帳面にあった、三つの言葉
峠を下りきると、道の表情が変わった。
車輪の通った跡は増え、路肩には乾いた馬糞が落ちている。人が行き来する道に戻ったのだ。リオはそれだけで、少し息が楽になった。
前を歩く馬の耳が立っている。昨夜の休息は無駄ではなかったらしい。
「もう着くのか?」
セラが荷台から尋ねた。
「まだです。鐘楼が見えたら、そこから少し」
「鐘楼?」
「駅逓の目印です。道を知らない人でも、あれなら見落としません」
「お前は見落とすのか?」
「見落としません。仕事ですから」
セラは笑った。
リオは空を見た。陽はまだ高くない。
丘の向こうに鐘楼が現れた。
その下に、低い石壁と厩舎が見える。荷車が数台並ぶ、街道沿いの駅逓だった。
門の前で馬を止め、リオは時刻を確かめた。9時58分。6時40分に出発してから3時間と少し。坂道で馬を休ませた分を含めても、今朝の見込みから外れてはいない。
ただし、初日に失った時間が戻ったわけではなかった。
リオは手帳の見込み欄、「駅逓、10時頃」の横に到着時刻を書き足した。早着を喜ぶより、まず遅延を正しく伝えなければならない。
「ここで何をする?」
「昨日の経路変更と遅延を報告して、車両と物資の扱いを確認します。急いでいるからこそ、抜かせません」
「敵に見つかるぞ」
「見つからずに済む場所ではありません。代わりに、記録が残ります」
セラは、その答えが面白くないようだった。
*
駅逓の入口では、荷の種類と行き先ごとに列が分けられていた。
リオは馬を繋ぎ、荷台の封印と金具を一度だけ確認してから受付へ向かった。セラは近くに立つ。二人の距離は腕を伸ばしても届かない程度。抑制の届く8メートルを意識する必要もない。
「輸送報告と車両の確認をお願いします」
窓口の職員は、受け取った書面の番号を追った。
「昨日の便ですね。正規街道から来る予定の」
「通行不能で経路を変更しました。途中の補修所で当初の車両を預け、貸与された二輪車に替えています。補修所の預り証はこちらです」
職員は預り証を横に置き、もう一枚を差し出した。
「同乗者のお名前も」
リオの指が止まった。
峠では、名前を聞かれても答えるな。
昨夜の声が、紙の上から浮き上がる。
「輸送対象の氏名を、この窓口で記す必要がありますか?」
「いつもは記します。管理のために」
「この便には引渡先と管理番号が指定されています。必要な照合は、その番号と封印でお願いします」
職員は書面とリオの顔を交互に見た。
「規則を確認してきます」
「お願いします」
職員が奥へ引っ込むと、セラが声を低くした。
「言わないのか?」
「必要だと確認されたら、正式な手続きで対応します。知らない警告だけを理由に、仕事の記録を壊すわけにはいきません」
「では、なぜ止まった?」
「誰が、何のために聞いているのか、確かめたかったんです」
「職員だろう」
「職員なのは分かります。それでも、必要な情報かどうかは別です」
セラは少し考え、それから言った。
「名前ひとつも、お前にかかると荷物になるな」
「届け先の決まっていない荷物は、勝手に渡しません」
職員が戻った。上役に確かめた結果、この便は管理番号で受け付けられるという。リオは輸送対象を示す書類を伏せたまま、必要な欄だけ埋めた。
警告が何を指していたかは分からない。だが、名前を求められたという出来事だけは、手帳に残した。
*
報告の次は、車両の確認だった。
補修所から借りた二輪車は、あくまで貸与品だ。返却先は、この先の交換地点になる。リオは先約と返却条件が書かれた札を職員に見せた。そこまでこの車両で進めるか、途中で別の車両に替える必要があるか。そこを決めずに出発するわけにはいかない。
職員は帳面を開き、頁をめくった。
「変更の見込みが来ていますね」
「今、報告したばかりですが」
「いえ、事前連絡の欄です」
指先が止まる。
そこには、整った筆致で三つの言葉が並んでいた。
旧道経由。
二輪車。
翌朝見込。
リオは呼吸を整えた。
この駅逓に到着する前から、変更後の経路と車両の種類が記されていた。しかも、今朝到着すると見込まれている。
「その連絡は、いつ受けましたか?」
職員が欄の端を見た。
「昨日のうちです。伝言を受けて転記しました」
「伝言の原票は確認できますか?」
「手元にはありません。別の担当が受けています」
「では、転記した時刻と、受け取った担当者は分かりますか?」
職員は困った顔をした。
「時刻はあります。担当者は、控えを探さないと」
「探していただけますか? 私は変更の報告書を出します。帳面の記載が、どこから来たのかを確かめたい」
リオは、職員を疑っていると思われないよう、声を変えなかった。
予測で書いたのかもしれない。別の場所から通常の連絡が来たのかもしれない。伝え間違いということもある。
だが、分からないまま「誰かが監視している」と決めれば、それは記録ではなく推測になる。
昨夜、尾根で交わされた灯。峠に残っていた新しい轍。受付で尋ねられた名前。そして、この三行。
並べれば一本の線に見える。
線にしてよいかは、まだ分からない。
「何かあったのか?」
セラが尋ねた。
「俺たちより先に、俺たちの予定がここへ届いています」
「やはり、先回りしている」
「そういう可能性はあります。でも、この帳面を書いた人が敵とは限りません」
職員の前で話を広げないよう、リオはそこで止めた。
「こちらの受領記録と、貸与車の扱いも確認してください」
職員は頷き、必要な欄を写した。リオも自分の控えに、帳面の転記時刻を写す。後で照らし合わせられなければ、問いを立てた意味がない。
「この情報を誰が持ち込んだか、分かったら教えてください」
「分かる範囲で確認します」
「ありがとうございます」
職員に暴力を振るう者も、書類を奪おうとする者もいない。正規の窓口にいる以上、報告する道は開いている。必要になれば、審問院への連絡も文書で求める。リオはその手順を頭の中で並べた。
今はまず、馬と荷物だ。
*
厩舎では、馬が水を飲み終えるのを待った。
リオは車軸を触り、熱が残っていないことを確認した。車軸近くの固定金具にも、目に見える緩みはない。車両の扱いについては職員の回答待ちだ。待つ間に飼葉を補充し、荷の封印も改めて見た。
「お前は、もっと怒らないのか?」
セラが言った。
「何にですか?」
「勝手に予定を知られていることに」
「怒るのは、事実が分かってからでも遅くありません」
「敵が先に動けば遅いだろう」
「だから、ここで止まっている時間にも仕事をしています」
セラは笑わなかった。
「何か来たら、私が止める」
「そのときはお願いします。でも、駅逓ごと壊すのはやめてください」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてあります」
「お前の手帳ほど細かくはないはずだ」
リオは少しだけ笑った。
入口のほうで、誰かが大きな影を落とした。
荷役の男たちが、道を譲っている。
角があった。
頭の両側から伸びる、太く短い角。肩幅の広い大男は、駅逓の人間らしい上着を着ていなかった。人の流れの中でも、その姿だけがはっきり分かる。
角人族だ。
男は厩舎の前で足を止め、こちらを見た。
リオではない。
セラのほうを。
「知り合いですか?」
リオが聞くと、セラは答える前に、男の顔をじっと見た。
「さあな」
その声は、いつもの軽さを失っていた。
男は何も言わず、駅逓の建物へ視線を移した。
リオは手帳を閉じなかった。
先に届いた予定。名前を尋ねる窓口。そして、今ここにいる、まだ名も知らない男。
どれも事実だった。
つながっているとは、まだ書けなかった。




