最強の女と、8メートルの契約
「長いな」
セラ・ヴァイスは、机に積まれた書類を見て言った。
「人ひとり運ぶんです。荷札一枚で済むわけないでしょう」
「昨日は私を荷物扱いするなと言ったはずだ」
「だから書類には『生体配送対象者』って書いてあります。本人呼称はセラ。昨日の確認票にも」
「長くなっただけではないか」
「役所に文句を言ってください」
リオは署名欄を指で示した。拘束施設の面談室。窓の外はまだ薄暗く、出発用の馬車だけが中庭に待機している。昨夜、あれほど金貨の桁を数え直したのに、今朝になっても金額は変わっていなかった。代わりに胃の重さが増している。
机の向こうで審問院の役人が咳払いをした。
「先に条件を確認します。今回の署名で成立するのは、適合試験を含む条件付きの配送契約です。試験に合格し、双方が開始を承認した時点で、本輸送へ移行します」
「失敗したら?」とセラ。
「輸送は開始しません。別の手段を検討します」
「ほかにあるのか」
役人は答えなかった。リオが口を挟む。
「ないなら、なおさら失敗させられません。俺の能力は一度に一件、登録した変化しか抑えられない。あなたの《定着刑》が原因で起きる新しい損傷だけです。斬り傷も毒も防げません」
「承知している」
「もう一つ。配送をやめたいなら、いつでも言ってください。俺は運ぶのを止める義務がある。でも、それで能力が勝手に切れるわけじゃない。安全を確認してから解除します」
「私が止めろと言っても、お前が聞かなければいいと?」
「聞きます。そこは能力の仕組みじゃなく、契約と俺の仕事の話です」
セラはしばらくリオを見つめ、やがて羽根ペンを取った。
「わかった。試してくれ」
署名が二つ並ぶ。役人が確認し、医務官が立ち会いの記録をつけた。リオはようやく息を吐いた。
「それじゃ、登録します。手首を」
「お前はずいぶん気軽に人に触れようとするな」
「配達前の検品です」
「私が荷物ではないという話に戻るぞ」
「わかりました。では、失礼します」
リオは差し出された左手首に二本の指を当てた。皮膚の下に、細い金属線のような刻印が走っている。指先にかすかな熱が返る。いくつもの変化が入り交じる気配の中から、リオは刻印に由来する新たな損傷だけを選んだ。止めるのは傷が生まれていく過程。すでに負った傷を元に戻す力ではない。対象を絞ると、指先の熱がひとつに定まった。
「登録完了。まず刑の境界を越えます」
*
拘束室から外へ続く石畳には、鉄鋲が弧を描いて埋め込まれていた。拘束室の床に描かれた刻印、刑の基点を中心とした半径10メートル。そこまではセラの肉体に損傷が起きない安全圏だ。
鉄鋲の向こう側に、朝日が差している。
「踏み越えても、何も起こらなければ成功か」
「正確には、損傷が起きていないことを医務官に確かめてもらいます。痛みがないだけじゃ判断できません」
「慎重だな」
「仕事なので」
セラが一歩、境界を越えた。
兵士たちが息を詰める。リオも無意識に肩へ力を入れた。セラは立ち止まり、両手を開いて閉じる。刻印は薄く光ったが、血も痣も現れなかった。
医務官が手首と首筋を診る。
「新たな損傷は確認できません」
「第一段階、合格ですね」
リオは手元の用紙に印をつけた。セラは鉄鋲の列を振り返り、次いでリオに目を向ける。
「では、お前の限界は?」
「俺を中心に半径8メートルです。外へ出ると抑制だけが止まる。登録は残るので、範囲に戻れば再開します」
「測らせろ」
「数字なら、今言いました」
「8メートル。お前は知っている。だが、私が戦っている最中に正確に測れるとは限らん。どこから危険か、身体で覚えておきたい」
リオは即答しなかった。医務官が立ち会っても、傷が生まれるのを防げるわけではない。
「越えれば、傷になります。立ち会いがあっても防げません」
「それでもだ」
理屈は分かる。だが、気は進まなかった。リオは首を縦に振る前に、医務官と場所を確かめた。
「ここは刑の基点から10メートル以上離れています。一歩だけです。異常が出たらすぐ戻ってください」
「了解した」
「合図より先に出ないこと」
「お前は私の上官か?」
「輸送中はそう思ってもらった方が助かります」
リオは荷縄の一端を足元に置き、もう一端を8メートル先まで石畳に伸ばした。自分はその場から動かない。医務官がすぐ脇で待つ。セラはリオの隣から、縄の端へ向けて歩いた。8メートルの手前で止まり、合図を待つ。
「一歩だけ。どうぞ」
セラが小さく踏み出し、身体ごと縄の端を越えた。
次の瞬間、左手首の刻印から黒い筋が走った。
「戻って!」
セラはすぐ足を引いた。黒い筋の伸びが止まる。医務官が腕を取り、二人の間隔を確かめてから診察した。
「進行は止まっています。損傷はごく浅い。ただし、できた痕は残ります。能力に治療の効果はありません」
リオは胸の内側が冷えるのを感じた。ほんの一歩。たったそれだけで、配送対象に傷をつけたのだ。
「もう試しません。今の結果で十分です」
「8メートル。覚えた」
セラの声は平静だった。だが、痣を隠そうとはしない。
「昨日、何歩歩けるかと聞いたな」
「歩数じゃ答えられませんよ。俺のそばにいれば、王都までだって歩けます」
「離れなければ、か」
「ええ。最強でもそこだけは守ってください」
セラは不服そうに口を結び、それから短く笑った。
「配達屋の命令というのも、案外厄介だな」
*
医務官の記録と試験結果を確認し、セラとリオが本輸送の開始に改めて同意すると、役人は正式な出発許可を出した。
中庭では共同輸送商会の手代が車両を引き渡していた。外周の欠けた歯車を斜線が横切る印章が、荷台の管理札に刻まれている。
リオは車輪のがたつき、軸受けの油、荷台の固定金具まで確認した。自分が座る御者台の踏み板に小さなひびを見つけると、手代にその場で交換してもらった。別の予備板を一枚、荷台に固定する。手綱の長さと馬の癖も確かめた。今回は商会の御者が同行しない。道中、馬を扱い、道を選ぶのはリオ自身だった。
「交換、助かりました。ほかは問題ありません。ありがとう」
「よい旅を」
手代はごく普通に一礼して戻っていった。
その間に、役人が細長い包みを運んでくる。布がほどけると、鞘に納まった剣が現れた。セラが手を伸ばすより先に、リオが役人を見た。
「死刑囚に剣を渡して大丈夫なんですか」
「審問院が移送中の護衛目的に限り認可しています。使用責任は輸送担当者にも及びます」
「俺にも?」
「はい」
「今日いちばん聞きたくない言葉ですね」
セラは剣を腰に帯びた。何か特別な構えを取ったわけでもない。それなのに、近くの兵士が一歩、通り道を空けた。
「それで、次は?」とセラ。
「出発です。途中で勝手に馬車から離れないでください」
「厳しいな」
「特に休憩のとき。食事でも用足しでも、8メートルの外には出られません」
「……用足しまでか」
珍しく、セラの声が揺れた。
「俺だって考えたくありませんでしたよ」
「考えろ。配達屋だろう」
リオは答える代わりに、荷縄をくるくる巻いて鞄へ押し込んだ。世界最強を運ぶための最初の道具が、ただの縄だというのも、どうにも締まらない話だった。
出発前、リオは御者台で行程表を開いた。初日の宿は松風宿。ここから約55キロ。幹線道を使えば夕刻には着ける計算だが、代わりの道は頼りない。地図の端に細く描かれた旧荷車道は、道幅が狭く勾配もきつい。今の馬車では通れない箇所がある。
「ずいぶん地図を見るな」とセラ。
「幹線道がほぼ一本なんです。塞がれたら、馬車を置いて荷を減らすことになる」
「塞がれなければいい」
「道路は気合いじゃ開きませんよ」
リオは地図を畳み、手綱を取った。馬の耳が前を向くのを確かめてから、ゆっくり車輪を動かす。
馬車が門を抜ける。
セラは振り返らなかった。リオは振り返った。彼女があれほど長く留め置かれた建物が、車輪の音とともに遠ざかっていく。
街道へ出てしばらく、二人はほとんど口をきかなかった。
分岐が近づくと、リオは自分で手綱を引き、馬の歩幅を緩めた。道標の柱だけが残り、行き先を示す腕木が抜き取られている。
「止まれ」
リオは馬に短く声をかけ、馬車を固く締まった路面の端へ寄せた。手綱を固定して御者台から身を乗り出し、柱の根元を見る。折れたのではない。外されている。
「道を間違えたのか」とセラ。
「いいえ。誰かが案内を消した」
セラの視線が林へ向いた。
「リオ。話すな」
リオが息を止めると、葉擦れの向こうから、金具の触れ合う小さな音がした。
セラが、ほとんど息だけで告げた。
「あそこに、誰かいる」




