通行点検は、通らない
旧荷車道の入口は、妙にわかりやすかった。
腕木を抜かれた道標の先。草に埋もれているはずの脇道には、踏み固められた土が細く続いている。少し進めば、曲がり角に新しい白木の杭まで立っていた。
「親切な道だな」とセラが言った。
「ええ。誰に親切なのかは、まだわかりませんが」
リオは手綱を緩め、二輪車をゆっくり進めた。車輪が通ったばかりの轍がある。雨を吸った地面に、輪縁の筋がまだくっきり残っていた。トマの話とは合わない。旧道としては整いすぎている。
馬は耳を前へ向けている。怯えてはいない。それでもリオは速度を上げなかった。積荷は以前の半分以下になったが、車体が小さくなった分、轍の片側に足を取られるだけで姿勢が変わる。
「誘い込まれていると思うか?」
「通ってほしい場所は、あるみたいですね」
「なら、先で待っている者を倒せばいい」
「倒しても、届け先が近づくとは限りません」
セラは不服そうだったが、剣には触れなかった。
曲がり角の手前でリオは地図を開いた。峠筋へ続く本来の旧荷車道。その脇に、古い荷捌き場を経て、先で本道へ戻る短い側道が細く描かれている。今は使われていないはずの道だ。
前方には小さな橋があった。欄干の片側だけ木が新しい。橋板の修理が最近行われたこと自体はおかしくない。しかし、その先に見える杭と轍まで同じ日に用意されたように感じられた。
リオは二輪車を止めた。
「どうした?」
「あれを見てください」
橋を越えた先に、横木を渡した簡単な柵があった。外套を着た男が二人。片方は紙を手に持ち、もう片方は道の端に立っている。
杭には、「通行点検」と書かれた板が下がっていた。
「関所か?」
「この地図には載っていません」
「新しくできたのだろう」
「その可能性もあります」
リオは声を落とした。ここからでも向こうに二輪車と乗員の姿は見えるだろう。しかし、書類の封印やセラの顔立ちまで確かめられたとは限らない。
相手の一人がこちらに気づき、手を振った。
「そこの荷車! 通行点検だ。橋の先まで進め!」
リオは手綱を握ったまま、動かなかった。
「どちらの管轄ですか?」
「街道管理の点検だ。荷と同乗者を確認する」
「発行元と担当印を、こちらから見えるように示してください」
男は紙を持ち上げた。距離があり、文字は読めない。
「来れば見せる!」
「権限を確認できるまでは、橋を渡れません」
男が隣と何か話した。リオの問いに答える代わりに、柵の方へ来いとまた手招きする。
「私が行こうか」とセラ。
リオは首を横に振った。
「あなたが行けば、確認どころじゃなくなります」
「お前が行けば?」
「あなたから8メートル離れます」
「そうだったな」
セラは一度だけ前を見た。二人の男は武器を抜いていない。それでも、彼女の右手が剣の柄の近くに留まる。
「私なら柵も二人もどかせる」
「知っています。でも、今はどかさなくていい」
「……わかった」
それは意外なほど短い返事だった。
リオは馬の頭をゆっくり回した。背後で「おい、どこへ行く!」と声が上がる。追ってくる足音はまだない。
「正式な関所なら、次の駅逓で記録を照会できます。今ここで相手の言いなりになる理由はありません」
「では、戻るのか?」
「違います。地図に載っている道を通ります」
側道の入口は、背の低い藪の陰にあった。獣道よりは広いが、二輪車がすれ違える幅はない。リオは一度降りて車輪の通り道を確かめた。馬を先に歩かせ、そのすぐ後ろを車体が追う。セラは反対側へ大きく離れず、荷台の横から辺りを警戒した。
しばらくは順調だった。
問題は、露出した石の脇で路肩が一段落ちている場所だった。左の車輪が低い地面へ落ちれば、車軸が石にぶつかる。無理に引けば軸受けが歪むだろう。
「ここを通すのか?」
「荷を軽くして、段差をならします」
リオは荷台から水袋と工具を下ろした。先に馬の立つ位置を確かめ、車輪が通る幅だけ石を寄せる。出発のときから積んできた予備板を渡すと、段差の縁に短い接地面ができた。
セラが板を見下ろす。
「それで通るのか?」
「真っすぐなら。横へ流れたらやり直しです」
「斬った方が早くないか?」
「道を斬らないでください」
「冗談だ」
「昼から、冗談に聞こえなくなってます」
馬は慎重に前へ出た。リオが手綱を引きすぎないよう歩幅を合わせる。二輪車の右輪が石を越え、左輪が板へ乗った。
ぎしり、と木が鳴る。
車体がわずかに傾いた。
リオは馬を止めた。戻せば板がずれる。進めば左輪が外へ滑りそうだった。
「セラ、左の車輪だけ!」
「見えている」
滑りかけた車輪の進む向きが、不自然なほど小さく変わった。ほんの一瞬。車輪は板の中央へ戻り、次の回転で段差を抜けた。
馬は自分の足で渡り切った。セラは車体を抱えて運んだわけでも、道を平らにしたわけでもない。
リオは息を吐き、車輪の固定具を確かめた。曲がりも緩みもない。
「助かりました」
「もっと早く使わせればよかった」
「早く使っても、道幅は広がりませんから」
「お前は何でも狭い話にする」
「道が狭いので」
セラが小さく笑った。
下ろした荷を戻し、縄を締め直す。手間はかかった。峠筋の道をそのまま進んでいれば、もっと距離を稼げただろう。だが、あの柵を通過していれば、書類も同乗者も、相手の望む形で見せることになった。
二輪車が再び動き始めたころには、木々の影が伸びていた。
古い荷捌き場の跡は、山側に広がるわずかな平地だった。屋根は半分崩れ、使われなくなった繋ぎ柱が一本だけ残っている。近くには雨水を集めた窪みがあったが、水質まではわからない。
リオは崩れかけた屋根から離れた場所を選んだ。足元は固く、二輪車が傾かない。馬を繋ぎ、持参した水と飼葉を出す。リオとセラが離れずに動けるよう、寝る位置も先に決めた。
「ここで止まるのか?」
「止まります」
「まだ歩ける」
「あなたはそうでしょうね」
「馬も歩けそうだ」
「暗い急坂を、小さい二輪車で進む理由にはなりません」
セラは山の上を見た。目指す松風宿は、まだずっと先だ。
「初日から遅れたな」
「ええ。明日の朝、次の駅逓までどれだけ進めるか計算し直します」
「敵を倒してもいないのに、満足そうだな」
リオは荷台の封印を一つずつ確かめた。どれも切られていない。
「殺されず、荷も失わず、どの道を通るかまで向こうに決めさせなかった。それで今日は十分です」
「随分と控えめな勝利だ」
「配達は、着いてから勝ちって言う仕事なんです」
日が落ちると、山の輪郭だけが空に残った。
セラが先に林の音を聞き、リオは火を起こさず見張りの位置を決めた。遠くの声は届かない。昼の弓兵がどこへ行ったかもわからない。
やがて、向かいの尾根で小さな灯がともった。
一度。消える。
二度。消える。
三度。
「民家か?」とセラが言った。
リオは答えなかった。
少し遅れて、来た道の方角から別の灯が一度だけ返った。
片方が灯を使い、もう片方が応えた。それだけは見えた。合図の意味も、誰がそこにいるのかも、まだわからない。
ただ、山道の前と後ろで、誰かが互いの存在を確かめ合っている。
リオは暗い道に目を凝らした。
今夜、二人が止まった場所も、もう知られているのだろうか。




