第60話 「エリカちゃんとドライブ 〜温泉編〜」
動物園で、エリポンがライオンの肉やカピバラの餌やゾウのバナナを狙い、飼育員さんたちをぐったりさせた翌週。
チェーン荘の前に、一台の白いワゴン車が停まっていました。
「エリカ嬢ちゃん。買ってきたぞ」
秀明おじさんが、得意そうに車の鍵を振りました。
エリカちゃんは縁側から立ち上がり、車の周りをぐるりと一周しました。
「……普通の車ね」
「普通の車だよ」
「臭くないわ」
「前回がバキュームカーだっただけだろ!」
海斗君も車の中をのぞき込みました。
「ちゃんと座席がある……」
「車って本来そういうものだぞ、坊主」
「前は花子さんたちがタンクの上に乗っていたから……」
花子さんはチェーン荘の一階トイレから顔を出し、遠い目をしました。
「あれは風が強かったわ……。幽霊なのに人生で一番つらいドライブだったかもしれない……」
「私も嫌だった」
赤いちゃんちゃんこを着た惠那ちゃんが、財布を抱えて言いました。
「だから今回は、私がお金の管理をしたの。中古だけど、事故歴なし、異臭なし、車検あり。予算内」
「お前、座敷わらしなのに買い物が現実的すぎるだろ」
「無駄遣いは運気を逃すから」
「バキュームカーを買った俺への当てつけか?」
「うん」
「即答かよ!」
その横では、化け猫さんが車の屋根に飛び乗り、満足そうに丸くなっていました。
「にゃあ」
「化け猫さん、今回は快適そうね」
「にゃあ」
エリポンも、車の後部座席にぴょんと飛び込みました。
「ぽん! おでかけでちゅ!」
「エリポン、今日は旅館のごはんを勝手に食べちゃだめだからね」
海斗君が注意すると、エリポンはきょとんと首をかしげました。
「ぽん?」
「わかってない顔だよ……」
マリンちゃんはというと、専用の透明な大きなケースに入れられ、荷物スペースに置かれていました。
ぷるん。
「マリンちゃん、今日は溶かしちゃだめな物がいっぱいあるからね」
ぷるぷる。
「返事はしてるけど、信用していいのかなあ……」
海斗君はすでに不安でした。
「それで、おじさん。どこに行くの?」
エリカちゃんが聞くと、秀明おじさんは運転席に乗り込みました。
「温泉だ。山の奥に、知り合いが教えてくれた安い旅館があるんだよ」
「温泉!」
エリカちゃんの目が輝きました。
「海斗君と一緒にお風呂ね!」
「一緒には入らないよ!?」
海斗君は真っ赤になりました。
「どうして? 私と海斗君は将来夫婦になるのよ」
「将来の話と今のお風呂は別だよ!」
「坊主、出発前から大変だな」
秀明おじさんが同情するように言いました。
「いつものことです……」
こうして、チェーン荘の一行は、温泉旅行へ出発したのでした。
車は、秋の山道を走っていました。
窓の外には、赤や黄色に染まった木々が広がっています。
「綺麗ね、海斗君」
「うん。紅葉がすごいね」
「誰の血で染まったのかしら」
「そこで怖い方向に持っていかないでよ!」
エリカちゃんは窓に頬を寄せ、嬉しそうに景色を眺めていました。
その隣では、エリポンが後部座席のポケットをあさっています。
ごそごそ。
「エリポン、何してるの?」
「ぽん!」
エリポンが取り出したのは、秀明おじさんが非常食として入れていた小袋の柿の種でした。
「それ、おじさんのだよ」
「ぽん!」
ぱりぱりぱり。
「食べるの早い!」
「こら! 俺の運転中のおやつを勝手に食うな!」
秀明おじさんが叫びました。
「動物園の次は車内荒らしね」
花子さんが呆れたように言いました。
「食費を請求した方がいい」
惠那ちゃんが帳面を開きました。
「エリポン食費。柿の種一袋百二十円。利息込みで――」
「子狸に借金背負わせるなよ!」
「ぽん……」
エリポンは慌てて化け猫さんの背後に隠れました。
化け猫さんは、屋根の上からいつの間にか車内へ入り込み、後部座席で丸くなっています。
「にゃあ」
「化け猫さん、庇ってあげるの?」
「にゃあ」
「美しい友情ね」
エリカちゃんが感心しました。
その直後、化け猫さんはエリポンが残した柿の種の袋に顔を突っ込みました。
「共犯だった!」
海斗君が叫びました。
しばらくすると、山道の奥に古びた木造旅館が見えてきました。
看板には大きく、
秘湯 ゆけむり館
と書かれています。
「おお、雰囲気あるじゃねえか」
秀明おじさんが車を駐車場へ停めました。
「古いけど、落ち着く感じだね」
海斗君も旅館を見上げました。
屋根には少し苔が生え、玄関の横には赤いもみじの木が揺れています。
いかにも温泉旅館らしい景色でした。
ただし。
「お客さん、ずいぶん大所帯ですねえ……」
玄関から出てきた仲居さんは、一行を見て固まりました。
金髪ツインテールでチェーンソーを背負った女の子。
その隣に、真面目そうな男の子。
赤いちゃんちゃんこのおかっぱ少女。
顔色の白い、もう一人のおかっぱ少女。
巨大な透明ケースに入ったスライム。
尻尾の見える小さな狸。
妙に目つきの鋭い猫。
そして、疲れた顔のおじさん。
「家族旅行です」
エリカちゃんが堂々と言いました。
「家族……?」
仲居さんは判断に迷いました。
「細かい分類は気にしなくていいです」
海斗君が申し訳なさそうに言いました。
「あと、できれば壊れやすい物は遠ざけておいてください」
「どういう意味ですか?」
「経験上のお願いです……」
部屋へ案内されると、エリカちゃんは畳の上に大の字になりました。
「温泉旅館っていいわね!」
「畳をチェーンソーで傷つけないでね」
「そんなことしないわよ。私は常識のある女の子よ」
「その背中のチェーンソーを下ろしてから言ってほしいな」
窓の外には、湯気の立ち上る露天風呂が見えました。
山の木々に囲まれた、大きな岩風呂です。
「露天風呂!」
花子さんが珍しく目を輝かせました。
「幽霊も温泉に入るの?」
海斗君が聞くと、花子さんはむっとしました。
「入るわよ。私はトイレに住んでるだけで、お風呂が嫌いなわけじゃないの」
「説得力があるような、ないような……」
化け猫さんは窓辺に飛び乗り、湯気を見て喉を鳴らしました。
「にゃあ……」
「化け猫さんも入りたいのね」
「にゃあ」
「エリポンも?」
「ぽん!」
「マリンちゃんは?」
ぷるん。
「溶けない?」
ぷるぷる。
「もう全員入る気だ……」
海斗君は嫌な予感がしました。
旅館の大浴場は、男湯と女湯に分かれていました。
入口で、エリカちゃんは海斗君の袖をつかみました。
「海斗君。本当に別々に入るの?」
「当たり前だよ!」
「寂しいわ」
「お風呂で寂しがらないで!」
「じゃあ壁越しにお話しましょう」
「それならまあ……」
海斗君は少し安心して、男湯の暖簾をくぐりました。
秀明おじさんも後ろからついてきます。
「坊主。お前も苦労するな」
「秀明おじさん、他人事みたいに言わないでください……」
一方、女湯では。
エリカちゃん、花子さん、惠那ちゃん、化け猫さん、エリポンが脱衣所にいました。
マリンちゃんは、さすがに大浴場へ入れると浴槽そのものが危険なので、部屋で留守番になっています。
「私も入りたかった……」
ぷるぷると震えるマリンちゃんを部屋に残す際、海斗君は本気で申し訳ない気持ちになっていました。
「エリポン、ちゃんと変化を解いてから入るのよ」
エリカちゃんが言いました。
そのときのエリポンは、エリカちゃんに化けた姿をしていました。
ただし、本物より少し小さく、尻尾だけは隠しきれていません。
「ぽん! エリポン、エリカお姉ちゃんでちゅ!」
「二人いると海斗君が混乱するからやめなさい」
「ぽん……」
エリポンはしぶしぶ、ぽんっと煙を上げて狸の姿に戻りました。
「可愛いわね」
エリカちゃんはエリポンを抱き上げました。
「温泉狸ね」
「ぽん!」
「お湯に入っても食べ物は出ないからね」
花子さんが釘を刺しました。
「ぽん……」
エリポンは少し残念そうでした。
露天風呂には、白い湯気がもくもくと立ち込めていました。
秋の冷たい空気の中、あたたかい湯が気持ちよく体を包みます。
「はあ……いいお湯ね」
花子さんが岩にもたれました。
「花子さんが普通の女の子みたい」
エリカちゃんが言いました。
「私は元から普通の女の子よ。住んでる場所がトイレなだけで」
「そこが致命的よね」
惠那ちゃんは、湯船に入りながら小さなそろばんを弾いていました。
「この温泉、日帰り客をあと三割増やせば収益改善できそう」
「温泉でもお金のこと考えてるの?」
「湯気は無料。活用しないともったいない」
「温泉の入り方が経営者なのよ」
その横で、エリポンが湯船に入ろうとしていました。
前足をそっと入れます。
「ぽん……」
少し熱かったのか、いったん引っ込みました。
しかし、エリカちゃんが抱き上げてお湯に入れてあげると――
「ぽぉぉぉん……」
エリポンは気持ちよさそうに伸びました。
その瞬間。
ぽんっ!
小さな煙が上がりました。
「あら?」
エリカちゃんが首をかしげました。
温泉のお湯に浸かったエリポンの尻尾が、一本ではなく、何本もぼわっと広がったのです。
ふさふさ。
もふもふ。
湯船の半分近くを占拠する勢いで、立派な尻尾が浮かびました。
「エリポン、尻尾が増えてる!」
花子さんが驚きました。
「ぽん!?」
本人も驚いていました。
「温泉で化ける力が緩んだのね」
エリカちゃんは楽しそうに、ふさふさの尻尾を撫でました。
「気持ちいいわ」
「ぽん! くすぐったいでちゅ!」
「これ、乾かすの大変そう」
花子さんが心配しました。
惠那ちゃんは尻尾をじっと見ていました。
「温泉もふもふ体験、一回三百円で売れる」
「エリポンを商売に使わないで!」
「ぽん!?」
そのとき。
湯気の奥から、ふわりと白い影が現れました。
長い髪。
湯気のように透き通った着物。
頭には、なぜか手ぬぐいを乗せています。
「おや……珍しいお客さんが来たものじゃ」
「誰?」
エリカちゃんが問いかけました。
白い影は、にっこり笑いました。
「わしは、この温泉に棲む湯の精霊じゃ。人呼んで、湯煙さま」
「温泉にも怪異がいるのね」
花子さんが言いました。
「トイレの幽霊に言われたくないと思うわ」
「エリカちゃん、それ前にも言ったわよね?」
湯煙さまは、化け猫さんを見て目を細めました。
「おや、おぬし。なかなか年季の入った猫又じゃな」
化け猫さんは湯船の岩の上で、片目を細めました。
「にゃあ」
「ほう。湯に酒を浮かべて、焼き魚を添えるのが風流とな」
「にゃあ」
「わかる。わかるぞ。月見酒もよいが、紅葉を見ながらの温泉も格別じゃ」
「にゃあ!」
化け猫さんの目が輝きました。
「会話成立してるの?」
海斗君がいたら確実に突っ込んでいたでしょう。
しかし女湯側には、海斗君がいません。
代わりに花子さんが叫びました。
「何で猫の鳴き声だけでそこまで話が広がるのよ!」
湯煙さまは嬉しそうに化け猫さんの隣へ座りました。
「気に入ったぞ、猫又よ。今夜は宴じゃ」
「にゃあ!」
化け猫さんが前足を上げました。
すると、どこからともなく青白い鬼火がふわふわと現れ、露天風呂の周りを飛び始めました。
「綺麗ね」
エリカちゃんが目を輝かせました。
「温泉の雰囲気が出るわ」
「出るかしら!? 普通は提灯とかじゃない!?」
花子さんは慌てました。
湯煙さまは杖のような湯かき棒を振り上げました。
「ならば、もっと賑やかにしてやろう!」
ぼわあっ、と湯気が大きく広がりました。
その湯気は、男湯と女湯を仕切っていた竹垣をすっぽり包み込みます。
そして。
ごとん。
仕切りの竹垣が、なぜか横へ滑りました。
「……え?」
女湯側が固まりました。
男湯側も固まりました。
湯気の向こうに、秀明おじさんと海斗君の姿が見えたからです。
「おお、混浴じゃ! 宴には皆で入るのが一番じゃ!」
湯煙さまが楽しそうに言いました。
「にゃあ!」
化け猫さんも賛成しました。
「賛成しないで!?」
花子さんが叫びました。
海斗君は、湯気の向こう側で真っ赤になりました。
「え、エリカちゃん!?」
「あら、海斗君。本当に一緒のお風呂になったわね」
エリカちゃんは嬉しそうでした。
「なってないよ! なっちゃだめなやつだよ!」
秀明おじさんは慌てて海斗君の目を手で塞ぎました。
「坊主! 見るな! 今は何も見るな!」
「見てません! 見てませんけど声でわかります!」
「海斗君、恥ずかしがらなくてもいいのに」
「恥ずかしがるよ!」
惠那ちゃんは冷静に湯煙さまを見ました。
「混浴化による付加価値は高いけど、未成年客がいるから営業許可的に危険」
「そこで現実的な理由を出すの!?」
花子さんが突っ込みました。
エリカちゃんは、すっと立ち上がりました。
「湯煙さま」
「なんじゃ?」
「海斗君が困っているわ」
「おや、仲良しなのではないのか?」
「仲良しだから、困らせていいとは限らないのよ」
海斗君は湯気の向こうで、少しだけ驚きました。
「エリカちゃん……」
「それに」
エリカちゃんは、いつの間にか湯船の脇に置かれていたチェーンソーを手に取りました。
「海斗君と一緒に入るなら、ちゃんと心の準備をしてからがいいわ」
「何の心の準備!?」
ウイイイイイイイイイイイン!
露天風呂に、けたたましいエンジン音が響きました。
「待て待て待て! 温泉でチェーンソーは危ないぞ!」
秀明おじさんが叫びました。
「仕切りだけ戻すわ」
エリカちゃんは、滑って移動した竹垣の支柱にチェーンソーを軽く当てました。
ぎゃりっ。
切るのではなく、支柱の引っかかり部分を削り、竹垣を元の位置へ押し戻します。
ごとん。
男湯と女湯は、再びきちんと分かれました。
「直ったわ」
「エリカちゃん、チェーンソーを修理道具として使うの珍しいね!」
海斗君の声が壁の向こうから聞こえました。
「私だって何でも斬るわけじゃないのよ」
「少し成長したのかな……」
「海斗君以外は、必要なら斬るけど」
「安心した直後に怖いこと言わないで!」
湯煙さまは、竹垣の前でしょんぼりしていました。
「混浴の方が楽しいと思ったのじゃが……」
「お風呂には秩序が必要よ」
花子さんが胸を張りました。
「トイレ住まいの幽霊に風呂の秩序を語られるとは……」
「何よ!」
化け猫さんは湯煙さまの膝に前足を乗せました。
「にゃあ」
「おお。そうじゃな。男女別でも宴はできるのう」
「にゃあ」
「では、湯上がりに牛乳でも飲むか」
「にゃあ!」
化け猫さんと湯煙さまは、すっかり意気投合してしまいました。
「新しい友達ができたわね、化け猫さん」
エリカちゃんはにっこり笑いました。
「にゃあ」
その隣で、エリポンは何本もの尻尾をお湯に浮かべながら、完全にのぼせていました。
「ぽぉぉん……」
「エリポン!?」
「湯船でもふもふしすぎたのよ!」
花子さんとエリカちゃんが慌ててエリポンを引き上げました。
温泉から上がったあと。
海斗君は、脱衣所の前で浴衣を抱えて立っていました。
秀明おじさんが、自分の浴衣の帯を忘れて部屋へ取りに戻ったため、少しだけ一人になっていたのです。
「ふう……びっくりした……」
海斗君は、まだ顔が熱い気がしました。
まさか温泉の精霊が勝手に仕切りを動かして、混浴にしようとするとは思っていませんでした。
「エリカちゃん、怒ってなかったかな……」
小さく呟いた、そのとき。
がらっ。
目の前の脱衣所の扉が開きました。
「あら、海斗君」
「えっ」
そこには、湯上がりで浴衣姿のエリカちゃんが立っていました。
金髪のツインテールはまだ少し湿っており、片手には小さなタオル。
もう片方の手には、なぜかチェーンソー。
「エ、エリカちゃん!?」
海斗君は飛び上がりました。
「どうしたの?」
「ここ、女湯の脱衣所の前じゃ……!」
「裏の廊下に出る扉を間違えたみたい」
エリカちゃんは平然と言いました。
「海斗君、顔が真っ赤よ。湯あたり?」
「違うよ! たぶん違うけどもうわからないよ!」
海斗君は壁に背中をつけ、へなへなと座り込みました。
「海斗君!?」
エリカちゃんが駆け寄ります。
「大丈夫? 死なないで。まだ結婚してないのに」
「その言葉が原因でさらに倒れそうだよ……」
そこへ、花子さんと惠那ちゃんが脱衣所から出てきました。
「何してるの?」
「海斗君が私を見て倒れかけたの」
「言い方!」
海斗君が最後の力で叫びました。
惠那ちゃんは海斗君を一度見て、冷静に言いました。
「これは湯あたりじゃなくて、エリカあたり」
「何それ!?」
「海斗君専用の症状」
花子さんが妙に納得した顔でうなずきました。
「重症ね」
「やめてよ!」
その後ろから、ふさふさの尻尾を濡らしたエリポンが、床を引きずるように歩いてきました。
「ぽん……重いでちゅ……」
「エリポンも重症だった!」
夕食の時間。
旅館の大広間には、豪華な料理が並んでいました。
鍋。
天ぷら。
川魚の塩焼き。
山菜の小鉢。
そして、温泉まんじゅう。
「すごいわ、海斗君!」
エリカちゃんは目を輝かせました。
「うん。おいしそうだね」
「塩辛はないのかしら」
「旅館の料理に最初からそれを求めるんだ……」
エリポンは料理を見た瞬間、尻尾を全開にしたまま身を乗り出しました。
「ぽん!」
「待ちなさい、エリポン」
海斗君が素早く抱き上げました。
「今日は人のごはんを奪ったらだめだよ」
「ぽん……」
「エリポンにはこっち」
エリカちゃんは、仲居さんに頼んでもらった小さなお皿の油揚げを差し出しました。
「ぽん!」
エリポンは大喜びで食べ始めました。
「エリカちゃん、ちゃんと対策したんだね」
「動物園で学んだのよ」
「成長してる……!」
その横では、化け猫さんと湯煙さまが並んで川魚を食べていました。
「にゃあ」
「うむ。この焼き加減、なかなかじゃな」
「にゃあ」
「温泉卵も欲しいとな。気が合うのう」
「いつまで一緒にいるの!?」
花子さんが突っ込みました。
湯煙さまは当然のように一行の夕食に混じっていました。
「よいではないか。わしも久々に賑やかな客に会えて楽しいのじゃ」
「賑やかというより危険団体ですけどね」
秀明おじさんが酒の代わりにお茶を飲みながら言いました。
「おじさん、今日は本当に普通の旅行になりそうね」
エリカちゃんが言いました。
「温泉の仕切りが動いて、狸の尻尾が増えて、温泉の精霊が夕飯に参加してる時点で普通じゃねえぞ」
「でも誰も斬られてないわ」
「チェーン荘基準では平和だね……」
海斗君はしみじみ言いました。
その夜。
一行は、旅館のふかふかの布団で眠ることになりました。
エリカちゃんの隣には海斗君――ではなく、山のように膨らんだエリポンの尻尾が置かれていました。
「もふもふね」
エリカちゃんは幸せそうに尻尾へ顔を埋めました。
「ぽん……乾かないでちゅ……」
「朝までには乾くわよ」
「その布団、湿りそうだけど大丈夫かな……」
海斗君は少し離れた布団から心配しました。
花子さんは旅館のトイレが気に入ったらしく、すでに宿泊部屋から姿を消していました。
惠那ちゃんは旅館のパンフレットを読みながら、ぶつぶつ呟いています。
「客室稼働率……設備更新費……温泉まんじゅうの利益率……」
「旅行中くらい休めよ」
秀明おじさんが言いました。
「温泉旅館は金運の匂いがする」
「嫌な予感しかしねえな……」
化け猫さんは窓際で丸くなり、その隣では湯煙さまが満足そうに手ぬぐいを頭に乗せていました。
「では、猫又よ。また明日ものんびり湯に浸かろうぞ」
「にゃあ」
「もう完全に友達になってる……」
海斗君は呆れました。
エリカちゃんは布団の中から、にこにこと海斗君を見ました。
「海斗君」
「なに、エリカちゃん?」
「温泉、楽しかったわね」
「うん。ちょっとびっくりしたけど、楽しかったよ」
「次はちゃんと一緒に――」
「入らないよ!?」
海斗君の叫び声が、夜の旅館に響きました。
その声に驚いて、エリポンの濡れた尻尾がばさっと広がり、部屋中に温泉のお湯が飛び散りました。
「ぽん!?」
「布団が濡れた!」
「弁償費、エリポンにつけておく」
「ぽん!?」
「最後まで平和じゃねえなあ!」
秀明おじさんの叫び声まで響きました。
翌朝。
温泉を満喫したはずの一行は、なぜか全員ぐったりした顔で朝食の席についていました。
湯煙さまと化け猫さんだけが、元気に魚を分け合っています。
エリカちゃんは、イチゴ牛乳を飲みながらぽつりと言いました。
「温泉って、気持ちいいけど疲れるのね」
海斗君は、まだ赤い顔でうなずきました。
「うん……僕は別の意味でも疲れたよ……」
花子さんは畳の上に寝転びました。
「湯気に巻かれて、混浴騒ぎに巻き込まれて、狸の尻尾を乾かして……」
秀明おじさんは、冷めたお茶をすすりました。
「帰りの運転、俺なのか……」
惠那ちゃんだけは、旅館の帳簿をちらちら気にしていました。
「ここ、経営改善できそう」
「惠那ちゃん?」
エリカちゃんが振り返りました。
惠那ちゃんは、にっこり笑いました。
「ちょっと、この旅館に用事ができた」
その笑顔を見て、海斗君は思いました。
今度は温泉よりも、もっと大変なことが始まりそうだと。
こうして、エリカちゃんたちの温泉旅行一日目は終わりました。
紅葉の山奥にある古い温泉旅館。
湯気に紛れて現れた湯の精霊。
尻尾が全開になったエリポン。
脱衣所の前で昇天しかけた海斗君。
そして、旅館の経営に目をつけた惠那ちゃん。
それは、楽しい温泉旅行のはずでした。
けれどチェーン荘の住人たちが泊まりに来た時点で、普通に終わるわけがなかったのです。
――秋の湯あたり。




