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借りを返す、と言った男


駅逓の中庭では、荷車の車輪が石を噛む音が続いていた。


リオは帳面から写した時刻を見直した。自分たちが到着したのは9時58分。その前に、「旧道経由、二輪車、翌朝見込」と記された連絡が届いていた。


誰が見たのか。誰が伝えたのか。書いた職員に尋ねても、伝言の原票は出てこなかった。


不明、と手帳に記す。そこまでは昨日から何度も繰り返した仕事だった。


「終わったか?」


セラが厩舎のほうを見ていた。


「手続きはまだです。次に使える道と、馬の状態を確認してから決めます」


「もう一つ、確認した方がよさそうだぞ」


彼女の視線の先に、角人族の大男がいた。


さきほど外から見えた男だ。大きな体に比べて、足音が軽い。彼は馬に近寄らず、通路の端で二人を待っていた。男がわずかに肩の向きを変えただけで、荷捌き場へ続く通路がひどく狭く感じられた。けれど、道を塞ぎはしなかった。


「声をかけていいか?」


セラが小声で聞いた。


「こちらからは、まだ」


「お前は昨日から、そればかりだな」


「今日は、相手がこっちへ歩いてきます」


男は数歩手前で止まった。


「久しぶりだな、セラ」


声に驚きはなかった。探していたものを見つけたというより、約束の場所に来た相手を迎える口調だった。


セラは顔を上げた。


「……ガルド」


リオは二人を交互に見た。


「知り合い、なんですね」


「顔は知っている」


「随分な紹介だ」


ガルドが笑った。しかし、セラは笑わなかった。


「ここで何をしている?」


「仕事だ」


「私を追って?」


「それも含む」


リオは手帳を閉じた。質問をするなら、仕事の順番がある。


「まず、お名前と用件を確認させてください」


「ガルド。用件は、その女を生きたまま連れていくことだ」


短い言葉だった。だからこそ、聞き間違える余地がなかった。


セラの肩がわずかに動いた。


「ずいぶん勝手だな」


「お前が大人しく付いてくるとは思っていない」


「なら話は終わりだ」


「終わらせるかどうかは、そっちの配達屋が決めるんじゃないか?」


ガルドの視線がリオへ移る。


「名を聞いても?」


昨夜の警告が、耳の奥で形を持った。


峠では、名前を聞かれても答えるな。


ここは峠を越えてすぐの駅逓だった。「峠では」という警告が、ここにも当てはまるのか。誰が尋ねる名前なのかも、まだ分からない。


リオは答える前に、相手の服を見た。駅逓の制服ではない。審問院の徽章も見えない。


「先に権限を示してください」


「名前くらい教えてくれてもいいだろう」


「配送の担当者へ用件を通すなら、誰の権限で求めているかが先です」


ガルドの口元が、少しだけ上がった。


「警戒されてるな」


「仕事です」


「なら、俺も仕事の話をしよう」


男は内懐から折った紙を出した。ただし、リオへ突きつけはしなかった。二人の間に見えるよう広げる。


そこにあったのは、報酬額と期限、対象を生存状態で確保するという文言だった。


依頼主の名は伏せられていた。


リオは紙に触れないまま読んだ。公的な命令書にあるはずの発行元も、正式な引渡先もない。


「これは私的な依頼ですね」


「そうだ」


「こちらには審問院への配送契約があります。あなたの依頼で、その契約を変更することはできません」


「分かってる。だから相談してる」


「相談の中身は?」


「危ない道を行くことになる。俺がついていけば、死なせずには済む」


セラが鼻で笑った。


「私を守るつもりか?」


「お前を殺そうとする奴が、俺と同じ依頼主だと思うなよ」


言い切ってから、ガルドはわずかに目を細めた。


「いや。誰の依頼かも分からない相手を、まとめてそう呼ぶべきじゃないな」


リオはその言い直しを覚えておいた。


「私たちの到着予定が、昨日のうちにこの駅逓へ届いていました」


「へえ」


「あなたは知っていましたか?」


「ここに来るとは聞いていた」


「誰から?」


「依頼主から、だな」


「それでは確認できません」


「そうだろうな」


ガルドは隠しもしない。だが、言っていないことの方が多い。


駅逓の帳面に先に記された情報と、この男の知識が同じ道筋で届いたとは限らない。リオはその線を、まだ結ばなかった。


*


職員が車両の点検結果を告げに来たのは、そのときだった。


二輪車はすぐには出せない。車軸の付け根を詳しく調べたところ、外からは見えない緩みが見つかったという。締め直しが必要だ。馬にも飼葉と水を取らせたい。


リオは整備に必要な時間を聞き、用紙へ控えた。


ガルドが横からのぞき込む。


「ずいぶん細かいな」


「壊れた車輪を運ぶ仕事ではないので」


「最強がついてるのに?」


「最強でも車輪は直してくれません」


「直せるぞ」


セラが言った。


「力任せに曲げたものは、修理とは呼びません」


ガルドが吹き出した。


「お前、配達屋には勝てないんだな」


「勝負していない」


セラは顔をそむけた。


リオは二人を見た。セラが嫌悪だけでガルドを見ているわけではないことが、少し気になった。過去に何があったかは聞いていない。


今、必要なのはそこではない。


「ガルドさん。駅逓の職員の前で、あなたが人を連れていく権限を持たないことを確認できますか?」


「できる」


「では、その旨を書面に残します。引渡しの要求があったことも」


「俺を通報するのか?」


「脅迫や暴力があれば正規の経路で報告します。今は、要求と権限の有無を記録するだけです」


「それでいい」


意外なほどあっさりした返事だった。


リオは職員を呼び止め、確認の立ち会いを頼んだ。

「この方から引渡しの申し出を受けました。公的な引渡命令はお持ちでない、ということでよろしいですね」

「ない」とガルドが答えた。

職員は二人の顔を見比べた。

「発言を聞いたことなら確認できます。契約の優先順位までは、こちらでは判断できません」

「それで十分です」

リオは紙を出し、事実だけを書いた。私人による生存確保の申し出。公的な引渡命令なし。配送契約の変更なし。


ガルドは署名を求められると、読み返してから名前を書いた。職員も立ち会った旨を余白に記し、日時を添えた。


「俺が嘘をついていたら?」


「そのときに確認できるように、残しています」


「用心深いな」


「忘れっぽいので」


「嘘だろ」


横から、セラが言った。


「そうかもしれません」


署名の下で、紙の端が風に揺れた。


リオはそれを押さえた。相手を敵と決めてしまえば、話を切り上げることは簡単だ。だが、相手はまだ手を出していない。ここで騒ぎを起こせば、出発はさらに遅れる。


「同行の話は保留です。私たちは次の移動準備を進めます」


「保留、ね」


「はい。承諾ではありません」


「覚えた」


ガルドは依頼書を折り、元の懐へ戻した。それ以上、要求を重ねはしなかった。


*


厩舎の外に戻ると、セラが低い声で言った。


「なぜ断り切らない?」


「あなたを引き渡す気はありません」


「なら、あいつを遠ざければいい」


「遠ざけられる根拠が、まだありません。職員に頼んでも、私たちの後を歩くことまで止められるとは限らない」


「私ならできる」


「そうでしょうね」


リオは軽く息を吐いた。


「でも、それを始めたら、誰が何をしたのかを私が報告しなくてはならなくなります」


「報告が嫌なのか?」


「配達が止まるのが嫌です」


セラはしばらく黙っていた。


「ガルドは、私を殺しに来た奴じゃない」


「そう思う理由は?」


「昔、あいつが私に、借りを返すと言ったことがある」


セラはそこまで言って、口を閉じた。


リオはそれ以上尋ねなかった。何の借りなのか、いつの話なのか。それだけでは二人の関係を決められない。


「でも、あいつは諦めない」


「でしょうね」


「怖くないのか?」


「怖いです」


リオは厩舎の扉を見た。


「だから、馬と車輪の方を先に確かめます」


「本当にそればかりだな」


「生きて着くために必要なので」


手帳には、到着の時刻と、署名のある書面の存在を書いた。


ガルド。私人の依頼でセラの生存確保を求める。公的引渡権限なし。同行提案は保留。


その下に一行、書きかけた。


昨夜の灯と関係あり。


リオは筆を止めた。


まだ分からない。


一度線を引いてから、書き直す。


昨夜の灯との関係、不明。


遠くでガルドの低い笑い声がした。駅逓の職員に、次の道の状態を尋ねていた。

「同行を認められなくても、その道は通れるんだな」

聞こえたのは、そんな言葉だった。リオは手帳を閉じた。保留という返事で、相手の行動まで止まったわけではない。


この男は、敵なのか。


それとも、敵と呼ぶにはまだ早い何かなのか。


答えは出ない。


だが、ひとつだけはっきりしていた。


運ぶ相手は、目の前にいる。


それを譲る書類は、どこにもなかった。

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