第61話 「エリカちゃんと旅館の女将」
温泉に入って、豪華な夕食を食べて、ふかふかの布団で眠った翌朝。
普通の旅行客なら、すっきりした顔で朝風呂に向かうところです。
しかし、チェーン荘の一行は違いました。
「……ぽん……」
エリポンは、畳の上でぐったりしていました。
昨夜、温泉で化けの力が緩み、何本もの尻尾が全開になったうえ、その尻尾がなかなか乾かなかったのです。
今朝もまだ、ふさふさの尻尾は少しだけ湿っていました。
「エリポン、重そうね」
エリカちゃんが尻尾を一本持ち上げると、エリポンは涙目になりました。
「重いでちゅ……。昨日より、おしりがいっぱいある気分でちゅ……」
「尻尾がいっぱいあるんだから、だいたい合ってるよ」
海斗君が言いました。
その海斗君も、まだ少し顔が赤いままでした。
昨夜、露天風呂で混浴騒動に巻き込まれたあと、浴衣姿のエリカちゃんと脱衣所の前で鉢合わせして、危うく昇天しかけたからです。
「海斗君、まだ湯あたり?」
エリカちゃんが心配そうに顔をのぞき込みました。
「だ、大丈夫だよ」
「顔が赤いわ」
「これは、その……温泉のせいだから!」
「昨日、惠那ちゃんが“エリカあたり”って言ってたわよ」
「その病名は忘れて!」
海斗君はますます赤くなりました。
部屋の隅では、花子さんが旅館のお茶をすすっていました。
「それより私、ここのトイレが気に入ったわ」
「旅行先で真っ先にトイレの住み心地を評価する幽霊って、花子さんくらいだよね」
「綺麗で静かで、個室も広いのよ。チェーン荘のトイレより落ち着くわ」
「うちのトイレから引っ越す気?」
エリカちゃんが尋ねると、花子さんは慌てて首を横に振りました。
「ち、違うわよ! チェーン荘はチェーン荘で居心地いいもの! ただ、別荘としては素敵だと思っただけ!」
「幽霊が温泉旅館に別荘を持とうとしてる……」
海斗君は、もう何に突っ込めばいいのかわからなくなっていました。
化け猫さんは窓辺で丸くなり、その隣では昨夜現れた湯の精霊、湯煙さまが当然のように朝食のお魚を待っていました。
「にゃあ」
「うむ。朝は干物に限るのう」
「にゃあ」
「温泉卵も捨てがたいとな。まったく、おぬしとは話が合う」
「まだいるのね、湯煙さま」
花子さんが言いました。
「わしの温泉じゃからな。むしろ泊まりに来たのはおぬしらじゃ」
「それはそうだけど……」
そんな中。
一人だけ、まったく温泉旅行らしくないことをしている者がいました。
赤いちゃんちゃんこを着た惠那ちゃんです。
惠那ちゃんは、部屋の隅に置いてあった旅館の案内冊子、朝食の献立表、売店の値札、そしてなぜか昨夜仲居さんから借りてきた紙の束を、畳の上に並べていました。
「朝食の原価が高すぎる……。温泉まんじゅうの包装代も無駄……。平日の空室率も深刻……」
「惠那ちゃん、旅行に来たんだよね?」
海斗君が恐る恐る尋ねました。
「来た」
「なのに、どうして旅館の経営分析をしてるの?」
「見つけてしまったから」
「何を?」
惠那ちゃんは、静かに顔を上げました。
「赤字の匂い」
その言葉を聞いた瞬間。
部屋の外で、がたん、と何かが落ちる音がしました。
「……おや?」
秀明おじさんが障子を開けると、廊下に着物姿の女性が立っていました。
昨夜、玄関で一行を迎えた、旅館の女将さんです。
けれど今の女将さんは、顔を真っ青にして、惠那ちゃんをじっと見つめていました。
「ま、まさか……その赤いちゃんちゃんこ……その金勘定の鋭さ……」
惠那ちゃんは、表情を変えないまま女将さんを見上げました。
「久しぶり、福乃先輩」
「やっぱり惠那ちゃん!?」
女将さん――福乃さんは、悲鳴のような声を上げました。
「知り合いなの?」
エリカちゃんが首をかしげました。
福乃さんは、畳の上に両膝をつきました。
「知り合いも何も、この子は座敷わらし界の将来有望株だった子です!」
「座敷わらし界に将来有望株ってあるんだ……」
海斗君が驚きました。
「あるのよ!」
花子さんがなぜか知ったような顔で言いました。
「家に幸運をもたらす量とか、金運の呼び込み方とか、家主の人生をどれだけ豊かにできるかとかで、だいたい格が決まるの」
「花子さん、詳しいのね」
「怪異の間では有名なのよ。惠那ちゃんは、住み着いた家をうっかり大金持ちにしすぎる危険人物――じゃなくて、危険怪異で有名だったわ」
「危険怪異」
惠那ちゃんは少しだけ不満そうに言いました。
「褒めてるのよ」
「褒めてないと思うよ」
福乃さんは、懐かしそうに惠那ちゃんを見つめました。
「私は昔、山奥の旅館や商家を担当する座敷わらしたちのまとめ役をしていたの。惠那ちゃんは私の後輩だったのよ」
「先輩だったのね」
エリカちゃんが言いました。
「でも、どうして今は女将さんなの?」
「……この旅館に、居残ったからです」
福乃さんは、少し寂しそうに笑いました。
「昔、この旅館は毎日満室になるほど栄えていました。私が座敷わらしとして棲みついてから、商売はますます繁盛して……先代の女将さんは、私を家族のように大切にしてくれました」
「いい話ね」
エリカちゃんが言いました。
「はい。だから、先代が亡くなったあとも、この旅館を離れられなかったんです。いつの間にか人の姿で働くようになり、帳場に座り、気がつけば女将になっていました」
「座敷わらしが女将に出世したのね」
「出世というより、住み込み労働の究極形だな」
秀明おじさんが言いました。
「でも、おかしい」
惠那ちゃんが首を傾げました。
「福乃先輩がいるなら、この旅館はもっと繁盛しているはず」
福乃さんの顔が曇りました。
「それが……最近は、どうにも運気が回らなくなってしまって」
「どうして?」
「近くに新しい大型温泉施設ができまして。日帰り客も団体客も、そちらへ流れてしまったんです。建物の修繕費もかさみ、食材費も上がり、広告を出す余裕もなくなって……」
福乃さんは震える手で、帯の中から一冊の帳簿を取り出しました。
「このままでは、来月にも廃業です」
部屋の空気が、少しだけ静かになりました。
湯煙さまも、さすがに笑顔を引っ込めました。
「そうであったか……。最近、風呂場に客の笑い声が少ないとは思っておったが……」
化け猫さんが、しょんぼりと鳴きました。
「にゃあ……」
福乃さんは、惠那ちゃんの前に帳簿を差し出しました。
「お願い、惠那ちゃん。もう一度、この旅館に金運を呼び戻して!」
「金運……」
惠那ちゃんの目が、きらりと光りました。
海斗君は、その光を見て嫌な予感がしました。
「惠那ちゃん、変なことしないよね?」
「変なこと?」
「株とか、賭け事とか、危ない土地を買うとか……」
福乃さんはぎくりと肩を揺らしました。
「実は……去年、旅館を立て直そうとして、山の向こうの土地を買って新館を建てようと……」
「やったの?」
「途中で資金が尽きました……」
「だめ」
惠那ちゃんは即答しました。
「それから、温泉街の福引きで一等を当てれば宣伝になるかと思って、景品を豪華にしすぎて……」
「だめ」
「あと、海外の観光客を呼び込もうと、よくわからない投資会社の勧めで――」
「だめ」
惠那ちゃんの声が、少しずつ低くなっていきました。
福乃さんは、しゅんと小さくなりました。
「昔から、福乃先輩はお金を呼ぶのは得意だけど、使うのが下手だった」
「うっ……」
「だから条件がある」
惠那ちゃんは、立ち上がりました。
そして、座敷わらしとは思えないほど厳しい声で宣言しました。
「投資、禁止」
「はい……」
「不動産、禁止」
「はい……」
「カジノ、賭け事、福引きでの一発逆転、禁止」
「はい……!」
「意味のわからない経営コンサルタントにお金を払うのも禁止」
「はいぃ……!」
「追加で、帳簿は全部見せる。隠し借金も、未払いも、売店の在庫も、厨房の仕入れも、全部」
福乃さんは、涙目で頭を下げました。
「お、お願いします……!」
「惠那ちゃんがすごく頼もしく見える……」
海斗君が呟きました。
「普段は札束で人を殴ろうとする子なのにね」
花子さんも感心しています。
「それ、頼もしいのかなあ……」
その日、朝食のあとから、旅館の再建作戦が始まりました。
まず惠那ちゃんは、帳場の奥に積まれていた帳簿を全部引っ張り出しました。
「これは?」
「先月分の仕入れ帳です」
「こっちは?」
「売店の在庫です」
「この箱は?」
「新館建設用に買った、金色の招き猫です……」
大きな段ボール箱を開けると、ぎらぎらに光る招き猫が何十体も入っていました。
「いらない」
「でも金運が上がりそうで……」
「座敷わらしが招き猫に金運を頼ってどうするの」
「ごもっともです……」
化け猫さんが招き猫を見て、ふしゃあっと毛を逆立てました。
「にゃあ!」
「偽物の猫が気に入らないのね」
エリカちゃんが言いました。
「にゃあ!」
「では、処分ね」
惠那ちゃんが帳面に書き込みました。
「待って! まだ未使用だから売れるかもしれないわ!」
福乃さんが慌てます。
「じゃあ売る。損切り」
「座敷わらしから損切りって言葉を聞きたくなかった……」
秀明おじさんが遠い目をしました。
次に、惠那ちゃんは厨房へ向かいました。
料理長のおじさんが、緊張した顔で出迎えます。
「朝食はおいしかった」
惠那ちゃんが言いました。
「ありがとうございます!」
「でも品数が多すぎる。食べきれず残される料理が多い」
「うっ……」
「豪華に見せたい気持ちはわかる。でも捨てる料理にお金をかけるのはだめ」
「は、はい……」
「その代わり、名物を作る」
「名物?」
惠那ちゃんの視線が、エリカちゃんに向きました。
「エリカちゃん。昨日、何がおいしかった?」
「川魚と温泉まんじゅうと、朝の温泉卵ね」
「海斗君は?」
「僕は山菜の炊き込みご飯かな」
「花子さんは?」
「夜中にこっそり食べた、売店の黒蜜まんじゅう」
「勝手に食べたの!?」
海斗君が叫びました。
「幽霊だから代金を置く習慣がなくて……」
「だめ。払う」
惠那ちゃんが容赦なく言いました。
「はい……」
「エリポンは?」
「ぽん! 全部でちゅ!」
「参考にならない」
「ぽん!?」
エリポンは尻尾をしょんぼり垂らしました。
惠那ちゃんは少し考え、紙に文字を書きました。
湯煙温泉卵つき 山菜炊き込み朝膳
化け猫さんおすすめ 川魚の塩焼き御膳
花子さんも夜中に食べた 黒蜜温泉まんじゅう
「最後の宣伝文句、怖くない!?」
花子さんが叫びました。
「でも本当」
「本当だけど!」
湯煙さまは嬉しそうにひげを撫でました。
「わしの名も使うがよいぞ。湯煙さまの長寿温泉卵というのはどうじゃ?」
「長寿なの?」
海斗君が聞きました。
「気分じゃ」
「気分なんだ……」
その頃、秀明おじさんは旅館の建物を見て回っていました。
「雨樋が外れかけてるな。廊下の板も一部沈んでる。露天風呂の仕切りは……」
秀明おじさんは、昨夜エリカちゃんがチェーンソーで戻した竹垣を見ました。
「昨日より頑丈になってやがる……」
「私が直したもの」
エリカちゃんが誇らしそうに言いました。
「お前、斬るより直す方を覚えたら普通に役立つんじゃねえか?」
「私は斬って整える派よ」
「理容師みたいに言うな」
秀明おじさんは工具箱を取り出しました。
「まあ、大掛かりな工事は無理だが、危ないところくらいは直してやるよ」
福乃さんは深々と頭を下げました。
「ありがとうございます!」
「宿代を安くしてくれればいい」
「もちろんです!」
「おじさん、初めてまともに役立ってるね」
海斗君が感心しました。
「坊主。俺は元々建築会社にいたんだぞ」
「普段、チェーン荘で壊れた壁を直してる姿しか見てないから……」
「壊してるのは大体エリカ嬢ちゃんだがな!」
「私は改装しているのよ」
「壊してから言うな!」
午後になると、惠那ちゃんは旅館中の従業員を大広間に集めました。
仲居さん。
料理長さん。
掃除のおばさん。
番頭さん。
そして、女将の福乃さん。
その前に、赤いちゃんちゃんこの小さな女の子が立っています。
見た目だけなら、完全に迷子の小学生です。
しかし手元には、帳簿とそろばんと、非常に厳しい数字が並んでいました。
「この旅館は、客がいないから潰れるんじゃない」
惠那ちゃんは言いました。
「来てくれたお客さんに、次も来てもらう仕組みがないから潰れる」
従業員たちが息を呑みました。
「平日の空室は、近所のお年寄り向けの安い湯治プランにする。余っている離れは、小さな集まりや家族会向けに貸す。売店は売れない置物を減らして、温泉まんじゅうと地元のお漬物を前に出す」
「お漬物……」
料理長さんが呟きました。
「冬支度の時期だから、地元のおばあちゃんたちが作った物を置けばいい。旅館が仕入れて売れば、お互い得する」
「惠那ちゃん、ちゃんとした経営をしてる……」
海斗君は本気で驚きました。
「あと」
惠那ちゃんは、窓辺で丸くなっている化け猫さんを指さしました。
「化け猫さんがいる日は、“猫が選んだ焼き魚の日”にする」
「にゃあ?」
化け猫さんが顔を上げました。
「湯煙さまが露天風呂に出る日は、“湯煙さまに会えるかもしれない夜”」
「わしが見世物になるのか?」
「嫌?」
「いや、楽しそうじゃ」
「軽いなあ、湯煙さま……」
花子さんが呆れました。
「そして、花子さん」
「え、私も!?」
「夜のトイレに出ない」
「何で!?」
「お客さんが逃げるから」
「私は旅館の売りにならないの!?」
「心霊プランを作る時まで待って」
「作る気はあるのね!?」
エリカちゃんは、にこにこしながら拍手しました。
「惠那ちゃん、すごいわ。これならお客さんがいっぱい来るわね」
「まだ足りない」
惠那ちゃんは、福乃さんへ向き直りました。
「福乃先輩。座敷わらしだった頃の力、まだ残ってる?」
福乃さんは、少しだけ目を伏せました。
「少しなら……。でも昔ほど強くはありません」
「使い方を変える」
「え?」
「大金を一気に呼ぼうとするから失敗する。お客さんが、この旅館を好きになって、また来たいと思うくらいの小さな幸運を配る」
福乃さんは、目を見開きました。
「小さな……幸運……」
「温泉に入ったら肩こりが少し楽になった。食事がおいしかった。忘れていた傘が見つかった。売店で買ったおまんじゅうを家族が喜んだ。それで十分」
「……惠那ちゃん」
福乃さんの目に、涙が浮かびました。
「座敷わらしは、家を大金持ちにするためにいるんじゃない」
惠那ちゃんは、少しだけ照れたように顔をそらしました。
「そこにいる人が、もう少し幸せに暮らせるようにするためにいる」
一瞬、広間が静かになりました。
エリカちゃんが、ぽつりと言いました。
「惠那ちゃん、いいこと言ったわね」
「うん……すごくいい話だね」
海斗君も感動していました。
すると惠那ちゃんは、すぐに帳簿へ目を戻しました。
「ただし、黒字は必要」
「急に現実に戻った!」
その夜。
ゆけむり館には、不思議なことが次々と起こりました。
まず、旅館の前を通りかかった観光バスが、山道の通行止めで急きょ宿を探すことになり、二十人分の宿泊予約が入りました。
次に、以前この旅館に泊まったことのある老夫婦が、偶然にも孫夫婦へ旅館の話をしており、家族旅行の予約が入りました。
さらに、売店に積まれていた売れ残りの温泉まんじゅうを試食に出したところ、到着した団体客が「おいしい」と次々に買っていきました。
「ま、まんじゅうが売り切れました!」
仲居さんが叫びました。
「追加で作る。でも数を読み違えて廃棄を出さないように」
惠那ちゃんは冷静でした。
「夕食の川魚御膳、追加注文が八件です!」
「化け猫さんを入口に座らせて」
「にゃあ?」
「おすすめしてる感じが出るから」
「にゃあ」
化け猫さんは、なぜか誇らしそうに帳場の横へ座りました。
観光客たちは、その姿を見て大喜びしました。
「あら、看板猫ちゃん!」
「可愛い!」
「写真撮っていいかしら?」
「にゃあ」
「化け猫さん、完全に旅館の営業部長になってる!」
花子さんが叫びました。
露天風呂では、湯煙さまがいつもより少しだけ湯気を綺麗に漂わせました。
紅葉の隙間から月が見え、白い湯気が幻想的に揺れます。
入浴客たちは、うっとりとその景色を眺めました。
「素敵ねえ」
「また来たいわね」
「写真に撮って娘に見せようかしら」
湯煙さまは、岩陰で得意げに胸を張りました。
「ふふん。わしもまだまだ捨てたものではないのう」
その後ろで、エリポンがこっそり温泉まんじゅうの箱へ近づいていました。
「ぽん……ひとつだけ……」
「だめ」
惠那ちゃんの声が、廊下の向こうから飛んできました。
「ぽん!?」
「商品に手を出したら、働いて返してもらう」
「エリポンも看板狸でちゅ!」
「じゃあ玄関に座る」
「ぽん……」
こうして、化け猫さんの隣には、ふさふさの尻尾を広げたエリポンまで座ることになりました。
「可愛い狸ちゃんもいる!」
「この旅館、動物がいっぱいで楽しいわね」
「また来ようね」
「ぽん……おまんじゅうが遠いでちゅ……」
エリポンは、誘惑と戦いながら看板狸を務めたのでした。
深夜。
すべてのお客さんが部屋へ戻ったあと、帳場の明かりだけがまだ点いていました。
福乃さんは震える手で、今日一日の帳簿を見つめていました。
「……黒字」
ぽろり、と涙が帳簿の上に落ちました。
「黒字です……。一日だけとはいえ、何年ぶりかしら……」
「よかったね、女将さん」
海斗君が言いました。
エリカちゃんも笑顔でうなずきました。
「これで旅館、続けられるのね」
「はい……はい! まだ借金も修繕もあります。でも、やり直せます。この旅館を、もう一度……!」
福乃さんは、惠那ちゃんの前に正座しました。
「ありがとう、惠那ちゃん。本当にありがとう」
惠那ちゃんは、少しだけ照れたように赤いちゃんちゃんこの袖を握りました。
「まだ一晩だけ。続けるには、福乃先輩がちゃんと管理すること」
「はい!」
「投資は?」
「しません!」
「不動産は?」
「買いません!」
「カジノは?」
「行きません!」
「金色の招き猫は?」
「売ります!」
「よし」
惠那ちゃんは、ようやく小さく笑いました。
秀明おじさんは、温泉上がりの牛乳を飲みながらため息をつきました。
「いやあ……旅行に来たはずが、旅館再建に立ち会うことになるとはな」
花子さんは、嬉しそうに言いました。
「でも、この旅館が残るなら、またあのトイレに泊まれるわ」
「花子さんの目的、最後までそこなんだ……」
マリンちゃんは、大きな器の中でぷるぷる震えていました。
「マリンちゃんも楽しめた?」
ぷるん。
「温泉に入れなかったから、次はマリンちゃん用のお風呂も作ってもらいましょうか」
エリカちゃんが言うと、秀明おじさんが即座に首を横に振りました。
「溶解液みたいなスライム専用風呂を旅館に作るな。浴槽が消える」
ぷるぷる。
「マリンちゃん、しょんぼりしてる……」
そのとき、福乃さんがぱっと顔を上げました。
「そうだわ!」
「どうしたの?」
「皆さんさえよろしければ、この旅館とチェーン荘で、姉妹提携を結びませんか?」
「姉妹提携?」
海斗君が首をかしげました。
「はい。チェーン荘の皆さんには、いつでも割引で宿泊していただけます。温泉も、宴会場も、保養所のように使ってください」
「保養所!」
花子さんの目が輝きました。
「専用トイレも?」
「空いていれば、お好きな個室を」
「素敵!」
「幽霊向けの特典が独特すぎるよ」
「温泉もいつでも入れるの?」
エリカちゃんが尋ねました。
「もちろんです」
「海斗君と来られるわね!」
「また混浴騒動はなしだからね!?」
「湯煙さまには言っておくわ」
「わしは次こそ、もう少し自然な流れで――」
「なしです!」
海斗君は珍しく強く言いました。
化け猫さんが、少し残念そうに鳴きました。
「にゃあ……」
「化け猫さんまで残念がらないで!」
惠那ちゃんは、提携契約書の紙を取り出しました。
「条件がある」
「はい、何でも!」
福乃さんが姿勢を正しました。
「チェーン荘の宿泊は格安。エリポンの食べた分は別会計。マリンちゃんによる設備損傷は要相談。花子さんのトイレ滞在は無料。化け猫さんには焼き魚一匹」
「にゃあ!」
「あと、私が定期的に帳簿を見る」
福乃さんは、力強くうなずきました。
「よろしくお願いします!」
「よし。提携成立」
惠那ちゃんと福乃さんは、しっかり握手をしました。
座敷わらしの先輩と後輩。
赤字寸前だった温泉旅館と、怪異だらけの古びたアパート。
どう考えても普通ではない組み合わせでした。
けれど、その場にいた全員が、なぜか少しだけ嬉しそうでした。
翌朝。
帰り支度を終えた一行は、旅館の玄関前に集まっていました。
福乃さんと従業員たちが、笑顔で見送ってくれます。
「またいつでも来てくださいね」
「ええ。また来るわ」
エリカちゃんは元気よく答えました。
「次は海斗君と――」
「普通に男女別のお風呂に入るからね!」
海斗君が先回りして叫びました。
「まだ何も言ってないわ」
「言おうとしてたよね!?」
花子さんは、名残惜しそうに旅館のトイレの窓を見上げました。
「また来るわね……二番目の個室……」
「トイレに別れの挨拶してる……」
秀明おじさんが呆れました。
化け猫さんは、湯煙さまの前に座っていました。
「にゃあ」
「うむ。また魚を食いながら湯に浸かろうぞ」
「にゃあ」
「その約束、普通に羨ましいわね」
エリカちゃんが言いました。
エリポンは、売店で福乃さんからもらった小さな温泉まんじゅうを大事そうに抱えていました。
「ぽん! 今度はちゃんともらったでちゅ!」
「偉いね、エリポン」
海斗君が褒めると、エリポンは嬉しそうに尻尾を振りました。
ただし、まだ完全には乾いていなかったので、振るたびに小さな水滴が飛び散りました。
「車の座席を濡らすなよ!」
秀明おじさんが叫びました。
惠那ちゃんは、最後に福乃さんへ一冊の帳面を渡しました。
「これ、経営改善計画」
「ありがとう……大切にするわ」
「一週間後に確認に来る」
「一週間後!?」
福乃さんは目を丸くしました。
「保養所だから」
「監査じゃないのか、それ」
秀明おじさんが呟きました。
惠那ちゃんは首を横に振りました。
「保養と監査は両立する」
「座敷わらし界、厳しいなあ……」
こうして、一行は普通の中古ワゴンに乗り込み、チェーン荘への帰路につきました。
車が走り出すと、旅館の玄関先で福乃さんが深く頭を下げました。
その背後には、昨日までより少しだけ明るく見える古い旅館。
窓辺では、湯煙さまが手ぬぐいを振っています。
「いい旅行だったわね、海斗君」
エリカちゃんが言いました。
「うん。温泉も楽しかったし、旅館も助かってよかったよ」
「これからは、いつでも温泉に来られるのね」
「男女別でね」
「海斗君、そこにこだわるわね」
「大事なところだから!」
後部座席では、エリポンが温泉まんじゅうを少しずつ食べ、花子さんは次に泊まるときのトイレ選びを考え、化け猫さんは湯煙さまとの再会を楽しみに目を閉じていました。
惠那ちゃんだけは、膝の上で帳簿の写しを開いています。
「次は、冬の宿泊プラン……。雪見風呂と鍋料理……。利益率は……」
「本当に保養する気あるのか?」
秀明おじさんが聞きました。
惠那ちゃんは、静かに答えました。
「黒字を見ると、心が休まる」
「それが保養なの!?」
海斗君の叫び声が、山道を走るワゴン車の中に響きました。
こうして、廃業寸前だった温泉旅館は、座敷わらし二人とチェーン荘の面々によって、なんとか息を吹き返したのでした。
そしてゆけむり館は、これから時々、エリカちゃんたちが遊びに来る保養所として登場することになります。
もっとも。
旅館側からすれば、保養に来ているのが客なのか、騒動そのものなのか。
その区別は、最後までつかなかったそうです。




