金貨五万枚の依頼
世界最強の女を、12日以内に王都へ届ける。
その依頼が届く数時間前、リオ・ベルクは錆びた留め具を相手に苦戦していた。
「右の車輪が跳ねてる。次の石畳で速度を落とせ」
荷台からリオが声を張ると、御者台から怒鳴り声が返ってきた。
「こっちは前を向いて運転してるんだ。荷台から注文するな!」
「じゃあ薬瓶が割れたら、弁償は御者持ちって伝票に書くぞ」
馬が減速した。話が早くて助かる。
荷台に積まれているのは、角人族の診療所へ届ける消毒薬だ。瓶の口金は空気に触れると腐食する。口金が傷めば、密封が保てない。リオは固有律《現状維持》で、その腐食だけを抑えている。
それで万事解決なら楽だった。だが固有律は瓶の割れまで防いでくれない。腐らずに届いた薬が、到着時には粉々でした、では配達完了にならないのだ。
リオは工具をひねり、緩んだ留め具を締め直した。底板の歪みを確かめ、箱の向きを少し変える。きしんでいた木材が静かになった。
「よし。今度は普通に走っていい」
「お前の能力、地味な割に注文が多いな」
御者が肩越しに笑う。
「能力じゃない。荷造りだ」
「もっと地味じゃねえか」
悪かったな、とリオは心の中で返した。
この世界では、誰もが生まれつき一つだけ、固有律と呼ばれる力を持っている。炎を放つ者も、鉄を曲げる者もいる。そんな世の中で、リオができるのは、指定した変化を一つ抑えることだけ。戦闘能力の評価は最低等級だった。
だが、薬を無事に届ける仕事に炎はいらない。必要なのは、一本の留め具を見落とさないことだ。
診療所では大柄な角人族の医師が待っていた。戸口をくぐる際に角を傾け、荷を受け取って瓶を一本ずつ確かめる。
「全部無事だ。助かったよ」
「次は口金の材質を変えるよう製造元に言ってください」
「先月も言っていたな」
「来月も言う予定です」
医師が笑って受領印を押す。リオは瓶の腐食が抑えられていたことを確認し、能力を解除した。
配達完了。
そして今日の稼ぎでも、借金の利息には足りない。
*
事務所に戻ると、机の上に請求書が三枚増えていた。
リオは無言で扉を閉めかけた。
「見なかったことにしても減らんぞ」
奥から元の雇い主が言った。帳簿の向こうで眼鏡をずらし、老人はリオを睨む。
「請求書は増えるのに仕事は増えませんね」
「口を動かす前に次の荷を探せ」
「探してます。まともな荷がないだけで」
独立するときに保証人になってくれたこの老人を、リオは借金に巻き込んでいる。共同経営者が売上金を持ち逃げして以来、帳簿の数字は冗談にしても笑えなくなった。
「まともかどうかは知らんが、指名の依頼が来た」
老人が一通の封筒を押し出す。分厚い紙。中央審問院の封蝋。
「役所から? 税金なら今は無理です」
「請求じゃない。配送依頼だ」
封を切る。最初に目へ飛び込んできたのは報酬額だった。
金貨50,000枚。
桁を数え直す。もう一度、数え直す。
「……爺さん、これ偽物ですよね」
「なんでだ」
「本物だったら困るからです」
支払条件は成功報酬。対象は生体。配送目的は戦争犯罪に関する特別再審への出廷。期限は出発した日を1日目として、12日目の正午。王都中央審問院へ、生きたまま引き渡すこと。
経路選択は受託者の裁量。馬車と補給品は共同輸送商会が手配する。書類の端には、欠けた歯車を斜線が横切る、見慣れた商会印が押されていた。
そこまではいい。問題はその下だ。
『外部勢力による武力干渉の可能性あり』
「配達の依頼書に、こんなこと書きます?」
「普通は書かんな」
「普通じゃない仕事は、もっと普通じゃない配達屋に頼んでほしいんですが」
「面談だけでも来てくれとさ」
老人の視線が、積み重なった請求書へ落ちる。言われなくてもわかっていた。まともな仕事だけ選んでいられるなら、とっくに選んでいる。
「面談だけですよ」
「そう言うと思った」
リオは封筒を抱え、事務所を出た。金貨50,000枚あれば、全部片づく。
問題は、それを受け取るまで生きていられるかだ。
*
拘束施設は町外れの石壁の向こうにあった。門で荷物を検められ、工具を預けさせられ、身元を二度照会される。
通された面談室で、灰色の制服の役人が書類を揃えていた。
「リオ・ベルク氏。特別生体配送の適合確認にご協力いただき、ありがとうございます」
「まだ協力すると決めてません。まず、何を運ぶんです?」
「人物です」
「怪我人?」
「いいえ」
「囚人?」
役人が一拍置く。それで答えは半分わかった。
「《定着刑》の執行対象者です」
リオは思わず椅子の背にもたれた。特定の場所から離れると、刻印が肉体を損傷させる刑罰。そんなものをかけられた人間は、荷車へ乗せる以前に施設の門を出られない。
「刑を外してから運べばいいでしょう」
「解除できません」
「じゃあ運べません」
「通常の保存系能力者では、そうです」
役人は図面を差し出した。床の刻印を中心に、半径10メートルの円が引かれている。刻印が引き起こす損傷の説明が並んでいる。
「刑そのものは続きます。ですが、刻印が引き起こす損傷だけなら、あなたの力で抑えられる可能性があります。他の生体機能には干渉せずに」
「可能性、ね。試験もしてないのに報酬だけは豪勢だ」
「公的な護送隊では対応できません。加えて、経路に関する情報管理にも懸念があります」
「つまり、俺に道を選ばせて、何かあっても自分で何とかしろと」
役人は表情を変えずに書類を揃え直した。
「契約上の支援は提供します」
「護衛は?」
「対象者は護衛を必要としません」
役人が差し出した次の紙に、名前があった。
セラ・ヴァイス。
リオはもう一度、その文字を見た。
戦争を終わらせた剣士。都市ひとつを壊滅させた死刑囚。世界最強の固有律保持者。噂なら、子どもだって知っている。
「……これ、本人ですか」
「本人です」
「同姓同名とか」
「ありません」
「帰ります」
立ち上がると、役人が慌てずに言った。
「本人が面談を希望しています」
足が止まった。
世界最強が、戦闘能力最低等級の配達屋に会いたがっている。
恐ろしい。だが理由を聞かずに帰るのも、なんだか腹立たしい。
「……会うだけですからね」
*
その部屋には鉄格子がなかった。
手枷も足枷もない。扉は分厚く、床には大きな刻印が描かれている。それでも警備の兵士は誰一人、敷居を越えようとしない。
リオはまず扉の蝶番を見た。次に天井、床の継ぎ目。職業病で、建物を見ると運搬経路を考えてしまう。
出入口は一つ。廊下は狭い。担架は通るが、馬車は寄せられない。
そして、そのすべてがどうでもよくなる人物が、部屋の中央に座っていた。
銀髪の女。黒い服。剣はない。
女が顔を上げただけで、扉の脇にいた兵士の指が、反射的に腰の武器へ動いた。本人は何もしていない。
「お前が配達屋か」
「リオ・ベルクです」
「セラ・ヴァイスだ」
「……存じてます」
彼女は椅子から立ち上がる。兵士が一歩だけ後ずさった。
「私を運べると聞いた」
「まだわかりません。明日、適合試験をしてからです」
「金貨50,000枚でも?」
「その金貨をもらえるのは、届けたあとですから」
セラはしばらく彼を見つめ、ほんの少し口元を緩めた。
「お前、変わった男だな」
「仕事では普通です」
リオは持参した確認票を開いた。
「では、配送対象の状態を確認します」
「私は荷物ではない」
「もちろん。あなたの所有権を預かる話じゃありません。契約に必要な呼び方です」
「気に入らん」
セラは腕を組んだ。
「希望する表記は?」
「セラ」
「それ、書類上の区分じゃなくて名前でしょう」
「なら、名前で呼べ」
即答だった。リオは仕方なく確認票の余白に小さく書いた。『本人呼称:セラ』。
「本題です。あなた自身の意思で、王都へ行くんですね?」
「ああ」
「そこに着いたら、死刑判決の再審が始まる」
「知っている」
セラの声は平坦だった。
「道中で襲われる可能性もある」
「それも知っている」
「なのに、どうして行くんです」
初めて、セラの返答が遅れた。窓からの光が床の刻印を横切っている。
「言わなければならないことがある」
「ここでは?」
「王都でなければ、意味がない」
リオはしばらく待ったが、それ以上の答えは出なかった。
「わかりました。明日の試験で能力の適合を確かめます。移動できると判断して、あなたが同意するなら正式契約です」
「試験に失敗したら?」
「引き受けません。無理な配達は、受け取る相手も困る」
セラの返事は早かった。
「困る。私は王都へ行かなければならない。だが、途中で死ぬために出発するつもりもない」
「……安心しました。死にたがりを運ぶ趣味はないので」
「お前の力が途切れれば、刻印による損傷が再び始まる。だから、確実に運べるのか聞いている」
「……即死しないとしても、試しに失敗していいものじゃありません」
扉の外では、兵士が息を潜めている。
世界最強の女でも、床の刻印から10メートルも離れれば、刻印に身体を壊され始める。そして自分は、剣一本まともに振れないくせに、その女を王都まで運ぶ方法を考えている。
「明日、確かめます」
リオは確認票を閉じた。
「ただし一つ、先に決めてください」
「なんだ」
「運ぶ方法は俺が決める。戦い方に口を出す気はありませんが、配送中の指示には従ってもらいます」
セラが眉を上げる。
「世界最強の私に、命令する気か」
「世界最強でも、道を間違えたら届きませんから」
沈黙。
次の瞬間、セラは声を立てて笑った。
廊下の兵士がぎょっとしてこちらを見る。リオも正直、驚いた。
「いいだろう、配達屋。明日はお前の言うとおりにしてやる」
「今日からでもそうしてくれると助かります」
リオは扉へ向かった。
背後から、楽しげな声が追ってくる。
「リオ。明日、私は何歩歩ける?」
リオは振り返らなかった。
「それを測るための試験です」
だが、廊下へ出てから気づいた。
世界最強の女を相手に、明日の仕事の段取りを話していた。断る理由を探しに来たはずが、もう搬出経路と馬車の配置を頭の中で組み直している。
そして何より厄介なことに。
あの女を、本当に届けてみたくなっていた。




