誰にも渡したくない-アルヴェインside-
アルヴェイン・クローディアは、執事から報告を受けた瞬間、手を止めた。
「奥様が、お話したいことがあると」
その一言で、胸の奥が冷える。
──何かあったのか。
頭の中を嫌な想像が駆け巡る。
使用人と合わなかったか。
屋敷が嫌になったか。
あるいは、
「……実家へ帰りたい、と?」
思わず漏れた声に、執事が目を瞬かせる。
「そのような様子では」
「そうか……」
安堵する。
だが同時に、自分でも呆れた。
たったそれだけで動揺するほど、彼女の存在が大きくなっている。
執務室へ現れたリリアーナは、いつもより少し緊張して見えた。
細い指先をぎゅっと握っている。
その姿を見るだけで、胸が妙に落ち着かなくなる。
そして彼女が口にしたのは。
「……旦那様、私のために色々断ってくださっていますよね」
彼女自身のことではなかった。
俺の心配をしていた。
その事実に、一瞬言葉を失う。
彼女は自分がどれだけ穏やかに生活しているかより、“こちらに負担をかけているのでは”と考えたのだ。
本当に、優しい。
「最近、勉強もしています」
そう言った時の顔を思い出す。
緊張しながら。
それでも真っ直ぐだった。
「だから……私にできることは協力したいんです」
止めたかった。
無理をさせたくない。
彼女には、穏やかな場所で静かに笑っていてほしい。
けれど同時に、彼女が自分で選んだことを閉じ込めるように否定したくなかった。
昔から彼女はそういう少女だった。
◇◇◇
幼い頃から、リリアーナはあまり社交の場へ出てこない。
だが家族で参加する夜会や茶会には時折姿を見せていた。
いつも父親や兄のそばにいる。
静かで目立たないようにしているのになぜか目を引く。
マナーは美しく知識も豊富。
会話は穏やかで、時折驚くほど面白いことを言う。
媚びない、無理に笑わない。
なのに印象が悪くならない。
むしろ周囲の評判は高かった。
「エヴァレット侯爵家のご令嬢は素晴らしい」
「ぜひうちへ迎えたい」
そんな声を、アルヴェインは何度も聞いた。
本人はきっと、自分を“引きこもって本ばかり読んでいる令嬢”だと思っている。
だが違う。
彼女は昔から、人の心を惹きつける。
あの日、凛とした瞳で“みっともない真似はおやめなさい”と言った少女のまま、美しく育っていた。
一部にはそれが気に入らない貴族もいたが、誰に対しても難癖つけるやつはいる。
そしてアルヴェインは、
彼女の父、エヴァレット侯爵から聞く娘の話を、密かに楽しみにしていた。
『最近は庭で本を読んでばかりでしてな』
『新しい茶葉を気に入ったようです』
『夜会より家でのんびりしたいと言っております』
どれも些細な話だ。
だが侯爵は本当に娘が可愛いのだろう。
声がいつも優しかった。
婚約の申し入れが増えた頃。
侯爵は困ったように言っていた。
『どの縁談にも娘が難色を示しておりまして』
だからアルヴェインは聞いた。
「……彼女は、どんな生活を望んでいるのですか」
返ってきた答えは。
『本当なら、静かな場所でゆっくり暮らしたいのでしょうな』
その瞬間、妙に納得した。
ああ。
彼女らしい、と。
もちろん貴族として、完全に引きこもることは難しい。
それでも、彼女が穏やかに暮らせるなら、自分はただ見守るだけでもいいと思っていた。
……思っていたはずなのに。
気づけば、
「彼女を私にください」
侯爵へ頭を下げていた。
「必ず守ります」
自分でも驚くほど必死だった。
◇◇◇
婚約後の手紙のやり取りは、アルヴェインにとって至福な時間だった。
彼女の言葉は不思議と心を穏やかにする。
『今日は庭で眠ってしまいました』
『いただいた本、とても好きです』
『あの主人公は少し不器用ですね』
そんな手紙を読むたび、顔が緩みそうになる。
日に日に好きになっていった。
結婚してからは、なおさらだ。
本の話をしてくれる。
紅茶を淹れてくれる。
自分のためにポプリや菓子まで作る。
そのたび胸が満たされる。
そして彼女の日常は、侍女に毎日報告をさせていた。
好きにしていいと言った。
だから多少堕落するかと思っていた。
だが実際は違う。
朝はきちんと起き、勉強をし、慎ましく生活している。
贅沢をねだったこともない。
外へ出たいと言ったこともない。
商人を呼び寄せることもない。
ただ、事前に用意していた大量の本を、幸せそうに読んでいるらしい。
「……かわいい」
また漏れた。
重症だった。
◇◇◇
ちなみに彼女へ婚約の手紙を送っていた貴族たちは、すべて調べた。
侯爵から名前を聞き出し、人柄や家の内情まで確認済みだ。
大半は問題ない。
誠実な者も多かった。
だが一部には、彼女の有能さ、エヴァレット侯爵家との繋がり。
それだけを狙う輩もいた。
そいつらが結婚によって遠ざかるなら、それでいい。
彼女を煩わせる必要はない。
◇◇◇
王家の夜会へ参加するにあたり、ドレスもアクセサリーも自ら選んだ。
深い青灰色、自分の瞳の色。
さらに公爵家の紋章。
見れば分かるようにした。
──彼女はクローディア公爵家の夫人だ。
──私が守っている。
そう周囲へ示すために。
もう彼女は自分のものだった。
もちろん、嫌がることはしない。
馴れ馴れしくもならない。
重いと思われないよう細心の注意を払っている。
だが、彼女が嫌だと言わない限り誰にも渡す気はなかった。
夜会での彼女は見事だった。
社交が苦手など信じられないほど、落ち着いている。
知識もマナーも受け答えも。
すべて美しい。
陛下に呼ばれて離れる時も、視界に入るうちは彼女を見ていた。
問題はなさそうだ。
今まで社交へ出なかったことを皮肉る貴族もいるかもしれない。
だがそのための装いだ。
あのドレスを見れば分かる。
彼女は公爵家の寵愛を受けている。
攻撃すれば、公爵家が敵になる。
それを理解させるためのもの。
そして陛下との話を終え、会場へ戻った時だった。
彼女が笑っていた。
婚約を申し込んでいた伯爵家の青年と、その父親と。
穏やかに、可憐に、楽しそうに。
その瞬間、胸の中で何かがぐらりと揺れた。
心配と信頼が、一瞬で嫉妬へ変わる。
──そんな風に笑わないでほしい。
しかも相手は年齢の近い男だ。
自分より自然に会話ができるだろう。
きっと眩しく見えるだろう。
「……帰ろう」
思わず口にしていた。
もう十分だ。
これ以上見たくない。
だが彼女は小さく首を振った。
「結婚して初めての夜会ですもの。一通りご挨拶はきちんとしたいです」
その言葉に、アルヴェインは黙る。
ああ。
こういうところも好きなんだ。
責任感があって、真面目で。
決して逃げない。
本当は疲れているはずなのに。
それでも公爵夫人として頑張ろうとしている。
「……分かった」
結局、折れる。
彼女には敵わない。
そして同時にこんな健気な妻を、ますます誰にも見せたくなくなっていた。




