世界最強、朝まで待つ
山の前と後ろで、灯が交わされた。
尾根に三度。振り返った道のずっと下で、一度。
リオは回数を数え直した。距離がありすぎて、どんな合図かは分からない。偶然にしては、間が揃いすぎていた。
荷捌き場跡の屋根は半分落ち、風が抜ける。小型二輪車は残った壁の陰に寄せてある。馬は眠りかけていた。ここは1日目の終点で、峠を越えたわけではない。
「行って見てくる」
セラが腰を上げた。
「やめてください」
「三つ灯った。下で一つ返した。合図だろう」
「合図かもしれません」
「だったら探す」
「意味がわからないまま追えば、向こうの望んだ場所へ行くことになります」
セラは開きかけた口を閉じた。
「怖いのか?」
「怖いですよ。暗い山道も、知らない相手も。それより馬が脚を折る方が困ります」
「私がいれば守れる」
「馬が滑るのを防ぐために、先の見えない坂へ出る必要はありません」
リオは二輪車の轅に結んだ手綱を確かめた。抑制の届く範囲を考えても、二人の間を8メートルも空けるつもりはなかった。
「罠だと決めているのか?」
「決めつけません。だから追わないんです」
セラは不満そうに尾根を見た。それでも戻ってきた。
灯は、それ以上現れなかった。
しばらくして、崩れた壁の外で小石が鳴った。
セラが立ち上がるより先に、リオは手を挙げた。音は一つ。足音は続かない。誰かがここへ近づいてくるなら、もう少し聞こえるはずだった。
「いるなら出てきてください」
返事はない。
風が痩せた草をこすり、暗がりから声だけが届いた。
「峠では、名前を聞かれても答えるな」
セラの肩が動き、壁の外へ声を投げた。
「待て」
「追いません」
リオが言うと、彼女は壁の向こうへ踏み出すのをやめた。
やがて小石がもう一度鳴り、気配は消えた。声の主が一人だったかどうかさえ確かめられなかった。
「名前を隠すような相手は怪しい」
「相手は、名前を聞かれても答えるなと言ったんです」
「同じことだろう」
「違います。誰が、誰の名前を聞くのかも分からない」
リオは配送日誌を開いた。夜営地点、尾根の灯三度、後方の灯一度。時刻は正確には取れず、日没後としか書けない。
その下に、声の言葉をそのまま写した。
意味は書かなかった。
勝手に意味をつければ、明日の自分がその解釈を事実として読んでしまう。
「見張りは交代で」
「私は眠らずとも動ける」
「それでも座ってください。朝、あなたにも仕事があります」
「敵を倒す仕事か」
「荷を無事に届ける仕事です」
セラは鼻を鳴らし、車輪のそばに腰を下ろした。
夜は長かった。灯を見た尾根へ目が向くたび、リオは馬の呼吸を数えて意識を戻した。知らない何かを追うより、ここにあるものを失わない方が難しい。
*
夜明け前、6時に起きると、リオはまず馬の脚に触れた。
蹄の溝に入り込んだ小石を取る。四本の脚を順に確かめ、熱と腫れがないかを見る。飼葉の減りは予定よりわずかに少ない。水桶にはまだ底が見えなかった。
次に二輪車だ。
車輪をゆっくり回し、固定具の緩みを指で探る。車軸の付け根に泥が固まっていたので、細い木片で落とした。左右の回り方に大きな差はない。
綱の一か所が毛羽立っている。
リオは手持ちの短い予備綱を出し、擦れる位置を変えた。結び目を作り直してから、荷台の封印に指を近づける。割れも剥がれもない。
「一本くらい、切れても運べるだろう」
背後からセラが言った。
「重要でない綱なら、最初から使いません」
「厳しいな」
「綱が切れてからだと、もっと厳しくなります」
リオはもう一度結び目を引いた。
セラが袖をまくったとき、左手首の痣が見えた。
消えてはいない。だが、昨日より広がってもいなかった。
「痛みますか?」
「変わらん。お前の力は、治す力ではないからな」
「ええ。現状を守るだけです」
それでも、現状が守れていることには意味がある。増えていないものを、治ったことにしてはいけない。
「昨夜の相手を見つけるのは得意だ」
「あなたが強いのは知っています」
「ではなぜ探さない?」
「俺たちの目的地は相手の居場所じゃありません。到着するのが先です」
「世界最強でも?」
「世界最強でも、車輪は坂の下へ転がります」
セラは妙な顔をしたあと、声を上げて笑った。
「お前は本当に馬と車輪を心配するな」
「二人とも歩くことになったら、あなたにも分かります」
*
点検を終えた頃には、空の色が明るくなっていた。
出発予定は6時40分。
リオは地図を膝に広げ、昨夕までの走行記録を並べた。
街道が使えれば初日の予定はもっと先まで進めた。だが実際には補修所に寄り、二輪車へ借り換え、旧荷車道へ回って日没前に止まった。失った時間を、帳面の上でなかったことにはできない。
今日も、旧道の全区間が平らなわけではない。
道幅の狭い部分では、人が先に歩いて石を除ける。下りでは車輪を抑え、坂を上るときには馬を急がせない。どの作業も短く見えるが、積み重なれば時間になる。
リオは地図の道筋を指で追った。荷捌き場から側道を抜け、本道へ戻る。その先、細い曲がり角が重なっているところには印をつける。地図上の直線距離だけで出発時刻を決めれば、山道では必ず外れる。
駅逓まで約9キロ。そのうち3キロほどは峠道が続く。馬を急がせずに進めば、3時間から3時間半。6時40分に出ても、到着は10時前後になる。
「走れば早い」
「馬が走り続けられるなら、ですね」
「私が引くか」
「道が狭ければ、車輪が石に乗り上げます。引く力が大きくても、道幅は広くなりません」
リオは馬の息を見た。昨日の迂回で無理をさせている。今朝すぐには異常がなくても、峠で急がせれば後から脚に出るかもしれない。
次の駅逓までに必要なのは、最短の時間ではない。馬と二輪車が壊れず、到着見込みを説明できるだけの余裕を持った時間だ。
荷物の封印が無事であること。借り換えた車両の経緯。旧道へ回ったために遅れが生じたこと。着いたらこれらを順に報告する。相手が知りたがるのは、リオの不安ではなく、受領できる荷と次の手配に必要な情報だ。
「駅逓で何を話す?」
「遅れた理由と、今の車両の状態です」
「灯のことは?」
「見たことは伝えます。ただ、追手だとは書きません」
「なぜ?」
「確かめていないからです」
セラは地図の端を押さえた。
「なら、昨夜の言葉は」
「そのまま伝えます。聞かれても名前を答えるな、という警告があったことだけ」
「聞いて従うのか?」
「誰が尋ねるのか、そこで考えます」
勝手に規則を増やすわけにはいかない。公的な受領手続きで名乗る必要があれば、その意味も確かめなければならない。
リオは地図を畳んだ。今日進める距離を大きく書き込む代わりに、足を止めて点検すべき場所を二つ記した。どちらも地図上で曲がり道が続く箇所だった。実際の状態が違えば、そこで計画を直す。
「6時40分に出ます」
「もっと早くは?」
「点検を飛ばすなら。でも飛ばしません」
「敵が来ても?」
「そのときは、あなたに頼ります」
セラは目を細めた。
「ようやく出番か」
「来なければ、それが一番です」
彼女は残念そうに肩をすくめた。
*
峠の道は、見通しが開けるところまでしばらく曲がり続けた。
リオは車輪の通る線を確かめながら歩いた。日差しの届かない路肩はまだ湿っている。馬の歩幅に合わせ、轅が左右に振れない位置を選ぶ。
前方の尾根が途切れたところで、道に二本の細い筋があった。
新しい轍だ。
昨日の古い凹みに重なった部分だけ、土の縁が崩れていない。今朝か、夜の間に通った車両があるらしい。
リオはしゃがみ、二本の筋の間を目で測った。自分たちの車輪幅に似ている気もする。しかし、土が流れた箇所もあり、正確な幅は取れない。車輪が二つだったという以上のことは分からなかった。
「先回りだな」
セラが言った。
「かもしれません」
「昨夜の連中か?」
「それも分かりません」
リオは轍の向かう先を見た。道は峠の向こうへ続いている。自分たちより早く、そこを通った誰かがいる。それだけは確かだった。
日誌に、新しい二輪の轍、と書く。幅は不確か。通過時刻も不詳。
「追うか?」
「追いません」
セラが笑う。
「またか?」
「配達先は、轍の主じゃありません」
言いながら、リオは轍から目を離せなかった。二本の筋は、自分たちがこれから向かう駅逓への道を、ひと足先に下っていた。




