第54話 「エリカちゃんと秋の遠足」
秋も深まったある日。
学校では、秋の遠足の日がやってきました。
行き先は、町外れの大きな山。
紅葉のきれいな、自然豊かな場所です。
バスに乗り込みながら、クラスメイトたちはわくわくしていました。
「おにぎり、たくさん持ってきた!」
「お菓子の交換、楽しみ!」
「山の空気、おいしい!」
ところが。
椿さんは、バスの一番後ろの席で、青い顔をしていました。
「椿さん、大丈夫? バス酔い?」
「い、いえ……」
「顔色が悪いよ」
「行き先の山、ちょっと、その……」
「何?」
「神域なんです」
「神域?」
「神社の家系の伝承で、あの山は、特別な山なんです」
「特別って?」
「山の神様が、住んでらっしゃるんです」
「住んでるんだ」
「そして、こちら側の方々も、たくさんいらっしゃるんです」
「うわー、すごい山ね」
「修行の山として、知る人ぞ知る山で」
「知らなかった」
「それがすごいです」
バスがふもとに着きました。
クラスのみんなは、わいわいと山道を登り始めました。
紅葉が、頭の上で赤く輝いています。
空気は、つんと冷たく、清浄でした。
「気持ちいいね」
「秋だね」
「お弁当、楽しみ」
ところが。
椿さんは、ふと、あたりを見回して、表情を硬くしました。
「あれ、おかしいです」
「何が?」
「気配が、ない」
「気配って?」
「この山、こちら側の方々が、たくさんいらっしゃるはずなんです」
「いないの?」
「いません」
「全部?」
「全部です」
椿さんは、戸惑った顔で、空を見上げました。
「いつもなら、木の精、岩の精、苔の精、霧の精、いろいろいらっしゃるはずなんです」
「いないんだ」
「全員、避難しています」
「避難?」
「気配だけが、向こうの稜線の向こうに、すうっと逃げていきます」
椿さんは、エリカちゃんを振り返りました。
「エリカちゃん、また、です」
「私、何もしてないわよ」
「何もしてなくても、あなたが入山した瞬間、山が空っぽになりました」
「すごいわね」
「すごいです、ある意味」
山道を進んでいくと、奥に、大きな岩がありました。
そこに、白いひもがぐるりと巻いてありました。
椿さんが、目を見開きました。
「これ、ご神体です」
「ご神体?」
「山の神様が宿られている岩」
「えー、すごいわ」
エリカちゃんは、ぱんぱんと手を合わせて拝みました。
「いつも、ありがとうございます」
ぴしっ。
岩が、ぴたっと、固まりました。
「あ……」
椿さんが、岩の上空に、何かを"視"ました。
そこには、ふわりと、雲のような、しかし顔のある神様の姿がありました。
立派な髭を蓄えた、年老いた山の神様でした。
ところが、その山の神様の表情は――
ぴたっ、と、固まっていました。
「(山の神様、固まってる……)」
「椿さん、何が見えるの?」
「(山の神様、ご挨拶を返せないでいる……)」
山の神様は、しばらく、ぴたっと、エリカちゃんを見ていました。
そして、ゆっくりと、深く、深く、頭を下げました。
ふわふわと、雲が動きました。
「申し訳ない」
山の神様の声は、椿さんにだけ聞こえました。
「ご挨拶、返したいのですが」
「うん、はい」
「あの方の、神威が、強すぎて」
「はい」
「我、退散することにしました」
「えっ、神様、退散するんですか」
「あの方の前では、我ですら、敵わぬ」
「(山の神様レベルで、敵わぬ……)」
山の神様は、ふわりと、雲とともに、稜線の向こうへと飛んでいきました。
椿さんは、ぽかんと、その後ろ姿を見送りました。
「(山の神様、避難した……)」
そして、椿さんは、エリカちゃんに、ぽつりと言いました。
「エリカちゃん、いまの、山の神様」
「いらっしゃった?」
「いらっしゃいました。そして、退散されました」
「あら、忙しいのね」
「あなたから、避難されました」
「私、何かしたかしら」
「何もしてないです、いつも通り、何もしてないだけなんです」
「じゃあいいじゃない」
「(神様レベルで、避難してるんですよ……)」
クラスのみんなは、紅葉を眺めながら、楽しそうにお弁当を広げていました。
山道の途中の広場で、おにぎりが、ぱくぱくと食べられていきます。
山本先生も、クラスメイトの輪に交じって、お弁当を広げました。
そして、ふと顔を上げて、空を見ました。
「今日の山、なんだか、空気が薄い気がしませんか?」
「気のせいですよ、先生」
「そうですね……でも、いつもより、なんていうか、静かですね」
「静かです」
「鳥の声も、聞こえませんね」
「聞こえません」
「動物の気配も」
「ありません」
山本先生は、深く、深く、ため息をつきました。
「エリカちゃん、来てますね」
「来てます」
「やっぱり、ですね」
山本先生は、机の引き出しから胃薬の小袋を取り出しました。
「先生、遠足にも持参してきたんですか」
「もちろん」
「準備、抜かりないですね」
「はい、もう、抜かれません」
山本先生は、胃薬を一錠、ぐいっと飲みました。
そして、ふっと笑いました。
「神域の空気で、胃薬の効きがいい気がします」
「先生、その効能はないと思います」
「あるんです、私には」
お弁当のあと、クラスは紅葉狩りを楽しみました。
椿さんは、エリカちゃんと並んで歩きながら、ふと、神社の方角を振り返りました。
「エリカちゃん」
「なあに」
「神社のおじいちゃんに、報告しないと」
「何を?」
「うちの山の神様、避難されました」
「ご無事?」
「ご無事です」
「じゃあいいじゃない」
「神社界で、たぶん、伝説になります」
「光栄ね」
「光栄なんですね……」
帰り道、バスの中で。
椿さんは、ふっと窓の外を見て、つぶやきました。
「エリカちゃんって、本当にすごい」
「ありがとう」
「褒めてないんですけど」
「褒めてくれてもいいわよ」
「(神様まで避難する人を、褒めるのは、ちょっと違う気がする)」
椿さんは、その日、家に帰って、神社のおじいちゃんに報告しました。
「おじいちゃん、ただいま」
「お帰り。山はどうだった」
「山の神様、避難されました」
「やはりな」
「予想通り?」
「予想通りだ」
「予想つくの、それ?」
「神社の家系には、こういう日が来ることが、二〇〇年に一度ある」
「二〇〇年に一度の出来事なんだ」
「歴史に残るぞ」
「ご記録、お願いします」
おじいさんは、にっこり笑って、巻物を取り出しました。
そして、ふわりと、墨をつけた筆を、巻物に走らせました。
**令和年代、当神社近隣山にて。**
**山神、人間の童女の神威に圧され、退避。**
**当面、入山禁忌。**
椿さんは、その巻物を見て、ぽつりと言いました。
「うちの神社、ちゃんと記録残るのね」
「残るとも」
「歴史に名を残すのが、まさかこの形とは思わなかった」
「人生、わからぬものだ」
「神社界も、わからぬものですね」
こうして、エリカちゃんは、秋の遠足で、ひっそりと、山の神様までを退避させたのでした。
ただし、本人は、まったく気付いていませんでした。
なお翌日、クラスでは、遠足の感想文を書く時間がありました。
椿さんの感想文には、こう書かれていました。
**秋の山は、空気が清浄でした。**
**神様もいらっしゃいましたが、お会いできませんでした。**
**いろいろな意味で、忘れられない遠足になりました。**
山本先生は、その感想文を読んで、しばらく無言になりました。
そして、赤ペンで、こう書き足しました。
**よく書けています。「いろいろな意味で」の意味については、深く追求しません。**
そして職員室で、山本先生は、新しい胃薬の引き出しを追加しました。
中には、新しいラベルが貼られていました。
**遠足用。**
**※神域に入る場合のみ使用。**
こうして、エリカちゃんの新章「転校生と新しい怪異編」は、章の中ボスとも言える「山の神」を、誰一人争うことなく、退避させて終わりを迎えたのでした。
そして、椿さんの日記には、その夜、こう書き加えられていました。
**今日、山の神様が避難された。**
**私の調停役は、たぶん、人間相手じゃなくて、こちら側のみなさんの避難誘導が本職。**
**つなぎ役、つなぎ役じゃなくて、避難誘導員かもしれない。**
**まあ、それも、悪くない。**
椿さんは、その夜、はじめて、ふっと笑いました。




