行き先を、ひとつにされた
「……なんで、こんな所に」
リオの掌には、泥を拭っても消えない歯車の印があった。外周の一部が欠け、その上を斜線が横切っている。商会の管理札にも押されていた印だ。
同じ商会の資材が道を塞いだ。だから商会が犯人だ、と結論づけるのは早い。荷車の金具は修理にも使い回される。盗品かもしれないし、中古品かもしれない。
金具の端には、針先ほどの孔が二つ並んでいた。
「知っている印か」とセラが尋ねる。
「車両を借りた商会のものです。ここで拾った理由まではわかりません」
リオは布で金具を包み、荷袋の内側に落とした。
その足元に、矢が一本突き立った。
「っ!」
セラがリオの襟首を掴み、荷台の陰へ引き戻す。矢羽根が細かく震えていた。林の奥に人影はない。
「まだ見ているな」
「わざわざ居場所を知らせてくれるんですか」
「射られてから文句を言え」
「射られたら言えませんよ」
言い返しながら、リオは荷車の方を見た。戻り道を塞ぐ大型の荷車。その横に倒木。どちらも、押し退ければ済む置き方ではない。
「まず馬を動かします。ここを片づける間、荷台にぶつけられたら終わりです」
「あの荷車なら私が動かす」
「それは承知しています。動かしたあとが問題なんです」
リオは馬車を路肩の硬い場所へ数歩だけ寄せ、車輪止めをかませた。馬の鼻先を林と反対へ向け、手綱を短く結ぶ。
「作業中も8メートル以内でお願いします」
「わかっている」
セラと並んで、後方の障害物へ近づいた。
荷車は片輪を外され、むき出しの車軸を土へ食い込ませていた。荷台の底が石に乗り、太い綱が杭へ渡されている。倒木は細い枝を残したまま、隙間を埋める位置に横たわっていた。
壊すだけなら簡単だろう。セラなら。
だが荷台を真っ二つにすれば、割れた板と車輪が散る。道幅は広がらず、馬の脚を傷つける破片だけが増える。
「斬れば早い」
セラが言った。
「斬る場所は指示します」
「随分と偉くなったな」
「道のことなら俺が決めていいんでしょう?」
彼女は一瞬こちらを見て、肩をすくめた。
リオは杭の根元を指さした。
「最初にあの綱を緩めます。切り落とすのは最後です。荷台がどっちへ倒れるかわかってから」
「わかった」
セラは剣を抜かなかった。近づいて二つの綱留めを見据えると、張力を受けていた留め具がそれぞれ別の方向へずれた。張りつめた綱が緩み、荷台が小さく鳴った。
リオは車軸が土を抉った痕を確かめ、木片を一枚、荷台の下へ差し入れる。留め具の制御が外れても荷台が急に倒れないよう、反対側に楔を打った。セラが作業する間も、彼女の傍を離れない。
「もう少しだけ、そっちへ」
「こちらか」
「違います、倒木じゃなくて荷台です!」
セラが眉を寄せた。世界最強を相手に、方向指示ひとつで冷や汗をかくとは思わなかった。
空気を裂く音がした。
セラの目が動く。飛んできた矢が不自然に向きを変え、道端の土へ刺さった。二つの留め具はまだ動いている。矢を加えて三つ。彼女の力が同時に扱える限界だ。
続いて、別の枝が林で鳴った。
「リオ、頭を下げろ」
彼は考えるより先に荷車の陰へ伏せた。二本目と三本目が、ほとんど同時に飛んでくる。セラは留め具の一つの制御を解き、二本の矢の向きを逸らした。四つを同時には扱えない。
制御を離れた留め具が張力に引かれ、緩みかけていた綱が跳ねた。楔が軋み、荷台がわずかに傾いた。
「止めて!」
叫ぶと同時に、リオは横から木片を押し込み、荷台が滑る前に支える。留め具ひとつの制御を解くだけで荷重が移る。敵に狙われながら続けるには危険すぎた。
「作業を変えます。三つ同時に使わせるのはやめます」
「矢ならまだ防げる」
「防げても、荷車が倒れたら一緒です」
リオは荷台の横へ回るのを諦め、板の陰から手の届く綱だけを処理することにした。セラには林を見る役を残す。片方が見張りに回ると、荷台は少しずつしか動かなかった。
遅い。
だが馬の脚を一本折るよりは、ずっと早い。
近くの三人は、まだ倒れた場所から動けずにいた。槍を持っていた男は顎を押さえ、もう一人は手首をかばい、三人目は腹を抱えている。
リオはセラと離れないようにしながら、手の届く位置の武器を遠ざけた。拘束して連れ帰る時間も、事情を聞き出す余裕もない。
「逃げるなら止めません。でも、その武器は置いていってください」
返事はない。セラが一瞥すると、誰も手を伸ばさなかった。
作業を再開した。
倒木の枝を払い、杭を一本ずつ抜く。セラが重い荷台を路肩側へ滑らせる間、リオは路面に転がりそうな車輪と木材を先に寄せた。綱の切れ端まで拾うのは、馬の蹄に絡めないためだ。
「そこまで片づける必要があるのか」
「馬は木片を見て避けません。人間より、足元に正直なんです」
「人間も足元は見る」
「あなたは普通の人間の速度で走らないでしょう」
セラは返事をせず、倒木を路肩へ押しやった。枝先が石を削り、道の中央にようやく馬車一台ぶんの隙間が開いた。
その後も矢は時折飛んできた。距離があるのか狙いは甘かったが、手を止めさせるには十分だった。
撃ち倒すより、時間を奪うつもりなのか。リオには相手の顔も見えなかった。
「もう通れるな」とセラ。
「まだです」
リオは馬車の車幅を頭に浮かべ、轍の端から倒木まで歩測した。荷台の左右には余裕があっても、曲がり角で車輪が引っかかれば元も子もない。
セラと一緒に馬車へ戻り、手綱を解く。彼女が隣で林を見張る間に、リオは路肩の余地を使って馬車を切り返し、来た道へ車体を向けた。それから、ゆっくり馬を進ませた。車輪が砕けた枝を踏む。嫌な音がして、彼はすぐ止めた。
地面へ降りて枝を拾う。もう一度進ませる。
今度は、車輪が何にも触れなかった。
「通過できます」
「最初に斬っておけばもっと早かった」
「その場合、今ごろ破片を拾っています」
セラは納得しきらない顔で、腰の剣から手を離した。
リオは荷台の固定具を調べた。水桶は無事。食糧袋の口も閉まっている。車輪修理用の工具、契約書類、予備の荷縄。大きな荷物は一つも増えていないのに、運ぶべきものの重さばかり増した気がする。
「旧道にはこの馬車で入れないんだろう」とセラ。
「はい。でも、小さい車両を探す場所まで、これで戻れます」
「どこにある」
リオは商会の貸与書類を取り出した。車両の管理番号、返却条件、途中で故障した場合の連絡先。小さな字が並ぶ欄の隅に、街道補修所の名前があった。
今いる場所から、後方へ3.5キロほど。
「まず、ここへ戻ります。馬車の修理だけじゃなく、小型車両を扱っているかもしれません」
「なかったら?」
「別の手を考えます。借りられると決まったわけじゃありませんから」
セラは少しだけ笑った。
「お前は、できない話ばかりするな」
「できることだけ話して出発したら、途中で死にます」
二人は撤去した道の前に立った。振り返れば、土砂で埋まった切り通しがまだ見える。道標から腕木が消え、後ろに荷車が置かれ、前には斜面が崩れた。
ばらばらの障害物ではない。
道を知っている者が、順番に並べたものだ。
リオは地図の細い線を見た。
「行き先を隠したんじゃない。行き先を、ひとつにしたんだ」
「なら、行かなければいい」
「期限に間に合う別の道があればそうします。でも、今のところ旧道が一番現実的です」
「罠だと知っていて行くのか」
「向こうが用意した通りには通りません」
言い切ってから、リオは書類を折った。
まず補修所へ戻る。車両の在庫を聞く。借りられるか、返せるか、積荷が収まるか。そこで初めて次の道を決める。
セラが御者台のすぐ後ろへ乗り込む。リオも手綱を握り、二人の距離を確かめた。
背後の林は静かだった。
リオは馬をゆっくり進ませる。林の様子は、セラが見ている。自分が見るべきなのは、馬の耳と、前輪の通る位置だった。
林の奥で、短く指笛が鳴った。
追ってくる気配はない。ただ、こちらが引き返したことだけは、誰かに伝わったはずだ。




