しているのは秀明おじさん。


助手席には、赤いちゃんちゃんこを着た惠那ちゃん。


後部座席には、エリカちゃんと海斗君、花子さん、化け猫さん、そして温泉まんじゅうを大事そうに抱えたエリポンが座っています。


マリンちゃんは、荷物スペースの透明ケースの中でぷるぷる揺れていました。


「いい温泉だったわね、海斗君」


エリカちゃんは窓の外を眺めながら言いました。


山の木々は赤や黄色に染まり、ところどころ葉が道に降り積もっています。


「うん。温泉も気持ちよかったし、旅館も助かってよかったね」


「次は雪見風呂ね」


「うん。男女別でね」


「海斗君、まだそれを気にしてるの?」


「気にするよ!」


海斗君は、温泉での混浴騒動を思い出して顔を赤くしました。


花子さんは後部座席で、うっとりとため息をつきました。


「私はあの旅館の二番目の個室が忘れられないわ……。静かで、広くて、便座も綺麗で……」


「旅行の思い出がトイレだけなの?」


海斗君が聞きました。


「温泉もよかったわよ。でも幽霊にとって、良いトイレとの出会いは人生を変えるの」


「死後の人生だけどね……」


化け猫さんは窓辺で丸くなり、時々寂しそうに鳴いています。


「にゃあ……」


「湯煙さまと別れて寂しいのね」


エリカちゃんが言いました。


「にゃあ」


「また行けば会えるわよ」


「にゃあ」


その横で、エリポンは温泉まんじゅうの最後の一口を食べ終えました。


「ぽん……なくなったでちゅ……」


「さっき一個まるごと食べたばかりだよ」


「おなかは別腹でちゅ」


「エリポン、そういう言葉だけ覚えるの早いよね……」


秀明おじさんは、バックミラー越しに一行を見てため息をつきました。


「お前ら、帰り道くらい静かにできねえのか?」


「運転に集中して、おじさん」


惠那ちゃんは旅館の帳簿の写しを読みながら言いました。


「このまま冬の客を呼べれば、三か月で赤字幅を半分にできる」


「まだ旅館の経営のこと考えてるのかよ」


「黒字は心の温泉」


「意味がわからねえよ!」


そんな賑やかな車内でしたが、山道を下り始めた頃、急に道の前方が渋滞していました。


「なんだ?」


秀明おじさんがブレーキを踏みました。


前には数台の車が停まり、道の脇で何人かが何かを見ています。


「事故かな?」


海斗君が心配そうに窓から顔を出しました。


「見てくるわ」


エリカちゃんは、さっそく車のドアを開けました。


「待て待て、エリカ嬢ちゃん! チェーンソーを持っていくな! 事故処理に見えなくなる!」


「乙女のたしなみよ」


「峠道でチェーンソーを持った女の子が降りてきたら、事故より怖えよ!」


しかしエリカちゃんは、海斗君と一緒に人だかりへ向かいました。


道の脇には、落ち葉にまみれた小さな石碑がありました。


その石碑の前に、古びた日本人形が置かれています。


長い黒髪。


赤黒く変色した着物。


白い顔。


閉じたような、開いているような細い目。


そして、髪の毛の間から覗く額には、泥のような黒い染みが広がっていました。


「あれ、何だろう……」


海斗君が小さく言いました。


近くにいたドライバーのおじさんが、青い顔で答えました。


「知らねえよ。道の真ん中に突然転がってたんだ。誰かが避けようとして急ブレーキを踏んで、危うく事故になりかけたんだよ」


「人形が勝手に道に出たの?」


「まさか。でも、さっき脇にどけたはずなのに、また道の中央に戻ってたって……」


人々は不気味そうに人形を見つめていました。


そのとき。


エリカちゃんが、すたすたと人形へ近づきました。


「エリカちゃん!?」


海斗君が慌てます。


エリカちゃんは日本人形を両手で持ち上げました。


人形の長い黒髪が、秋風に揺れました。


「可愛いわね」


「どこが!?」


海斗君は悲鳴を上げました。


「だって、着物も綺麗だし、お顔も整ってるわ」


「怖いよ! 絶対に何かあるよ!」


「でも前髪が伸びすぎね。目に入って邪魔そう」


「見るところそこなの!?」


エリカちゃんは、人形を抱えて車へ戻りました。


「秀明おじさん。拾ったわ」


「置いてこい!」


秀明おじさんは即答しました。


「何でよ。捨てられてかわいそうじゃない」


「見るからに呪われてるだろうが!」


「そんなことないわよ。少し髪が乱れて、顔が汚れて、峠道の石碑の前に置かれて、勝手に道の真ん中へ戻ってきただけよ」


「呪われてる条件が揃いすぎてるよ!」


海斗君が叫びました。


花子さんも車の中から顔を出し、人形を見た瞬間に首を横に振りました。


「だめよエリカちゃん。それ、かなり嫌な気配がするわ」


「花子さんでもわかるの?」


「私だって幽霊だもの! あれは近づいちゃいけない種類の人形よ!」


化け猫さんも、背中の毛を逆立てました。


「ふしゃあああ!」


エリポンは惠那ちゃんの後ろに隠れました。


「ぽん……怖いでちゅ……」


マリンちゃんまで、透明ケースの中でいつもより激しく震えています。


ぷるぷるぷるぷる。


「みんな大げさね」


エリカちゃんは人形の顔をのぞき込みました。


「あなた、うちに来る?」


その瞬間。


人形の口元が、ほんの少しだけ笑ったように見えました。


「今、笑ったよね!?」


海斗君が叫びました。


「嬉しいのね」


「違うよ! たぶん獲物を見つけた顔だよ!」


「仕方ないわねえ……」


秀明おじさんは頭を抱えました。


「乗せるなら、せめてトランクに入れろ。後部座席に置くなよ」


「人形ちゃんがかわいそうよ」


「俺たちの命の方を心配しろ!」


結局、古い日本人形は、マリンちゃんのケースの隣に置かれてチェーン荘へ連れて帰られることになりました。


その間、人形はずっと無言でした。


ただ、車が峠を離れるとき。


石碑の前を吹き抜けた風の中に、かすかな女の笑い声が混じっていたような気がしました。


夕方。


チェーン荘へ戻ってきたエリカちゃんは、日本人形を居間の棚の上に飾りました。


「ここなら綺麗に見えるわ」


「やめた方がいいと思うよ……」


海斗君は人形から少し離れた場所に座っていました。


「エリカちゃん、せめてお寺に持っていこうよ。供養とか必要だよ」


「明日、汚れを落として髪を整えてからにするわ」


「お寺に持っていく前に手入れするの?」


「女の子だもの。ぼさぼさの髪で人前に出るのは嫌でしょう?」


棚の上の人形の髪が、ゆらりと揺れました。


窓は閉まっています。


「今、髪が動いた!」


海斗君がエリカちゃんの袖をつかみました。


「海斗君、怖いの?」


「怖いよ!」


「大丈夫よ。海斗君は私が守るから」


「うれしいけど、その人形を連れてきたのもエリカちゃんなんだよ!」


秀明おじさんは、人形を見ないようにしながら晩ご飯の準備をしていました。


「いいか。俺は今夜、絶対にあの人形の近くでは寝ないからな」


「おじさんの部屋は二階だから遠いでしょ」


「こういう人形は距離を無視するんだよ!」


花子さんは、一階トイレの扉から半分だけ顔を出しました。


「私も今日はトイレの扉を閉めて寝るわ」


「花子さん、扉を閉める意味あるの?」


「気分の問題よ!」


惠那ちゃんは人形をじっと見つめていました。


「これ、売れるかな」


「呪いより金額を気にするの!?」


海斗君が驚きました。


「古い人形なら骨董価値があるかもしれない」


人形の顔が、ぴくっと引きつったように見えました。


「たぶん、この子は売られたくないと思うわ」


エリカちゃんが言いました。


「価値があれば売らない。資産として保管する」


人形の顔が、さらに嫌そうに見えました。


「惠那ちゃんの方を警戒してる……」


海斗君は震えました。


その夜。


夕食を食べ終えた一行は、それぞれの場所で眠ることになりました。


エリカちゃんは自分の部屋。


海斗君は泊まっていくことになり、客間。


秀明おじさんは二階の自室。


惠那ちゃんは押し入れの中の札束のそば。


花子さんは一階トイレ。


エリポンと化け猫さんは居間の座布団。


マリンちゃんは透明ケースの中。


そして、日本人形は居間の棚の上。


消灯後のチェーン荘は、珍しく静かでした。


時計の針が、こち、こち、と進みます。


午前零時。


棚の上の人形の目が、ゆっくりと開きました。


黒い髪が、床へ向かってするすると伸びます。


人形は棚から、ことり、と降りました。


そして小さな足で、廊下へ向かって歩き始めました。


ぎし。


ぎし。


最初に向かったのは、秀明おじさんの部屋でした。


二階の部屋で、秀明おじさんはいびきをかいて眠っていました。


「ぐがー……もう帳簿は見たくねえ……温泉も混浴も知らねえ……」


その枕元へ、日本人形が立ちました。


長い髪が、ゆっくりと秀明おじさんの首へ伸びていきます。


するする。


髪は首に巻きつき、ぎゅっと締め始めました。


「ぐ……ぐが……」


秀明おじさんは苦しそうに寝返りを打ちました。


人形の口元が、にやりと歪みます。


しかし。


「……雨樋の修理は別料金だぞおおお!」


秀明おじさんは、寝ぼけたまま突然大きく腕を振り回しました。


ごんっ!


人形は勢いよく壁へ叩きつけられました。


さらに秀明おじさんは寝返りを打ち、工具箱を蹴飛ばしました。


がらがらがら!


中から飛び出した金槌やメジャーやドライバーが、全部人形の上に降り注ぎます。


ごん。がん。ごつん。


「……」


人形は床でしばらく動きませんでした。


秀明おじさんは、何事もなかったように再びいびきをかき始めました。


「ぐがー……」


数分後。


人形は、よろよろと立ち上がりました。


額には新しい傷が増えています。


どうやら秀明おじさんを襲うのは諦めたようです。


人形は次の標的へ向かいました。


次に人形が向かったのは、一階トイレでした。


扉の前に立ち、長い髪を鍵穴へ差し込みます。


かちゃり。


扉が静かに開きました。


中では、花子さんが便器の上に浮かびながら眠っています。


「むにゃ……ここの個室は私のものよ……ゆけむり館の二番目の個室も……」


人形は、すうっと花子さんへ近づきました。


白い手を伸ばし、眠っている花子さんの髪をつかもうとします。


その瞬間。


じゃああああああああ!


突然、トイレの水が勢いよく流れました。


「きゃあっ!?」


驚いたのは人形の方でした。


寝ぼけた花子さんが、反射的にレバーへ手をかけてしまったのです。


「な、何!? 誰!?」


花子さんが目を覚ましました。


人形は慌てて飛びかかろうとしましたが、足元が濡れていたため滑りました。


つるっ。


そのまま便器の縁へ突っ込みます。


「いやあああ! 私のトイレに知らない人形が入ってきたあああ!」


花子さんは悲鳴を上げ、もう一度レバーを引きました。


じゃああああああああ!


「流れて! 出て行って! ここは私の家なの!」


人形はさすがに便器の中へ完全には流れませんでしたが、頭から水を浴び、髪をびしょびしょにして廊下へ転げ出ました。


「うう……怖かった……。エリカちゃん、変なものを拾ってくるから……」


花子さんは震えながら扉を閉め、鍵をかけました。


廊下では、日本人形がびしょ濡れのまま震えていました。


人間を呪うつもりで来たはずなのに、幽霊にトイレから追い出されたのです。


人形の顔には、早くも後悔が浮かんでいました。


それでも、人形はまだ諦めませんでした。


濡れた髪を引きずりながら、居間へ向かいます。


居間には、座布団の上でエリポンと化け猫さんが眠っていました。


「ぽん……おまんじゅう……もっとでちゅ……」


「にゃあ……」


人形は、まずエリポンへ近づきました。


温泉で全開になった尻尾は、まだ完全に元へ戻っておらず、布団のように広がっています。


人形はその尻尾へ手を伸ばしました。


そして、一本の尻尾をつかみました。


「ぽん?」


エリポンが薄目を開けました。


「ぽん! 尻尾を踏んだでちゅ!」


人形は呪うどころか、怒ったエリポンに尻尾で弾き飛ばされました。


ぼふんっ!


「ぽん! エリポンの尻尾はまんじゅうじゃないでちゅ!」


人形は畳の上を転がり、壁へぶつかりました。


その音で化け猫さんも目を覚ましました。


「ふしゃああああ!」


化け猫さんは、人形を見るなり臨戦態勢になりました。


人形も負けじと長い髪を伸ばします。


黒い髪が、蛇のように化け猫さんへ襲いかかりました。


しかし化け猫さんは、猫らしい俊敏な動きでひらりとかわしました。


そして、人形の頭へ飛び乗ります。


「にゃあああ!」


ばりばりばりばり!


「…………!」


人形の顔に、猫の爪痕が盛大につきました。


「化け猫さん、人形で爪を研いでるでちゅ!」


「にゃあ!」


人形は必死に逃げ出しました。


温泉で意気投合した湯煙さまと離れた寂しさを、爪研ぎで晴らされてしまったようです。


人形はすっかり髪を乱し、額に傷をつけ、着物をほつれさせた状態で、荷物スペースの前まで逃げました。


そこには、透明ケースの中で眠っているマリンちゃんがいました。


ぷるん。


人形は、これなら襲いやすいと思ったのでしょう。


ケースの縁をよじ登り、マリンちゃんの中へ長い髪を伸ばしました。


黒い髪が、ぬるりとマリンちゃんに触れます。


次の瞬間。


じゅわあああああ。


人形の髪の先が、溶けました。


「…………!?」


人形は声にならない悲鳴を上げました。


マリンちゃんは、寝ぼけたまま髪の毛を取り込みます。


ぷるん。


じゅわじゅわじゅわ。


「…………!!」


慌てて髪を引き抜いたときには、長かった黒髪の右半分が、肩のあたりまで溶けていました。


ぷるるん。


マリンちゃんは、少しだけ満足そうに震えました。


どうやら夜食だと思ったようです。


人形は、完全に心が折れかけていました。


峠道では、車を止め、人々を怯えさせた恐怖の呪い人形。


それが今では、


工具箱に殴られ、


トイレで流され、


狸の尻尾で吹き飛ばされ、


猫に爪を研がれ、


スライムに髪を溶かされました。


「……」


それでも、最後に一人だけ、まだ襲っていない相手がいました。


赤いちゃんちゃんこの少女。


惠那ちゃんです。


人形は、ぼろぼろの姿のまま、廊下を進みました。


惠那ちゃんは、押し入れの中にいました。


周囲には、きちんと束ねられた札束と、ゆけむり館の帳簿の写しが並んでいます。


惠那ちゃんは、座ったまま静かに眠っていました。


人形は、音を立てずに押し入れの前へ立ちました。


そして、両手を伸ばしました。


呪いをかければいい。


この少女なら、小さいし、眠っているし、きっと簡単に恐怖に陥れられる。


人形の髪が、黒い霧のように広がりました。


すると。


「……鑑定」


惠那ちゃんが、目を閉じたまま呟きました。


人形の動きが止まりました。


「江戸末期風の量産品。着物に染み。髪の欠損。顔に爪傷。額に打痕。水濡れあり。呪い付きで購入層が限られる」


惠那ちゃんは、ぱちりと目を開けました。


そして、目の前の人形を真顔で見ました。


「現在価値、二百円」


人形の全身が、がたがたと震えました。


「怖いから、追加で処分費がかかる。実質、マイナス五百円」


「…………!」


人形は、今までにないほど激しく震えました。


恐ろしい呪いを受けたからではありません。


自分の価値を、完全に否定されたからです。


「売れない」


惠那ちゃんは、ふいっと顔を背けました。


「エリカちゃんに返す」


人形は、よろよろと後退しました。


そして、押し入れから逃げ出しました。


もはや誰かを呪う気力は残っていませんでした。


翌朝。


「きゃあああああああ!」


チェーン荘に、エリカちゃんの悲鳴が響きました。


海斗君は飛び起きました。


「エリカちゃん!? どうしたの!?」


慌てて居間へ向かうと、エリカちゃんが棚の前に立ち、震えながら日本人形を抱えていました。


「海斗君! 大変よ!」


「やっぱり人形が襲ってきたの!?」


「髪がぼさぼさになってるわ!」


「そこ!?」


日本人形は、見るも無惨な姿になっていました。


長かった黒髪は右半分が溶け、左半分は猫に引っかかれて乱れています。


顔には爪痕。


額には工具箱でついた傷。


着物は濡れてよれよれ。


前髪は顔の半分を覆うように垂れ下がっていました。


「昨日より怖くなってるよ!」


海斗君が叫びました。


すると、花子さんが一階トイレから出てきました。


「あ、その人形! 夜中に私のトイレに侵入してきたのよ!」


「私の部屋にも来たみたいだぞ。朝起きたら工具箱がひっくり返ってやがった」


秀明おじさんも階段を下りてきました。


「ぽん! 尻尾をつかまれたでちゅ!」


エリポンが訴えました。


「にゃあ!」


化け猫さんは、人形を見て威嚇しました。


ぷるん。


マリンちゃんは、髪の毛を少し消化したのか、いつもより黒っぽく揺れています。


「まさか……」


海斗君は青ざめました。


「この人形、本当にみんなを襲ったの?」


「そうみたいね」


エリカちゃんは人形を持ち上げました。


人形は、恐ろしい顔で睨み返して――


いるように見えましたが、実際にはもう震えているだけでした。


「エリカちゃん、すぐにお寺へ持っていこう!」


海斗君が言いました。


「このままじゃ、また夜に動き出すかもしれないよ!」


「そうね」


エリカちゃんは真剣な顔でうなずきました。


人形の表情が、少しだけ安心したように見えました。


ようやく供養してもらえる。


これで、この恐ろしいアパートから逃げられる。


しかし。


エリカちゃんは、にっこり笑いました。


「まずは身だしなみを整えないとね」


「え?」


海斗君と人形が、同時に固まりました。


エリカちゃんは、どこからともなく小さめのチェーンソーを取り出しました。


ウイイイイイイイイイイイン!


「いやあああああああ!」


花子さんが叫びました。


人形も、声は出ませんでしたが、同じような悲鳴を上げた気がしました。


「エリカちゃん! 供養ってそういう意味じゃないよ!」


「大丈夫よ。前髪を整えるだけだから」


「チェーンソーで!?」


エリカちゃんは、人形を椅子の上に座らせました。


首元に白い布を巻き、まるで美容院のお客さんのように準備します。


「お客様、今日はどうなさいますか?」


人形は答えません。


というより、恐怖で答えられません。


「前髪が目にかかって暗い印象だから、明るく可愛くしましょうね」


「呪い人形相手に美容師さんごっこ始めた!」


海斗君が叫びました。


惠那ちゃんは、そろばんを抱えながら言いました。


「見た目が良くなれば、査定額は上がるかもしれない」


人形の肩がびくっと震えました。


「売られるのが怖いのか、斬られるのが怖いのか、もうわからないわね」


花子さんが呟きました。


「いくわよ」


エリカちゃんは、器用にチェーンソーの刃先を動かしました。


ぶいん。


ぱらり。


ぶいん。


ぱらり。


床に黒い髪が落ちていきます。


海斗君は両手で目を覆いました。


「怖くて見られないよ……」


「終わったわ」


エリカちゃんの声に、海斗君は恐る恐る目を開けました。


そこには。


綺麗に前髪を揃えられた日本人形が座っていました。


髪の右半分はマリンちゃんに溶かされて短くなっていたため、エリカちゃんは左側も同じ長さに整え、肩のあたりで揃えたおかっぱ頭にしてしまったのです。


顔の爪傷は、花子さんが濡れ布巾で拭いたら、泥汚れごと薄くなりました。


着物も、惠那ちゃんが「商品価値が下がる」と言いながら丁寧に乾かして整えました。


結果として。


峠道に捨てられていた恐ろしい呪いの日本人形は、少し古いけれど可愛らしい、普通のおかっぱ人形になっていました。


「可愛くなったわね」


エリカちゃんは満足そうに言いました。


「うん……怖さは減ったね」


海斗君も、少しだけ安心しました。


花子さんは人形をまじまじと見ました。


「何だか、私に似てない?」


「おかっぱだからね」


「仲間が増えたでちゅ!」


エリポンが嬉しそうに言いました。


化け猫さんは、人形の前に座り、今度は爪を出さずに匂いを嗅ぎました。


「にゃあ」


ぷるん。


マリンちゃんも、もう溶かそうとはしませんでした。


惠那ちゃんは、改めて人形を鑑定しました。


「髪型改善。清掃済み。着物乾燥済み。見た目良好」


「価値は上がったの?」


エリカちゃんが聞きました。


「五百円」


人形は、なぜか少しだけ胸を張ったように見えました。


「上がって喜んでる!?」


海斗君が驚きました。


そのとき。


人形の中から、ふわりと黒い煙のようなものが立ち上りました。


花子さんが身構えます。


「呪いが出てくるわ!」


「大丈夫よ」


エリカちゃんは、チェーンソーを人形の前に置きました。


「まだ文句があるなら、もう少し整えるわよ」


黒い煙は、ぴたりと止まりました。


そして、慌てるように小さく縮み、そのまま消えていきました。


人形は、完全に動かなくなりました。


「……呪いが逃げた」


花子さんが呆然と言いました。


「前髪を斬られるのがそんなに嫌だったのかな……」


海斗君は複雑な顔をしました。


「髪は女の命だもの」


エリカちゃんは当然のように言いました。


「その大事なものをチェーンソーで整えたんだよね……」


「綺麗になったから問題ないわ」


秀明おじさんは、頭をかきながら人形を見下ろしました。


「結局、お寺には持っていかねえのか?」


「もう呪いもないみたいだし、うちに置いておくわ」


「また住人が増えるのかよ……」


「人形だから家賃はいらない」


惠那ちゃんが言いました。


「そこを気にしてたの!?」


エリカちゃんは、普通の人形になった日本人形を玄関の棚へ飾りました。


「これからは、うちの玄関を守ってね」


人形は返事をしません。


ただ、前髪の揃った顔は、昨日より少しだけ穏やかに見えました。


海斗君は、そっと人形の前に小さなお菓子を置きました。


「もう夜中に歩かないでね」


エリカちゃんはその横で、にこにこと笑いました。


「歩いてもいいわよ。前髪が伸びたら、また整えてあげるから」


その瞬間。


人形が、ほんの少しだけ震えました。


「まだ意識あるよね!?」


海斗君の叫び声が、チェーン荘の玄関に響きました。


数日後。


町では、峠道に出る呪いの日本人形の噂がぱったりと消えました。


代わりにチェーン荘の玄関では、可愛らしいおかっぱの日本人形が、訪れる人を静かに迎えるようになりました。


ただし。


夜中に前髪がほんの少しでも伸びていると、翌朝には必ず綺麗に切り揃えられていたそうです。


誰が切っているのかは、誰も聞こうとはしませんでした。


聞けば、きっと。


「私よ。縁起が悪いから整えたの」


そう答える金髪ツインテールの女の子が、チェーンソーを持って笑っているに決まっているからです。


こうして、峠道の呪い人形は、チェーン荘に拾われた結果――


秀明おじさんに殴られ。


花子さんに流され。


エリポンに吹き飛ばされ。


化け猫さんに爪を研がれ。


マリンちゃんに髪を溶かされ。


惠那ちゃんに値踏みされ。


最後はエリカちゃんに前髪を整えられ。


ただの可愛い人形へと格下げされたのでした。


秋の終わり。


山から吹く風は、少しずつ冷たくなり始めています。


チェーン荘にも、そろそろ冬支度の季節が近づいていました。

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