12
間の良いことに、やってきたベンチにはちょうど誰もいないようだった。
背中に手を添えたまま彼女をゆっくりと座らせ、飲み物が置けるぐらいの距離を空けて僕も隣に座る。
正面に目を向けると、銀色の柵がありその先にプールのように水があるのが見えた。どうやら、ここは最初に見た大水槽のちょうど真上に位置しているらしい。水の表面からはあの大きなエイやサメの背中がうっすらと見えていた。
……清咲さんはまだ何も話さない。
することもないので、僕は揺らぎと共にボヤける魚を眺めていた。次第に周りにいる客たちの声が遠くなり始める。
「……さっきは、すいませんでした」
水面に映る魚が視界を四往復ぐらいしたあたりで、ようやく落ち着いてきたらしい。清咲さんはゆっくり口を開いた。
まだ視線は伏せ気味ながらも、さっきよりかは声に生気が戻ってきている。
「僕は別に大丈夫ですけど……えっと、清咲さんは……」
言葉を投げると、清咲さんは再び俯く。
僕は、まだ正確にマッピングができていない地雷源を歩くように慎重に言った。
「清咲さんは、一体どうしたんですか?なにか……僕の態度に気に障った部分があったとかなら、謝ります。良ければ、教えてくれませんか?」
疑問符をつけた言葉だったのだが、彼女からの返答はなかった。ただ黙って、自分の膝を見るだけである。
(……言いたくないことなのかな)
予想はしていた。それならそれで深追いするつもりはない。
人間誰しも、他人に知られたくない弱点や秘密を抱えている。僕だって、今戸塚たちに情けなくいじめられてることを小学生の頃の友人には絶対知られたくない。清咲さんに知られたくないことだってある。
自分の思考に、反射的に左手首を抑えた。
「……恐怖症なんです」
そうしていたせいか、彼女が発してくれた言葉に反応するのが遅れた。
「……えっ、えっ?すいません、なんて言いました?」
完全に意識を離していたので、つい聞き直してしまう。
清咲さんは自分の膝を見たまま、それこそ告白でもするように言った。
「……私、先端恐怖症なんです」
「あー……」
言葉を認識すると同時に納得感が湧く。
先端恐怖症。人間が陥る恐怖症の一種。
「特にこれといったきっかけがあったわけではないんですけど……子供の頃から、尖った物が視界に入るのがダメなんです。目が痛くなって、気分が悪くなってしまって……」
一応小学生の時、友達の友達の友達に同じ先端恐怖症の子がいて、話だけは聞いたことがあった。
先端恐怖症の人は、尖ったものを目の前に向けられると、その尖ったものが突然飛んできて目を貫いてしまうのではないかと恐怖してしまうらしい。
実際はそんなことはありえないと本人たちもわかっているのだが、どうしてもそう思えてしまうようだ。というか、危険はないとわかってても恐怖してしまうから恐怖症なのだが。
尖った物……つまりさっきは、それが僕の指だったということか。
先ほど、僕は怯えた清咲さんを『ナイフを向けられたよう』と評していたが、彼女にとってはまさにその通りだったらしい。
「……すいません」
知らなかったとはいえ、彼女を怖がらせてしまったことに罪悪感を感じた。
「いっ、いえいえ!謝る必要はないですよ!そもそも、私が教えていませんでしたし……」
ようやく顔を上げる清咲さん。その顔には「こちらこそ申し訳ない」というような言葉が滲んでいる。
「……なんで、教えてくれなかったんですか?教えてくれたら……」
言いかけたのだが、自分で言い訳みたいに感じて口をつぐんだ。
だが、そんな言葉にも彼女は気を悪くした様子はなく、
「……面倒な奴だ、と思われたくなかったんです。さっきも言いましたけど、別にきっかけも理由もない恐怖症ですから」
「…………」
「打ち明けて落城さんに迷惑をかけてしまったり、変な奴みたいに思われたら、どうしようって……」
まぁ結局打ち明けずに迷惑をかけてしまったんですが、と彼女は自嘲した。
自分に全面的に非があると思ってるような、弱りきった表情だった。
それを見ていると、僕まで気分が落ち込みそうになった。あまり、そんな顔はしてほしくない。
「別に、変じゃないですよ」
だから僕はそう言った。
本心だった。
「恐怖症でしたら仕方ありませんし、驚きこそしましたけど特に被害を受けたわけでもないんで、僕は気にしてませんよ」
清咲さんが顔を上げる。
「理由が無いけど嫌なものなんて誰にでもあります。ほら僕だって、特にトラウマがあるわけでもないけどゴキが苦手ですし」
「……そう言ってもらえると、助かります」
おどけたように言うと、ようやく清咲さんは苦笑まで戻ってくれた。……相変わらず表情に力は無かったし、また顔を下げてしまったけど。
とりあえず伝えたいことは伝えられたため、しばらくは清咲さんの回復を待つことにした。
だがその時、
「……小学生の頃」
「はい?」
「小学生の頃、打ち明けたんです。当時の友達に」
顔を微かに上げ、彼女は口を開いた。
唐突な語りだったが、何か意味があるのだと思い黙って聞く。
「その子は優しい娘で……私以外にもたくさん友達がいるような娘だったんです。……私は人付き合いが苦手で、その娘しか友達がいなかったんですけど」
当時を思い出して薄く笑った後、「……今もさして変わらないか」と呟いた。
「その娘はよく一緒に遊んでくれて……私はその娘を信用していました」
「…………」
「だから……ある日、その娘と遊んでいたとき今と似たような騒ぎが起こって……その時に打ち明けたんです。そうしたら……」
『えーなにそれ?尖ったものが苦手なんて、きよさきちゃん変なのー!わたしは全然平気なのに!』
『きよさきちゃん、指差されるの嫌なの?うーんわかった、これからは気を付けるね!』
『えっ、きよさきちゃんこれもダメなのー?ぜんぜん尖ってないじゃん』
『え、コレも?うーむ難しいなぁ……』
『コレも無理なんだ?ふーん……じゃあコレは?』
『コレは平気なラインでしょ!?え、無理?あー無理かー、ちぇっ賭けはヒロミちゃんの勝ちかぁ』
『あははっ、これも怖いんだぁ?ほんと清咲ってさぁ……逆に尖ってるもの何なら平気なのよ』
『あ、そだ見てよ皆。この清咲って、尖ったものが苦手らしくてさ。向けると面白い反応すんのよ。ほらっ!』
「…………」
「……たぶん、最初は単純に、私のために気を付けようとするためのものだったんでしょうね。でもきっと、その内めんどくさくなってしまったんでしょう。私が苦手なものが多すぎて……」
自虐するように清崎さんは笑った。
「驚愕から心配へ。心配から呆れへ。呆れから興味へ。興味から……」
「……嘲り」
清崎さんが言いにくそうにしたのを僕が引き継いだ。
彼女は肯定も否定もしない。
「学年が上がって中学に進むにつれて、彼女は私への接し方に見下しを色濃く出すようになり、先端恐怖症のことを他の人たちへも広めだしました。その中で、私は何度も『ライン』を測るために尖ったものを向けられ続けて……それで」
「……なるほど」
あれほどの彼女の怯え様に納得がいく。
意図的にしろ偶然にしろ、トラウマを下手に刺激した場合は、人によって克服しかけるかより酷くなるかの二択になる。彼女は後者だったらしい。
「そんなこともあったので……嫌われるという不安以外にも、また怖い目に遭うかもしれない、という気持ちまであったんです」
そこで彼女は顔を上げ、棄権した選手のようにベンチに背を預けた。
「……できれば、知られたくなかったなぁ」
言葉は広場の喧騒の中へと溶けていった。
「……じゃあ、なんで今、教えてくれたんですか?僕に」
純粋な疑問として訊く。
別にあの騒ぎなど、やろうと思えばいくらでも誤魔化すことができた。
なんなら黙っていればよかった。僕は追求しないつもりだったし。
にもかかわらず、なぜ清咲さんはこうして弱味を明かしてくれたのか。
「……私にも、わかりません」
その答えを最も知っているはずの本人は、ぼんやりとしたあやふやな声音で言った。本当にわからないらしく、僕と目を合わせると困ったような顔をする。
「今日が楽しかったから……つい、肩の力が抜けてしまったのかもしれませんね」
ポシェットを掛け直しながら、彼女は僕の方を見て言った。
あの綺麗な瞳に、僕が映る。
思わず目をそらした。
……その言葉には、どんな感情が籠っていたのだろうか。字面通り、額縁通りに受けとるのは簡単だ。しかし、その裏に含まれた思いまで読み取るには、頭を使わなければならない。
それができない僕には、ここであまり迂闊な発言をしない方が良かったのだろう。
だけど……困ったように、どこか寂しそうに笑う彼女姿を見ていると。
曲がりなりにも秘密を知ってしまった僕は、こう言うべきなんだなと思った。
「……言いませんよ。誰にも」
ボソボソとした言い方ながらも、ちゃんと聞こえるように言う。
自分自身に宣言するように。
「誰にも言いませんし、今後は、なるべく気を付けます。尖ったものを清咲さんに向けないように」
「…………」
「ちゃんと、墓まで持っていきますので。だから、あの……清咲さんは、安心してくれて、大丈夫です」
半分見切り発車で紡いだせいか、途中詰まりまくってしまった。
格好つけていたつもりはないのだが、格好がつかないなと肌が赤くなる。
そんな僕を、清咲さんは無言で見つめていた。
パチパチと数回瞬きをする。
そのまま微動だにしないので、もしかした台詞の選択を間違えたかと冷や汗が流れかけたが───
「……そうですか。なら、安心ですね」
やがて、彼女は笑ってくれた。
僕の補正がかかっているのでなければ……それはこの日において、間違いなく一番の笑顔だった。
その瞬間、体の中の何かが、音を立てて跳ねた。
空気がつっかえたように、息が詰まる。冬にもかかわらず、体は暑くなっていた。
今まで感じたことのない大量のエラーが体に起きている。
自分でもわからない不調に、僕はどう対処すればいいのかと混乱していたのだが、清咲さんはそれに気づかずに立ち上がった。
「落城さん、私お腹が空いてきました」
「えっ?あ……」
スマホを取り出し、電源をつけて時間を見る。パターン化されたその動作すら、今は正確に体に指示を出さねば上手く行えなかった。
「えっと……十時半前か。確かに、そろそろ小腹が空いてくる時間帯ですね」
「ですよね」
すると、彼女はさっき僕が見つけた売店の、更に先を指差した。
「あっちの方のお店で、メロンパンやホットドックを売ってるらしいんですよ。よければ行きませんか?」
「あー……いいですねそれ。行きましょうか」
僕もベンチから腰を離す。
正直メニューにはそこまで惹かれない。さっきから渦巻き続ける動機を静めるには、座るよりも動いていた方が良いかと思ったのだ。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
紆余曲折あったが、また僕たちは並んで歩き出す。
……隣にいる彼女が今どんな気持ちでいるのか、相変わらず僕にはわからない。
だけど。
『……私、先端恐怖症なんです』
先程の言葉が反芻される。
先端恐怖症。彼女にとっては弱点そのものである、誰にも知られたくない秘密。
そんな秘密をなし崩し的にとはいえ、彼女は僕に打ち明けてくれた。
そして曲がりなりにも、『僕が他人には話さない』ということを、彼女は信用してくれた。
……きっとそこに、本当の意味での『友情』だとか『信頼』なんてのは無い。
そんなのはわかっているのだけれど。
「あ……普通の売店もあるんですね」
「みたいですよ。ジンベエザメのぬいぐるみとかも売ってるみたいで。後で寄りますか?」
「そうですね、それもいいかと……ぷふっ」
「どうしたんですか清咲さん?」
「い、いえっあの……あの看板に、変なキャラクターが描かれていて……!」
「変なキャラクター……あ、あのエイのキャラですか!?」
「はい……なんかっ、変というか適当というか……!二秒で考えたみたいというか」
「ですよね!やっぱり変なデザインですよねアレ!」
気づけば僕は、用もないのに彼女の横顔を見つめてしまっていた。
水族館の出口に着き、彼女と別れたその時まで。
水族館から帰った後、僕は泥のように眠った。運動会の日の夜を思わせるほどの快眠だった。
当たり前と言えば当たり前か。あの水族館デート(仮)の一幕だけで、ここ一ヶ月での僕の行動全てをトータルしたもの以上によく喋りよく笑いよく驚いたつもりだった。ダレきった生活に順応した僕の体のキャパなど、簡単に越えていただろう。
しばらくは表情筋も筋肉痛になっているかもしれない。ていうか、なんなら足は既にちょっと痛かった。
だけど、気持ちは不思議と晴れやかだった。
『殴られること以外で疲れて眠る』なんていつぶりかと思ったから。
そうして、少しだけ特別な日曜日は過ぎていった。
えらく久しく、楽しい体験を経たからだろうか。
これといった確信があったわけじゃない。
だけど僕はなんとなく、この日から僅かずつでも日々が好転していきそうな気がした。
少しずつでも世界に日が射していき、暗いトンネルを抜けられるのかと思った。
結論から言うと、そんなわけがなかった。
スペシャル番組の後にはいつものニュース番組が流れるように。花火が咲き終われば数時間前と同じ夜空が広がるように。
特別な出来事なんて、底辺の人生の中では流れ星のようなもの。
清咲さんとの日曜日の後にやってきたのは、いつも通り───いや、いつもより酷い月曜日だった。
「なぁおい、らくじょーよー」
グリグリと背中に靴がめり込む。
内蔵が圧迫され、乾いた砂が唇に押し付けられる。
「なんで朝っぱらからお前がこうなってるか、わかるか?」
苛立ちを滲ませたような声。首だけを上に向けると、僕の体に足を乗せている戸塚とその傍らで壁に背中を預けている今宮の姿が見えた。
約二秒間、僕が無言でいると、
「なぁ?聞いてんだけどよ」
一際強く踏みつけられる。
空き缶を潰すときのような踏み方だった。もしちゃんと朝飯を食べていたら、盛大にリバースしていたかもしれない。
「……日曜日は、すみませんでした」
さすがにこれはいつもより一次元上の暴力だと感じ、僕は(既にうつ伏せ状態だが)腰を低くして答える。
それが余計に気に障ったのか、戸塚は足にかける力を強くした。体が地面とサンドイッチされ、尖った小石が服に突き立てられる。
「おう、ちゃんと悪いことしたっつー自覚はあったんだな。じゃあなんで、当初の時間より早く行きやがった?」
「……本当に、偶然です。僕も清咲さんも、早めに目的地へ行こうとして、かち合いました。それで、そのまま行くことになったんです」
「なるほど。で、なんでそれを俺たちに伝えなかった?予定より早く入ることになったときは、俺に連絡するか、適当に引き留めとけつったよな?」
「……伝えようとした時には、スマホの電池が切れていました」
瞬間、髪を掴まれて頭を持ち上げられた。
エビ反りのような体勢になったかと思うと、頬を思い切り殴られる。
奥歯の方にまで振動が走った。見ていた今宮が口笛を吹く。
「……お前、俺を嘗めんのも大概にしろよ?」
倒れ込んだ僕の髪をひっ掴み、再び顔を上げさせられる。
「おい戸塚、俺にもやらせろよ」
戸塚が殴りかけた時、横から今宮がやって来る。
何回か素振りをしてから、彼は僕の顔にアッパーを打ち込んだ。
人体の急所である顎にモロに当たり、その動きに連動して脳が揺れた。額の辺りに内側から何かがぶつかったような気さえし、視界がグラグラする。
不幸中の幸いか、舌は噛まずに済んだ。
「おい今宮」
「いーじゃん。オレだって待ちぼうけくらった側なんだからよ」
「ったく。らくじょー、顔の腫れは周りには『ボールをぶつけられた』とか言って適当に誤魔化しとけよ。ま、そもそもお前の体調を気にかける奴なんて誰もいねぇけどな」
まだ顎、及び脳へのダメージがあるらしく、気を抜くと戸塚の姿がボヤけた。
半透明のままの戸塚は僕の前にしゃがみこむ。
「なぁらくじょー。俺はがっかりしてるんだよ」
「…………」
何にだろうか。絶好の遊びのチャンスをふいにさせられたことにだろうか。
「俺たちはさぁ、せっかくらくじょー君が清咲と付き合えたんだから、その仲をより深めて盛り上げるために努力協力してやろうと思ってたのにさぁ……まさかこんな形で裏切られるなんてな」
それを聞いて、僕は二十分早く入館することになって良かったと心底思った。
あの時間が、清咲さんの笑顔が戸塚によって汚されていたかもしれないと考えると悪寒がする。
戸塚は、そうした可能性を簡単にありえたものだと思わせるほどニタニタと嗤った。
「らくじょーの癖によぉ。変な悪知恵働かせやがって」
嗤ったまま、彼は地面にいるハエを潰すような気軽さで、僕の顔を再び殴った。
視界が暗転する。
プシッ、と音がした。唇が切れていた。
「らくじょーの分際で。らくじょー風情が。お前ごときがっ!」
徐々に力が強くなっていく。防衛本能として閉じた視界から伝わる衝撃、衝撃、衝撃。
恥ずかしい話だが、本気で殺されるかもと恐怖した。
いつもの戸塚なら、暴力を振るうときは見える位置に跡を残さないよう肌は狙わず衣服の上などから殴るのだが、今はよほど腹に据えかねているのだろうか。
ちなみに、この間今宮はスマホを点けて呑気にソシャゲをしていた。心配どころか、笑うどころか、一瞥すらしない。
人間の形をしたゴミのように、気にすらされていない。
(……あれ。なんで僕は今、こうなっているんだろう)
殴られながらふと思った。
あの時間は。日曜日の、あの晴れやかで、和やかだった時間は。一体どこへいってしまったんだろう。
昨日の出来事なのに、十数年前のことに感じられた。
(なんでなんだろう)
あのときは確かに、楽しくて。
ようやく『人間』に戻れたと思っていたのに。なんで僕は人間以下の扱いに逆戻りしてるんだろう。
……ああ、そうだった。
『こっち』が僕にとっては普通なんだった。
何を期待していたんだろう。
どうせ僕は一生この扱いから逃れることはできないんだ。抜け出せそうになっても、必ずまた引き戻される。
こんな感覚を抱かないために、いつしか僕は現状に無気力になっていたんだった。
期待した分だけしんどいから。
期待しなければ失望はないから。
そうだ。なにを思い上がっていたのか。
バカじゃねぇの、僕。
「あー……さすがに手が痛くなってきた。これで勘弁はしといてやるよ」
そろそろ『ボールをぶつけられた』では無理がありそうになってきたあたりで、ようやく暴力は止まった。
プラプラと手を振りながら、戸塚はすっかり大人しくなった僕へ顔を近づける。
またタバコを吸っていたのか、若干のヤニ臭さが鼻をつく。彼は足を怪我した奴隷を嘲笑うように続ける。
「まぁそもそも、今日の本題はこれじゃねぇんだよなぁ。一応、お前に聞いとかなきゃいけないことがあったんだよ」
その言葉に戸塚が「おっ」と呟いてスマホをしまった。
僕の方は一々反応する気力もない。
「ほら、これ」
今度は戸塚がスマホを取り出し、僕の前に差し出していた。
反射的に痛む腕で受け取ろうとすると「触んな」と払われる。
「お前は黙って見るだけでいいんだよ」
カチカチと僕の眼前でスマホが操作される。
しばらくして立ち上げられたのは、フォトアプリのようだった。
「昨日さぁ……せっかく俺らも来てたってのに、薄情ならくじょー君は置き去りにしてくからさぁ……俺らはお前らを追いかけたわけよ」
数枚の写真が映し出される。
戸塚はその内の一枚を選び、指で拡大させた。
「そして追い付いたらさぁ……こんな面白い場面が撮れたんだ。是非ともお前から説明が欲しくてさぁ」
見てみろよ、という戸塚の声で首だけをかろうじて上げる。
次に僕の視界に飛び込んできたのは、あの水族館の大水槽の上にあるベンチを斜め前の方向から撮った写真だった。そのベンチにはとある男女が座っている。
僕は思わず目を見開いた。
見間違えようがない。
それは、僕と清咲さんだった。
「これっ……!」
「おっと」
思わずスマホをひったくって間近で見ようとしたが、寸前で戸塚はスマホを上に持っていきヒラヒラとする。
「驚いたぜ。こっちが急いで追い付いてみりゃあ、お前が清咲と二人でイチャイチャと座ってるんだからよぉ。思わず連写しちまったぜ連写」
「落城さぁ……雑魚キャラの見た目してて、中々ヤることはヤってるみでゃねぇか」
驚いたよなー、と頷き合う二人を他所に、僕は舌打ちしそうになった。
後ろからならともかく、前の方から撮られていたのに気がつかなかったなんて。カーストの立ち位置柄、他人から向けられる視線やカメラには敏感になっていたはずなのに。一生の不覚だ。
しかも改めて写真の全容を見てみると、ご丁寧にもまだ清咲さんを介抱していたときの、背中に手を添えていた瞬間を激写していた。
痛み以外の要因で顔を歪ませる。最悪としか言いようがない。
「さて、さて、さて」
最高の写真を手に戸塚は上機嫌になる。場所が場所なら、そのまま歌い出しそうなほどだ。
そんな表情のまま、言い放つ。
「これ、インサタとかに流してやろうかな」
「っ」
心臓が冷えた。
一番は中学の時期とはいえ、高校生も十分に『お年頃』である。こんな美味しい写真、同年代の奴らが食いつかないわけがない。増してや、今や学生にとっては義務教育にすらなっているSNSなどに流されれば、明日からどうなるかということは容易に想像できた。
「それされんのが嫌だったら、わかるよな?」
僕が察したのを察したか、小さく笑う戸塚。まるで、状況は整えてやったとでも言わんばかりに。
「このときのお前ら、何の話してたの?」
その質問は、僕にとって刑事からの尋問に等しい重みをもっていた。
「写真は撮れたんだけどさ、遠かったし周りのガキどももうるさかったから、お前らの会話までは聞き取れなかったんだよ。だから、俺に教えてくれねぇかなぁ?」
わざとらしいくらい柔らかい声音で、戸塚が問いかけてくる。
体から汗が吹き出た。
そんなの、答えられるわけがない。
だって、それについて話そうと思ったら、あのときの清咲さんのことについて話そうと思えば、必然的に彼女の地雷である先端恐怖症のことにも触れることになってしまう。
戸塚のような人種の者たちにとって、他人の弱味はいくら握っても困らない。いじめっ子はいじめっ子同士でネットワークを形成してることもあり、もし僕が明かせば情報は戸塚を通じて一瞬で共有され、不特定多数の人に知れ渡ることになるだろう。
そうなれば、戸塚が直接手を下さなくても、別口のいじめっ子の手で再び清咲さんのトラウマが刺激されることになってしまうかもしれない。
それはダメだ。
僕はあのとき彼女に、言わないと約束した。そして彼女も曲がりなりに僕を信用してくれた。
それには報いなければならない。
「……普通の話だよ。学校でのこととか───」
瞬間、左腕の上に杭が落ちてきた。
いや違う。それは手加減なく振り下ろされた戸塚の足だった。
「……いい加減にしろよお前」
グリ、と足が捻られ皮膚が潰れる。声にならない声が上がった。
骨に振動が響いて、反射的に僕は振り払おうとする。しかし今回はいつぞやと違い、戸塚の足はそれこそ打ち込まれた杭のように動かない。
「いいか?これは、謂わばラストチャンスなんだ。もうツーアウトだかんなお前。これ以上嘗めたマネするようならコロす」
戸塚の目は本気だった。
いや、さすがに本当にコロすまではいかないとしても、左腕を骨折させるぐらいは平気でやりかねない色だった。
そう考えると、踏みつけられている左腕はさながら人質のように思える。見てると蘇って来るものがあり、吐き気が込み上げてきた。
だがもちろん吐く暇なんてあるわけなく、腕の痛みで強制的に現実へ引き戻される。
「今度こそ答えてもらうか」
頭が回る。
どう答えるのが得策なのか、すぐに判断しなければならない。しかし、思考は濁流となって一向に纏まらない。
自分の命か、清咲さんの命か。
今の僕に課せられたのは、ほとんどそんな選択だった。
そして結局───こればっかりは実際に命の危機を感じた人にしかわからないだろうが───大多数の状況において、自分の命と天秤にかけられる物などなかった。
(……ごめん。清咲さん)
やがて、僕は清咲さんを売ることに決めた。
決断は意外と早かった。
結局人間というのは、自分の身を一番可愛がるようにできている。だったら、この状況で迷う必要なんかなかったのだ。
本当に自分の身が傷つくかもしれないという局面を前にすれば、信頼や約束事なんか糞食らえだ。
(……こういうのを、真面目系クズっていうのかな)
戸塚とベクトルが違うだけでそう変わらない自分に自嘲する。
でも、仕方ないじゃないか。クズになるしかないんだよ。僕のような弱者が生き残るためには。こうしなくちゃ生き残れないほど厳しい世界が悪いんだ。
そもそも、清咲さんとお付き合いを始めたのだって、今と似たような状況と経緯をもってなんだ。その頃からクズだったのに、何を今更迷う必要がある?
今までだってそうだった。
自分の身を守るために、物を捨てた。恥を捨てた。尊厳を捨ててきたんだ。
それが今回は『信頼』になるだけじゃないか。今までと何も変わらない。
いつしか僕の迷いは、完全に吹っ切れていた。
そのまま、僕を口を開き───
『……そうですか。なら、安心ですね』
───かけたとき、不意に清咲さんの姿が走馬灯のように浮かんできた。
水族館のベンチ。清咲さんの過去。弱りきった表情
そして、僕へ向けてくれた笑み。安心だと、言ってくれた声。
「───言えない」
気がつけば、僕はそう言っていた
「……あぁ?」
……おそらく、実際は聞こえていたのだろう。
それでも咄嗟には信じられなかったのか、戸塚は顔を固まらせたまま聞き返した。
困惑しているのは僕もである。まるで口だけが勝手に動いたように、土壇場で台詞は変わっていた。
睨み殺せそうなほどに開かれた目が、一直線に僕を射貫いていた。
正直、かなり怯んだ。だけど、僕はもう半分自棄で、自分の背中を強引に自分で押した。
「だから、言えない」
ハッキリと、僕は反抗した。誤魔化しの余地がないほどに。
不思議とこっちの台詞の方が、今この場の僕の台詞としては違和感がないように思えた。
しばらく、その空間から音が消えた。
……僕自身驚いているが、僕がここまで明確に奴らに反抗したのは初めてだった。
現に今宮は口をあんぐりとさせているし、戸塚も怒りと困惑が同時に押し寄せたような顔になっている。
「……なんでだ?」
たっぷり十秒。それぐらい経ってから、ようやく戸塚は言った。
それに対し、僕は今度は確固とした意思で返す。
「約束したから。清咲さんと。言わないって。言ったら困るからって。だから、言わない」
あのときの、そしてこれからも僕に向けてくれるかもしれない、彼女の綺麗な瞳。
今自分がここでバラせば、その瞳は間違いなく曇ることになる。そう考えていると、いつしか保身のことなんて選択肢から消えていた。
「こ、の……テメェ……!」
戸塚の顔が真っ赤になる。彼は乗せていた足を退けると、僕の胸ぐらを思い切り掴み上げた。
喉が絞まる。間近で見ると、こめかみの辺りに浮かんだ血管がヒクヒクと動いていた。
「ほんっ、とに、嘗めたマネ……誰に仕込まれやがった??」
今まで見た中でも五本の指に入りそうな怒り顔で腕を振り上げる。しかし困惑の分がノイズとなっているのか、その動作は油が切れた機械のようにどこかぎこちない。
小刻みに震えている腕を見ると、ちょっとやばいかな、と思う。
困惑が混ざっているとはいえ、手加減する必要はないので力は据え置きだろう。なんならいつもより更に強い可能性すらある。
そんなのに殴られたら今度こそ歯の一部が飛んでいくかもしれない。この歳で早くも入れ歯か。
だけど、不思議と後悔は感じなかった。
「っ、死ね───」
「戸塚!!」
拳が眼前にまで迫ったとき、慌てたように割り込んでくる声があった。
場の全員がその方向を向くと、校舎裏と校舎の境目ぐらいの位置に三人目の取り巻きである本山が立っていた。
確か彼は、二人と比較すると一歩引いた立ち位置で、基本的に見張り役などを請け負っていたはずだな……。
「止めんな本山!!コイツはほんとに、一度心を叩き折っとかねぇと───」
「違う!こっちに来てる生徒がいるぞ!」
戸塚と今宮がオオカミの足音を聞き付けたウサギのように反応した。
「どこの部活の奴なのか、朝練のついでで来たのかは知らねぇけど……とにかく数人ほどここに向かってきてる。早いとこ離れるぞ!」
「おい戸塚……さすがに現行犯抑えられるのはヤバイって!」
いじめっ子組は一斉にあたふたしだした。今宮は既に撤収の準備に入っている。
戸塚はワナワナと震えながら、感情と理性とで葛藤しているような表情を作っていた。
だが、やがて理性が勝ったらしく、
「……覚えとけよ。お前」
捨て台詞のようなものを吐きながら僕を離し、二人に続いて校舎裏から去っていった。
離された勢いで体を打ち付けながらも、僕も早く動かなければならない。
校舎裏に傷だらけで一人佇む姿を見られたら、どんな噂が立つかわかったものじゃない。
痛む体を文字通り引きずって、僕は近くの茂みの中へ飛び込むように身を隠した。……これじゃどっちがやましいことをしているのかわからないな。
「いっつつつ……!」
一旦話が落ち着いて余裕ができたからか、殴られた部分がジンジンと痛み出した。思わず茂みの中でへたりこむ。
頬の痛みに誘発されてか、頭痛まで襲いかかってきた。横にならなければとても耐えられそうにない。
(これじゃ、一時間目はサボることになりそうかな……)
分析しながら、さっきまでの戸塚とのやり取りを思い出す。
……やってしまった。
今まで軽く不満を言うだけでも不味かったのに、とうとう明確に反抗してしまった。
あの写真、間違いなくインサタに乗るだろうなぁ。それだと結局清咲さんにも迷惑がかかるだろうか。
いやでも、僕と清咲さんでは顔面偏差値に割と差がある。恋人同士には見られないだろう。
なら、あの写真は構図的に考えても『キモい僕に無理やり言い寄られている哀れな清咲さん』みたいに知らない人には映るはずだ。というか、もしアレだったら僕の方から言っていこう。
そうなればまだ、清咲さんに迷惑はかかわらないか……。
「痛っ……!」
また頬の痛みが出てくる。
しかし今度は、安心感も一緒に込み上げてきていた。清咲さんの情報を売らなくて良かったとも思った。そうしたらきっと、今こんな気持ちにはならなかっただろうから。
この選択が正解だったかはわからない。
でも少なくとも、さっきまでの『人として最低の選択肢』は選ばずに済んだ。
この痛みは、その証だ。
そう思い始めると、殴られたはずなのに、気分は晴れやかになっていった。それどころか、笑みすら浮かんでくる。
こんなの初めてだった。
……おかしいな。僕、知らない間にドMにでも目覚めてしまったのかな。




