理想の婚約相手
春の陽射しが、窓辺を柔らかく照らしていた。
静かな自室。
お気に入りの長椅子。
読みかけの本。
湯気の立つ紅茶。
本来なら、リリアーナにとって最も幸福な時間だった。
けれど今日は違う。
机の上に積み上がった封筒が、その穏やかさを台無しにしていた。
「……また増えてる」
リリアーナ・エヴァレットはげんなりと呟いた。
封蝋には様々な家紋。
どれも婚約の申し入れだった。
十六歳を目前に控えた今、彼女の元には毎日のように縁談が届いている。
侯爵家。
伯爵家。
若き領主。
将来有望な騎士。
傍から見れば羨ましい状況なのだろう。
だがリリアーナにとっては、胃痛の種でしかなかった。
恐る恐る一通を開く。
『我が領地は現在事業拡大の最中であり――』
閉じた。
別の手紙を開く。
『夜会にて貴女の美しい振る舞いを拝見し――』
閉じた。
また別。
『ぜひ領主夫人として領民を導いていただきたく――』
「無理よ……」
机に突っ伏す。
どれもこれも忙しそうだった。
領地運営。
社交。
夜会。
夫人としての務め。
想像するだけで息が詰まりそうになる。
リリアーナは昔から、人付き合いが得意ではなかった。
大勢の前では緊張してしまうし、華やかな会話にもついていけない。
社交界ではしばしば、
“静かすぎる令嬢”
“愛想のない娘”
“変わり者”
などと言われていた。
否定はできない。
普通の令嬢のように可愛らしく笑えない。
甘えるのも苦手。
恋愛話にも疎い。
好きなのは静かな場所で本を読むこと。
それだけだ。
「私は普通の令嬢みたいに、上手にできないもの……」
この家は兄が後を継ぐ。
ならば自分は、できれば屋敷の片隅で静かに暮らしたかった。
朝はゆっくり起きて。
好きな本を読んで。
疲れたら昼寝をして。
たまに庭を散歩して。
そんな穏やかな日々があれば、それで十分なのに。
本当なら、結婚なんてしたくない。
けれど貴族である以上、それは許されない。
理解している。
理解しているからこそ憂鬱だった。
「お嬢様」
控えめなノック。
侍女が入ってくる。
「旦那様がお呼びです。客間へ、と」
「お父様が?」
「はい。大切なお話とのことで」
その瞬間、嫌な予感がした。
こういう“改まった話”で良いことがあった試しがない。
新しい縁談だろうか。
今度はどんな“忙しい方”なのだろう。
重い足取りで客間へ向かう。
扉の前で一度深呼吸してから、中へ入った。
そして。
「……え」
リリアーナは固まった。
客間にいたのは、王国でもっとも有名な人物のひとり。
アルヴェイン・クローディア。
漆黒の髪。
整いすぎた容貌。
冷たい銀灰色の瞳。
社交界では“冷酷公爵”と噂される男だった。
十歳も年上。
しかも公爵。
世界が違いすぎる。
「突然申し訳ない、リリアーナ嬢」
低く落ち着いた声。
それだけで緊張する。
「ご、ご機嫌よう、公爵様……」
ぎこちなく礼をすると、アルヴェインは静かに頷いた。
その隣で、父、エヴァレット侯爵がなぜか嬉しそうにしている。
嫌な予感しかしない。
「単刀直入に言おう」
アルヴェインが口を開く。
「君との婚約を望んでいる」
「…………はい?」
間抜けな声が出た。
父がうんうんと頷いている。
待ってほしい。
話が早すぎる。
なぜ。
どうして。
自分が。
理解が追いつかない。
するとアルヴェインは、少しだけ視線を逸らした。
「……君が婚約者を決めあぐねていると耳にした」
リリアーナの肩がぴくりと揺れる。
「私は今年で二十五になる。周囲からは、いい加減身を固めろと急かされていてね」
その声音には、うっすら疲労が混じっていた。
「正直に言えば、私は華やかな社交が得意ではない」
その言葉に、リリアーナは思わず顔を上げる。
少しだけ。
ほんの少しだけ親近感を覚えてしまった。
「だから、家同士の利害だけで騒がしい婚姻を結ぶくらいなら」
アルヴェインは静かに彼女を見た。
「互いに穏やかでいられる関係のほうが良いと思った」
不思議な目だった。
値踏みするような色がない。
ただ静かに、彼女自身を見ている。
「もちろん無理強いはしない」
アルヴェインは続ける。
「十も年上の男との婚約だ。不安もあるだろう」
むしろ普通なら嫌がる。
彼はそう思っていた。
だからこそ、せめて窮屈な思いだけはさせたくなかった。
「君には好きに過ごしてほしい」
その声音だけが、少し柔らかかった。
「社交も最低限でいい。屋敷の仕事も無理に覚えなくていい」
リリアーナが瞬きをする。
「……君は、静かな時間が好きだろう」
「え」
「読書をして、穏やかに過ごしたい。違うか?」
なぜ知っているのだろう。
戸惑う彼女に、アルヴェインは静かに答えた。
「以前、君の父君と仕事をご一緒した際に聞いたことがある」
リリアーナが父を見る。
父は気まずそうに咳払いした。
「“うちの娘は茶会より読書を好む子でしてな”と」
「お父様……!」
顔が熱くなる。
父は慌てたように弁解する。
「し、仕方ないだろう!アルヴェイン公とは王宮で長い付き合いなのだ!」
アルヴェインは静かに続けた。
「“本当は静かな場所で、のんびり暮らしたいのでしょう”とも聞いた」
リリアーナは完全に固まった。
そんなことまで。
父は困ったように笑う。
「……お前は昔から、無理をするとすぐ疲れてしまうからな」
責める声ではない。
心配する父親の声だった。
そしてアルヴェインは、まるでその言葉を引き継ぐように言う。
「だから私は、君に無理をさせるつもりはない」
低く穏やかな声。
「君は何もしなくていい」
その瞬間リリアーナの脳裏に理想郷が広がった。
静かな屋敷。
積み上がる本。
面倒なお茶会や夜会なし。
忙しい仕事なし。
好きなだけ穏やかに暮らせる日々。
……天国では?
一方アルヴェインは、彼女の沈黙を“不安”だと思っていた。
だから安心させるように、さらに言葉を重ねる。
「もちろん、君の自由を制限するつもりはない」
その瞬間リリアーナは勢いよく立ち上がった。
「よろしくお願いいたします!」
「…………え?」
今度はアルヴェインが目を見開く番だった。




