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頬に一筋汗が流れる。
暑いからではない。むしろ背筋は冷たくなっている。
「落城さん?」
「え、はい?」
「どうしたんですか?さっきスマホを見たときから、顔色が悪くなっていますけど」
「……あはは、いやぁ」
適当に誤魔化そうとするが、汗は止まらない。体もまるで凍ったように冷たいままだ。
「……ひょっとして、何か急ぎの用事でも入りましたか?でしたら……」
「い、いえいえ!それは違います!」
清咲さんの表情が曇りかけたので慌てて否定する。
「大丈夫です。大丈夫ですから、早く次の魚を見に行きましょう」
「はぁ……」
一階の魚を見尽くしたらしいので、階段を上り二階へと向かう僕ら。
だが今は水槽の中の魚よりも、ポケットの中のスマホへと意識が向いていた。
……全然まったく良いわけがない。
そうだ、戸塚も来るんだった。彼への連絡を、僕は完全に忘れていた。
当初の時間よりも早めに水族館へと向かっていた結果、僕と清咲さんは二十分早く水族館へ入ることになっていた。だったら、それをちゃんと戸塚に伝えなければいけなかったのだ。
スマホに届いていた合計六通ほどの彼からのNINE通知を見たとき、僕は比喩抜きに心臓が止まりそうになった。
(あー……)
場所と状況が許すなら、今すぐしゃがみこみたかった。
苦虫を噛み潰したようなイラついた戸塚の表情が手に取るように想像できる。
このレベルの失態は……恐らく彼の思考がどう転んだとしても、後の制裁は避けられないだろう。
(やっちまったー……)
どう挽回しようかと思考を巡らせるが、この期に及んで妙案が都合良く浮かんでくるわけもない。何より戸塚は格下に見た存在から反抗されたりナメられるのが大嫌いな性格。
有り体に言えば、この状況はほぼ『詰み』である。
首まで流れた汗が蒸発して乾いていく。
太陽が差し込み始めた心に再び雲が立ち込め始めた。
だがそんな時。
「あっ、落城さん見てください!」
声に誘われて横を向く。
そこでは清咲さんが二階の最初の水槽を指差していた。
「イワシの群れですよ!すごい数ですね!」
具体的な事情は知らないが『落城の気分がダダ下がり』ということはわかったらしい。
さっきよりもやや大きな声で騒ぐように言っている。
もちろんそこには本来の興奮もあるようで、しきりに目を輝かせていたが。
「群れ……」
件の水槽には、彼女が言った通りイワシの群れが展示されていた。テレビでしか見たことがないようなおびただしい数のイワシが、台風みたいに水槽内を回っている。
それを見ていると、思わずため息が出た。
「すごいですよねぇ、イワシの群れって」
「『すごい』とは、具体的にどういうところがですか?」
「これだけの数なのに、和が乱れることもなくケンカもせず、一緒に行動し続けることができている点ですよ」
「配偶者やエサが少ないとイワシ間でも争いが起きてしまうことがあるそうですが……でも確かにすごいですよね。多くの目で天敵を真っ先に見つけ、的を増やすことで誰かが食べられる確率を減らす……まさに群にして個の存在というか、各々がきっちりと役目を果たしているからこそですよね」
「人間の群れとはえらい違いです」
人間の場合はクラスや会社はおろか、たったの四人家族でさえも機能不全を起こすことがあるのに。人間と魚、一体どこで差がついたのだろうか。
「落城さん!こっちにはタツノオトシゴがいますよ!」
社会派っぽいことを思いながらイワシの群れを見ていると、また清咲さんが別の水槽を見て声をあげた。
今回のも、きっと何割かは僕の不調を誤魔化させようという意図があっての大声だろう。
それを見ていると、申し訳なくなると同時に、不思議と先の懸念がちっぽけなことに思えてきた。
やっぱり、生き物を前にした彼女は本当に楽しそうにも笑っていて。
(まぁいいか……彼女のこの顔を、心置きなく、一人で見ることができたと考えれば)
なんとなく、気持ちは和らいでいた。
それぐらい綺麗な顔だった。戸塚には絶対見せたくなかったぐらい。
そう考えたら、むしろ戸塚に殴られることなんて安いことのようにさえ思えてくる。
……そうだな。もうやってしまったものは仕方がない。
(……数十発は覚悟するか)
嘘告白を今さら嘘だと言えないように、戸塚への伝達ミスも今さら誤魔化すことはできない。制裁は大人しく受けよう。
だからとりあえず今はそんな確定事項なんてパッと忘れて、ここからはそれまでの、せめてもの思い出作りへとシフトしよう。
今は……まぁ、楽しいんだし。
なんだか感覚的には、憂鬱な月曜日を控えた日曜日のようである。
前向きな後ろ向きに決意を新たにして、僕は清咲さんの隣へと立った。
「ほら、こっちも何匹もいますよ」
「タツノオトシゴですか……。相変わらずなんともいえない姿をしてますよねぇ。こんなのが自然界で過ごしてる様が想像ができないです」
「一体ナニを先祖にもって、どんな進化をすればこうなるんでしょうか……」
「餌とかなに食べてるんですかね?」
「プランクトンとか、小型のエビを吸い込むようにして食べてるらしいですよ」
「へぇ」
そこまで話したあたりで、清咲さんは安心したような顔をした。どうやら、僕の調子が戻ったと判断したらしい。
再び申し訳なくなった。なんだかここのところ、彼女には気を遣われてばかりな気がする。たまには僕の方から、彼女を楽しませてあげたい。
そう思って話のネタが転がってないかとあたりを見回すと、
「…………?」
なにやらおかしなものを見つけた。
視線の先にあるのは売店。海の生き物が映ったカレンダーやら、(この水族館にいるわけでもない)ジンベエザメのぬいぐるみが置いてある。
それ自体はさほどおかしな光景ではない。僕の興味を惹いたのは、売店を示す看板に描かれていた謎の生物だった。
(なんだアレ……)
後から知ったが、僕が見つけたのはこの水族館のイメージキャラクターで、エイをモチーフにした『イェイ君』というキャラだったらしい。
名前だけ聞けば可愛く思えるのだが……その姿は上から見たエイの姿をデフォルメして、尻尾の代わりに足を生やしたようなものだった。足があるのに腕が見当たらないが、恐らく横に伸びたヒレをそのまま腕に見立てているのだろう。
なんというか……二秒で考えたようなアホっぽいデザインだった。
パッと見ではあの有名妖怪ぬりかべや、雨の日にレインコートを着てテンションが上がってる子供のようにも見える。
仮にあの姿で生活しているのだとしたら、うっかり転んだときにはたして独力で立ち上がることができるのか?そんな風にあれこれと突っ込み所が浮かぶ珍妙な姿に、僕は思わず吹き出してしまった。
それを見た清崎さんが首をかしげる。
「どうしたんですか?落城さん」
「え?あ、いや」
単なる話題転換のつもりだったのが予想より面白い題材だったので、是非とも彼女にも見て欲しかった。
「あの清咲さんの後ろに描かれてる───」
描かれているキャラクターがおかしくて───と言おうとしながら、僕は清咲さんの顔越しに彼女の後ろを指差した。
それは友達相手にするような、単なる日常動作だった。
だが。
「っ───」
それを受けた清崎さんは突然体を強張らせた。さっきまでそれなりに浮かべてくれていた笑顔をひきつらせ、反射的に目を地面に伏せる。
なぜか彼女は、ナイフでも向けられたようにビクリと体を震わせていた。
「……えっ?」
あまりに突然のことで、僕は反応が遅れてしまった。体勢はそのままで声をかけるが、清咲さんは相変わらず動かない。
「あの、清咲さん?大丈夫ですか?」
僕は慌てて彼女へ駆け寄る。もしかして熱でも出たのかと、彼女の顔に手を向けた時───
「っ、いやっ!」
パン、と音がした。
その音が、僕の手が彼女に払われた音なのだと気づいたのは数秒後だった。
咄嗟の行動で手加減がされていなかったようで、指の背中側がジンジンと痛んだ。
痛っ、と呟いてしまったが、清咲さんは謝る余裕もないらしくまた目を伏せる。
「ゆ、ゆびっ……コッチに向けないでっ……」
「指?」
どうにか絞り出したように彼女は呟いた。
自分の伸ばした指を見つめてみる。
どういうことだ?僕の指に何かついているのか?
意味はわからないが、息が荒くなっていく清咲さんを見ていると、とにかく今が彼女にとって非常事態なのだということはわかった。
周りを見回してみると、いつの間にやら人の目が大量に僕らへと向いている。
……とりあえず、早急にここを離れた方が良いだろう。
「清咲さん、確かあっちの方にベンチがあったはずです。ちょっと、そこで休みましょう」
返事の代わりに頷いたのを確認してから、僕はなるべく驚かさないように背中の方から彼女の体に手を添えた。
これはセーフな行動なのか不安だったが、清咲さんは何も言わず素直にエスコートされてくれた。
非常事態だから多めに見てくれたのか、単に反応する余裕が無かったのか。
たぶん後者だろう。




