第35話 「エリカちゃんとフカヒレ」
ある日のチェーン荘。
エリカちゃんは縁側で、新聞のグルメ欄を眺めていました。
「ふかひれ食べたーい」
いつもながら、突然の宣言です。
「中華料理店に行くか?」
秀明おじさんが顔を上げました。
「そうじゃないわ」
エリカちゃんはきっぱり言いました。
「自分で取りに行きたいの」
「そういう話か……」
海斗君がため息をつきました。
「エリカちゃん、ふかひれってサメのヒレだよ」
「知ってるわ」
「サメだよ? イタチザメとか凶暴なやつだよ?」
「知ってるわ」
「沖縄とか南国にしかいないよ?」
「じゃあ南国に行きましょう」
「思考の飛躍が早すぎる」
チェーン荘の縁側に、恵那ちゃんがすっと現れました。
「南国旅行、いくらかかるか試算した?」
「してないわ」
「往復飛行機代、宿、現地移動。四人で軽く三十万」
「お金は?」
「貯金がないなら、稼げばいい」
「そうね。稼ぎましょう」
会話の速さが異常でした。
ここで、ちょっと話は遡ります。
実は、エリカちゃんが学校に行っている間。
チェーン荘では、ある不穏な習慣が定着していました。
秀明おじさんと恵那ちゃん。
この二人は、よくドライブに出かけます。
ただし、行き先は峠と国道沿いの不良のたまり場ばかりです。
「兄ちゃん、どこ見て走っとんじゃ!」
暴走族に絡まれます。
恵那ちゃんは助手席から、にこにこと顔を出します。
「示談金、五万円でいかがでしょう」
「あぁ? ガキが何言うとんじゃ!」
ここで、後部座席から、けたたましいエンジン音が鳴り響きます。
ウイイイイイン――!
「五万円でいかがでしょう」
「……三万でええですか」
「定価です」
「五万でお願いします」
恵那ちゃんは満面の笑みでお札を受け取りました。
ヤクザの事務所前でも、似たような光景が繰り広げられます。
「恵那ちゃん、お金を稼いできたよ」
「秀明おじさん、ありがとう」
「お嬢ちゃん、これ寺銭な」
「いえ、運転手代として全額いただきます」
「えっ」
ウイイイイイン――!
「全額いただきます」
「はい」
チェーン荘に戻った夜。
恵那ちゃんは札束を数えながら、エリカちゃんに報告します。
「エリカちゃん。今日も稼いだ」
「恵那ちゃん、ありがとう」
「次の遠征までに、もう少しチェーンソーの稽古をしたい」
「いいわよ。明日教えてあげる」
海斗君は遠い目をしていました。
恵那ちゃんがチェーンソーを上達する。
より遠くまで、より凶悪な相手から、より多く巻き上げてくる。
その金で、また稽古用のチェーンソーが増える。
とんでもない悪循環が、チェーン荘の経済を回していたのでした。
「南国旅行のお金、貯まったわ」
「早すぎる」
海斗君は何も聞かなかったことにしました。
というわけで。
エリカちゃん一行は、日本の南国の地――とある離島へと旅立ったのでした。
離島の沖。
観光客を乗せた遊覧船が、のんびりと走っていました。
穏やかな海原を、特徴的な三角形のヒレが、すうっと走っていきます。
「ママー、あれ何ー?」
小さな男の子が、海を指さしました。
「サメよ。凶暴で危ないから、海に落ちたら大変よ」
「ふーん」
男の子は、しばらく海を眺めていました。
すると――。
サメのヒレの後ろを、けたたましいエンジン音が追いかけてきました。
ウイイイイイイン――!
水面から、ひょこんと、チェーンソーの刃が突き出ています。
刃は、ものすごい速さで、サメを追いかけていました。
「ママー、あれは何ー?」
「えっ……?」
お母さんは、それを見て困惑しました。
「ママー、刃物が泳いでるよー」
「……うん」
「ママー、答えてー」
「……ママもわからないの」
次の瞬間。
チェーンソーが、サメに追いつきました。
ウイイイイイン――! ガリッ!
海原に、赤い水柱が立ちました。
遊覧船の客たちは、一斉に固まりました。
男の子は、火がついたように泣き出しました。
「ママー!! うわあああん!!」
「見ちゃだめ! 見ちゃだめよー!!」
お母さんは慌てて、男の子の目を覆いました。
ただし、自分は普通に二度見していました。
血しぶきの中から、エリカちゃんは満足そうに浮かび上がってきました。
手には、ぐったりとしたイタチザメ。
「大漁、大漁」
エリカちゃんは、平常運転でした。
遊覧船の客たちは、海も覗き込めなくなりました。
チャーター船に戻ったエリカちゃんは、甲板の上にサメをどんと乗せました。
「さて、解体するわよ」
ウイイイイイン――!
手際よく、ヒレを切り取り、胴体をぶつ切りにします。
血で甲板が真っ赤になりました。
「エリカちゃん、これ、海に流して大丈夫なの……?」
「大丈夫よ。海は広いもの」
「広さの問題じゃないと思うんだ」
切り取ったサメ肉は、用意していた酒樽に次々と放り込まれていきます。
「サメ肉ってアンモニア臭がすごいから、酒で漬けないと食べられないのよ」
「詳しいね……」
「ふふん。フカヒレのために予習したわ」
「予習する内容が、もう一般家庭の範囲を超えてる」
樽は、たちまち十個以上になりました。
港に戻って、宿の地下室にサメを運び込んだあと。
エリカちゃんは、はたと気づきました。
「あら」
「どうしたの?」
「私、フカヒレの調理の仕方を知らないわ」
「……今気づいたの!?」
「事前に調べる必要があったかしら」
「最初に調べる項目だよ!」
恵那ちゃんが、すっと電卓を取り出しました。
「中華料理店、外注で。一品五千円」
「高いわね」
「ヒレの量から逆算すると、四十品はいける。利益、ざっと十八万」
「やりましょう」
「そういう話じゃない!」
その夜。
港町の中華料理店「龍華楼」。
店主のおっさんが、暖簾を下ろそうとしていました。
「親父さん、お願いがあるの」
エリカちゃんが、にこにこと現れました。
「なんだい、お嬢ちゃん」
「フカヒレを調理してほしいの」
「いいよ、明日の予約で――」
「うちの宿に来てほしいの」
「出張は普段やってねえんだ。すまんな」
「そう。残念ね」
エリカちゃんは、ふっと微笑みました。
次の瞬間、店の奥から、けたたましい音が響きました。
ウイイイイイン――!
「親父さん。もう一度、お願いするわね」
「……出張、します」
「ありがとう、親父さん」
宿の地下室。
ぶら下げられた、十数頭のサメ。
ずらりと並んだ、サメ肉漬けの酒樽。
壁にこびりついた、赤黒い染み。
店主のおっさんは、ドアを開けた瞬間、その場で固まりました。
「……これは……何だい?」
「フカヒレの材料よ」
「材料の量じゃねえだろ……」
「親父さん、よろしくお願いします」
「は、はい……」
おっさんは、震える手で包丁を握りました。
その横では、エリカちゃんがニコニコ顔でチェーンソーを構えています。
数時間後。
エリカちゃんたちは、絶品のフカヒレ料理を堪能しました。
「おいしい」
「最高だね」
「商売になるわ」
「ならないよ!」
帰り際。
エリカちゃんは、おっさんに余ったサメ肉を渡そうとしました。
「親父さん、これ、お土産にどうぞ」
「いりません」
「中華料理に使えるわよ」
「いりません」
「店で出せば人気が出るわよ」
「いりません」
おっさんは、サメ肉から目を背け、後ずさりしながら逃げ帰っていきました。
なお。
その日からしばらく、おっさんは毎晩うなされたそうです。
夢の中で、ぶら下がるサメと、酒樽と、ニコニコ顔の金髪ツインテール。
そして、けたたましいエンジン音が響いてくるのです。
奥さんに「あなた、最近寝言で『フカヒレもう食えん』って言ってるわよ」と心配されたとか。
ちなみに。
離島の遊覧船会社は、その翌週から、ツアー案内にこう書き加えました。
※当海域では、まれに刃物がサメを捕食する光景が観察されます。お子様連れの方はご注意ください。
もちろん、注意書きには小さく続きがありました。
※チェーンソーは捕獲しないでください。




