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勝っても、道は通れない

「あそこに、誰かいる」


セラの声は、林に届かないほど低かった。


リオは手綱を握ったまま、林を見た。木々の間には午前の光が差し、風に揺れる葉がまだらな影を落としている。人影は見えない。


「何人です」

「見えたのは一人。ほかにもいるかもしれない」

「……見えたんですか」

「金具が鳴った。音のあとに枝が動いた」


リオには、ただの葉擦れにしか聞こえなかった。


道標の柱には、新しい傷が残っていた。留め具の穴を囲む木肌だけが白い。外されたのは、そう古いことではなさそうだ。


リオは街道の先へ目をやった。林が狭まり、道が土の斜面に挟まれる切り通し。そこへ続く轍の端に、まだ乾ききっていない土が盛り上がっている。


工事の知らせはなかった。


「戻ります」

「先へ行かないのか」

「何もないなら、10分後にまた来られます。何かあったら、戻れない」


手綱を引き、馬の向きを変えようとした。


馬車がまだ街道の先を向いているうちに、背後から重いものが地面を擦る音がした。


曲がり角の向こうに、大型の荷車が横倒し同然の角度で押し出されてくる。積荷は麻袋と木箱。車輪は片方が外され、むき出しの車軸が土を抉っていた。さらに荷車の後ろには倒木が一本、道幅いっぱいに横たわる。


人影が木陰へ引いた。


リオの口から、乾いた声が漏れた。


「……仕事が早いな」

「褒めているのか」

「いいえ。最悪の意味です」


リオは馬車を動かさずに車輪止めを掛けた。後ろの荷車は単に置かれているだけではない。荷台の下から太い索が地面へ張られ、杭で固定されているのが見える。


セラなら壊せる。だが、壊した荷が路上に散れば、今度はそれを片づけなければ通れない。倒木もある。馬車が通れる幅を確保してから、安全に転回する必要もある。


「十数分で済みますかね」

「私がやれば、もっと早い」

「荷車を壊すのはね。道路を空けるのは別です」


林の中で、弦が鳴った。


「伏せろ」


セラの声と同時に、一本の矢が馬の頭へ向かって飛んだ。


矢は馬の鼻先まで届かなかった。空中で斜めに折れるように進路を変え、道路脇の木へ深々と突き刺さる。


リオは御者台から降りかけて、踏みとどまった。先に馬だ。耳を伏せた馬の首を押さえ、手綱を短く持ち直す。


「馬を狙っています!」

「見ている」


二本目の矢は車輪へ。三本目は手綱を握るリオの手元へ。


セラが右手を上げた。


一本は上へ跳ね、もう一本は路面へ突き立った。セラの腰の剣は、まだ鞘に収まっている。何をしたのか、リオの目には追いきれない。


ただ、セラが動かしたものは、目の前にある矢だけだった。


木の間から男が飛び出してくる。短槍を持った男が一人、後方に剣を持った影が二人。全員、馬車へ向かっていた。


「セラ、8メートル!」

「わかっている」


彼女は馬車の脇から踏み出し、短槍の穂先を見た。


槍は急に勢いを失い、横向きになった。男が体勢を崩したところへ、セラの鞘が顎の下から跳ね上がる。短槍が地面へ落ちた。


二人目が大きく回り込もうとした。セラは追わない。踏み込んできた瞬間だけ剣を抜き、相手の手首を打って武器を弾く。刃が肉を裂いたようには見えなかった。それでも男は膝から崩れた。


三人目が馬の横へ走る。


「そっちは!」


リオが叫ぶより早く、セラの剣が閃いた。男の手から短刀がすっぽ抜け、地面に落ちる。男が腕を押さえて逃げようとしたところへ、セラが柄頭を鳩尾に叩き込んだ。


三人。


セラは息を乱していない。


「……これが、世界最強」

「何か言ったか」

「何でもありません。まだ林に人がいますか」


セラは木立を見据えた。


「遠い。姿は見えない」


そのとき、斜面の方から鈍い音がした。


一度。間を置いて、もう一度。


リオは切り通しへ顔を向けた。道沿いの法面を支えていた木組みの一部が、斜めに傾いている。


「まずい」


土がこぼれた。


最初は握りこぶしほどの塊だった。それが次の瞬間、砂埃を巻き上げる茶色い塊となって道路へ流れ落ちる。木組みが折れ、太い根がむき出しになり、斜面そのものが崩れた。


馬が暴れかけた。リオは手綱を引き、車輪止めに足を掛けて、馬に怒鳴った。


「落ち着け! 動くな!」


土砂の先頭から跳ねた石が、御者台へ飛んだ。


セラが半歩寄る。石は進路を変え、荷台の横をかすめて地面に落ちる。続いて飛んできた木片も、彼女が視線を向けると林の方へ逸れた。


三つ目の破片が走ったとき、セラはそれまで浮かせていた別の破片を路面へ落とした。次に目を向けるためだと、リオには遅れてわかった。


それでも土砂は止まらなかった。


斜面の数十メートル先で、幹線道が完全に埋まっていく。


土煙が林まで広がり、鳥がいっせいに飛び立った。


やがて音が止んだ。


リオは馬の呼吸を確かめた。四本の脚は無事。車軸も曲がっていない。荷台の固定具は緩んでいない。セラは隣にいる。左手首の痣は広がっていない。


そして前方の道は、なくなった。


「近くにいた連中は片づけた。弓兵はまだいる。ここに留まるな」とセラが言った。

「わかっています。でも、前は土砂、後ろは荷車です」


土砂は人の背丈を優に超えて積み上がっていた。掘り返すには人手と道具が要る。上の斜面には、まだ落ちそうな土が残っている。


セラが剣を納め、崩れた土を見た。


「どければいい」

「何を、どこへ?」

「土だ」

「量が多すぎます。しかも上から追加で落ちてくる。あなたが動かせたとしても、馬車を通す幅ができる前に日が暮れます」


セラは反論せず、土砂の山をもう一度見た。


リオは日の高さを確かめた。まだ初日の昼前。標準行程は9日、予備は3日ある。しかし、この道がいつ復旧するかは別の話だ。


「敵を追うか」とセラ。

「追いません」

「今なら捕まえられるかもしれない」

「その間、荷車を誰が片づけるんです。馬が逃げたら何に乗ります?」

「……私を運ぶのが仕事か」

「ええ。戦って勝つのは、あなたの仕事です」


リオは地図を広げた。


退路には固定された荷車と倒木。前方は崩れた斜面。地図上で残るのは、分岐から入る旧荷車道だった。


リオは細い線を指でなぞった。勾配がきつい。途中には、今の馬車の車幅では通れない場所が二つある。


「旧荷車道しかありません。ただ、この馬車では通れません」

「では、どうする」

「積荷を整理して、小型の車両に乗り換えます」

「車両は?」

「まだありません。まず調達先を探します。見つからなければ、荷を分けて運ぶ方法を考えます」

セラは地図と塞がれた道を見比べ、短く頷いた。


「後ろの荷車を片づけよう。お前の指示で」


その一言に、リオは思わず顔を上げた。


「何だ」

「いえ。命令を聞いてもらえるとは思わなかったので」

「剣のことなら私が決める。道のことなら、お前が決めろ」


リオは少しだけ笑い、馬車の陰に身を寄せた。弓兵がまだいる。セラに林側の警戒を頼んでから、荷台の工具袋を取る。


セラとの距離を8メートル以内に保ちながら、馬車の陰に沿って後方の障害物を確かめた。セラも林へ目を向けたまま、リオの動きに合わせて立ち位置を変える。倒木の脇、引きずられた荷車の下に、金具が一つ転がっていた。土のついた、掌に収まるほどの支え金具だ。


荷車の部品か。あるいは道路の工作に使われたものか。


リオは拾い上げた。


角に小さな刻印があった。泥を親指で拭う。


外周の一部が欠けた歯車。その中央を横切る、一本の斜線。


昨日、審問院の配送書類で見た。今朝、商会の馬車の管理札にもあった印だ。


同じ商会の部品が、なぜ道を塞ぐ現場に落ちている。


盗まれたのか。使い回しか。それとも。


「どうした、リオ」


セラが尋ねる。


リオは金具を握ったまま、もう一度、刻印を見た。


「……なんで、こんな所に」


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