10
土曜日。
特殊な仕事に就いていない限り、大抵の人にとっては日曜日より精神的に楽しい休みの日。この日に朝の十時ぐらいまでたっぷり眠ることによって、僕は平日で最低値を突き抜けマイナス方面まで走っていた体力を最低値一歩手前まで回復させる。
だが、とうに朝の十時を過ぎたにもかかわらず、まだ僕は自室の布団にくるまって目を閉じていた。いや起きてはいる。
ただ単純に、安心感があり心地良い布団の中から外に出たくないのだ。出るのを強制される理由もないのに。
……これは僕の持論だが、心を休め素をさらけ出せる場所が布団の中以外に浮かんでこない人間は、あまり真っ当な育ち方はしていない。
真っ当に成長できていない僕は、手だけを毛布から生やし、文字通り手探りで外界にあるスマホを掴み取る。それから巣穴に獲物を引き込むみたいに布団の中に手を戻す。
電源をつけると、夜の間に届いていたNINEの通知が見えた。
相手は戸塚。
『清咲とのデートのセッティングはできただろうな?決まれば俺にも教えろよ』
回復していた体力が毒にかかったようにジワジワ減ったように思えた。しかも返信が遅いことに苛立っていたのか、二通ぐらい追いNINEされている。
今すぐ削除とブロックをしたかったが、そんなことした瞬間に……である。
僕は最初に『すいませんでした』と打ち込んでから、昨夜の清咲さんとのNINEで決まったことをそのまま報告していく。
なぜ戸塚がそんなことを知りたがるのかは、そもそもこのデート(仮)の根本を作った目的を考えれば簡単に想像がつく。
(……ごめん清咲さん)
利用し続けていること、騙し続けている罪悪感を感じながらも、自分の身のために相手に打ち明けることはできない。
(僕も中々にクズだな)
戸塚よりはマシと思いたいけど、と自嘲する。
とはいえ、『自分がクズであることを自覚している』のも立派なクズ人間の証なのだが。
人間、いつの間にここまで腐ってしまうのかなぁ、と悲しくなりながら僕は毛布という繭を更に厚くした。
ちなみに戸塚へのNINEは一時間ほど経ってから既読が付いたものの、それ以降返信はなかった。僕には返信を催促しまくるのに、勝手な奴である。
「母さん、おこづかいが欲しいんだけど」
晩ご飯を食べ終えて一息ついた後。
姉が二階に行ったのを確認してから、僕はソファに座る母に切り出した。
そろそろ四十ウン歳になり白髪が目立ち始めている母は、いじっていたスマホから顔を上げ、僕を見つめた。
まるで今初めて僕がこの部屋にいたと認識したようである。
「あぁ……もうそんな日だっけ?」
カレンダーをチラリと見てから財布を取り出す。
しばらくガサゴソと手を動かし、今回は細かいのしかなかったのか、千円札五枚を取り出した。
これが僕へのおこづかい。二週間で五千円。だいたい一ヶ月で一万円になる計算。中二のあたりから、ずっとこんな感じ。
……額が多いと思うか?
でも、金額の多さなんてすぐにどうでもよくなる。
「はい」
手渡された五枚のお札を財布に入れる。廃村だった村に、仄かな潤いが戻ってきた。
「…………」
僕が受け取ったのを確認すると、母はまるで決められた会話が終わったゲームキャラみたいに、無言で自分のスマホに目を戻した。僕が話しかけた事柄以上の反応はしない。
……自分で言うのもなんだが。
僕は今までこのおこづかいには、不満も言わず前借りもせず、真面目に(こんな言い方も変だが)受け取ってきた。今回の一日早くもらおうとしたのだって、こづかい四年目になって初だと思う。
にもかかわらず、母は何も言わない。
僕に対しては本当に『世話』をするだけで、コミュニケーションその他は一切取ろうとしない。
こづかいのやり取りをする時でも。
「…………」
なのになぜ金だけは大量にくれるのか。
それは、言ってしまえばこの金は、一種の手切れ金のような物だからだ。
『これだけやるから、自分の問題は自分で勝手に解決しなさい』という、母からのメッセージ代わり。
そこには何の感情も乗っていない。
さっき額の多さなんてすぐにどうでもよくなると言ったが。
実際、朝起きたらテーブルに無言で五千円札が置かれているだけの光景なんて、精神衛生に良いものじゃない。
増してやその金も、戸塚グループによるカツアゲやら友達料で消えていく。
「…………」
不意に自分のしていることが酷く空虚に感じられて、もらったお札が一瞬、本物の紙切れになったように思えた。
未来に予定を抱えた日々は過ぎるのが早い。
体感的には一回しかぐっすり眠っていない気分なのに、もう日曜日になっていた。
珍しく───本当に珍しく、目覚まし時計よりも早く起きた。
いつもは畳んであるのを適当に引っ掴むだけの服も、今日は前日の内に選んでおいた「ぼくのかんがえたさいきょうのファッション」に着替える。
青のジーンズと、まだ首元がピシッとしているシャツ。その上からグレーのダウンコートを羽織れば……よし、なんかそれっぽくはなっただろう。
後は髭を入念に剃って手荷物の確認(財布ぐらいだが)を終えれば、もう準備は万端だ。
「じゃ、行ってきます」
余裕こいて遅れるぐらいなら早めに行って時間が余る方がマシ。その心情に基づき、『二十分前にたどり着ける時間』として設定していた時刻の更に十分前に家を出ることにする。
「はい。いってらっしゃい」
母には、ただ「出かけるから」だけで話が終わった。誰と出かけるのかとか、何時に帰ってくるのかさえ無しである。
まぁ、どうせ聞かれても面倒だったから良いんだけど。
家を出る直前、玄関のあたりに立て掛けてた竹刀が倒れていることに気づいたので、直してついでに埃も払っておいた。
水族館は僕にとっても久しぶりだ。
水は見てて心が落ち着くし、陸の生き物よりは海の生き物の方が好きなタチなので、嫌いな場所ではない。
しかし、かといって特別好きな場所でもない。ただ海の生き物を見たいだけなら、今時はテレビの特集とかネットの動画でも事足りる。
だから自分から積極的に行くほどでは無かった。最後に行ったのは……小学校の頃の社会見学か何かでだっただろうか?
(小学校か……)
自転車の上で足を回しながら遠い目になる。
あの頃はよかったなぁ……何もかもに希望を見出だせて。まさか当時の僕も、中高になってから日々がこんなにも地獄になるとは思っていなかっただろう。
当時の僕は母の断片的な語り曰く、『公園の見知らぬ子供グループに突撃して、そのまま毎日遊ぶ仲になる』ぐらいにはお化け陽キャだったらしい。僕の人生の全盛期は、間違いなくあの頃だろう。
それに連られて思い出すと、確か件の社会見学のときも、僕は結構友達を引き連れていたような気がする。
アイツら今頃何してんのかな……。自由帳にオリジナル漫画(という名の既存作品のツギハギ)を描いていたミー君は、今も絵を描いてるのかな……。
回想している内に水族館が見えてきた。
……小学生の時と今とで、変わってしまった点が二つある。
一つは、僕が今や内気で別の意味でのオバケみたいなキャラになったこと。
もう一つは、今はその友達の代わりに清咲さんがいることだった。
「おはようございます、落城さん」
「……え。お、おはようございます」
入り口の前に見知った女子、清咲時瀬さんが立っていた。
思わず面食らう。スマホで時間を見ると、本来の集合時刻よりまだ二十二分も前だった。絶対僕が待つことになると思っていたのに。
「こ、こんな早くから来てくれてたんですか……ひ、ひょっとして待たせちゃいましたか!?」
「いえいえ。私も今来たところですので、大丈夫ですよ」
微笑する清崎さん。
ベタなカップルみたいなやり取り。まさかリアルでする日が来るとは思わなかった。
とりあえず早急に自転車置き場まで走る。見たところ、清咲さんの自転車は無いようだった。元々暗寧高校も家から近いという理由で徒歩通学してるらしいので、その延長線である水族館も徒歩で済む範疇なのだろう。
鍵をかけてから彼女と合流する。
彼女は水色のカーディガンに、白のフレアスカートとくるぶしソックス、そして淡いベージュのポシェットを斜め掛けしていた。
……僕自身に女性への免疫が無いというのもあるかもしれないが。その姿はとても綺麗で、お世辞なしに見惚れてしまいそうになった。
「落城さん?」
無言のままの僕に清崎さんが小首をかしげる。
そんな仕草にすら、心臓が跳ね上がった。
どうしよう。「綺麗ですね」とかなにか言った方がいいんだろうか。でもまだこの距離感でそれを言うのは気持ち悪いんじゃないのか。
生憎ながら僕は『プライベートで女子がどんな感じの服を着るのか』を知らないので、清崎さんの服の気合いの入り用がどれぐらいに位置するのかがわからない。『単なる一般的な私服』とかだったら、綺麗だとか褒めても変な感じになるし……。
「あの、落城さん」
再び清咲さんが呼び掛け、再び僕の心臓が跳ねた。
見ると清咲さんは僕から少し離れた位置に立っていた。
ヤバい。まさかグダグダと考え事をしている僕に引いてしまったのかと汗が流れたが、
「入らないんですか?」
「えっ?」
彼女は館内を指差している。自動ドアが開いて閉じてを繰り返していた。
我に帰り、僕は慌てて彼女の方へ向かった。
「すっ、すいません!行きますっ!入りますっ!」
「もしかして、割引券忘れちゃったんですか?」
「いやいや、それ忘れちゃったら今回の趣旨が無くなっちゃうじゃないですか」
「ですね」
……ダメだな僕は。何を意識をしているんだろう。
僕と清咲さんは恋人同士じゃない。彼女の方はどう思ってるか知らないが、所詮は戸塚に強制されて築いただけの関係。
だったらどうでもいいじゃないか。清咲さんがオシャレ(?)をしたから、なんだっていうんだ。
そうだ。どうせいつかネタ晴らしという名の終わりが来る。それまでにどのような清咲さんとどうなろうが、結局は無意味なんだから。
そう考えていき、僕はなんとか動悸を落ち着かせた。
なにはともあれ、結果として僕たちは想定していた時間より二十分早く入館することになった。
ちゃんと持ってきていた割引券込みで料金を払い、「それでは楽しんでください」と生暖かい目をする女性職員を尻目に、僕たちは水族館内へ足を踏み入れた。
「今日は誘ってくれてありがとうございます」
ポシェットに財布をしまいながら言う清咲さん。
「NINEでも言いましたけど水族館なんて本当に久しぶりですので、楽しみです」
「僕も、こんな機会が無いと行くことなんてないんで、ちょうど良かったですよ」
サラリと揺れる黒髪をなるべく意識しないようにする。
「それにしてもこの割引券、落城さんはどこで手に入れたんですか?」
「あー……母さんが、福引きで当てたみたいで」
「なるほど福引きですか。では落城さんのお母さんに感謝ですね」
「そ、そっすねー……」
話している内に一つの部屋へとついた。
瞬間。
天井が暗くなった中、虚空に浮き上がるように照らされた水槽が現れた。
視界の端から端までの青と青と青。その中を大小問わず四十ほどの魚が泳いでいる。
どこの水族館も最初は必ずこれと決まっている、お決まりの大水槽である。
急に世界が広がったような感覚に陥り、僕は目を奪われてしまった。
清咲さんも同じなようで、今までに見たことがないぐらい目を輝かせている。
「うわぁ……!」
早歩きになって水槽に近づく。
驚いたのか、一塊になっていた魚の群れが四方に散っていった。それに追従するように二匹のサメがガラスのすぐ前を横切っていく。
目がばっちり合った。
「すごっ……」
「すごいですね……!」
顔を見合わせる。
再び水槽へ視線を戻すと、今度は奥の方から巨大なエイがやってきた。ガラスの真ん前まで近づくと、まるで熟練のパフォーマーのようにヒレを大きく羽ばたかせ口まで丁寧に見せてから去っていく。
その動きを思わずスマホのカメラで二、三枚写真に納めてしまった。
「エイってあんなデカかったんだ……」
当たり前の話だが、間近で見るサメやエイの迫力は段違いだった。やはり画面越しに大きさはナンセンチで~とか説明されるよりも、実物を前に自分の体や手と比べた方がわかりやすく圧倒される。
「あっ見てください、下の方にもいます」
いつもより上擦った清咲さんの声。
彼女に言われるがまま見てみると、確かに底の方に、置物のようにへばりついて身動きしない魚が何匹かいた。
ああいるよなぁ、あんな魚。どんな種類なのか、なぜあんなことをしているのかも知らないけど。そんなベタな魚もついつい写真に撮ってしまう。
写真を確認してから一息つくと、ようやく当初の興奮が落ち着いてくる。
さっきまで飛び回るように視線を動かしていたのを、今度は落ち着いて一点ずつ向けていく。
またエイが僕らの前を通っていった。
「この水槽、エイが四種類いるらしいですよ」
「えっマジですか?全部同じに見えるんですけど……」
清咲さんの視線を追っていくと、展示生物の紹介パネルがあった。確かに『マダラエイ』とか『ホシエイ』とか色んな名前が並んでいたが、さっぱり違いがわからない。
……どうやらサメも二種類いるらしい。小魚の間を縫うように泳いでいくサメを見ていると、ふと小学校以来の疑問が蘇ってきた。
「前から思ってたんですけど、こういう水槽でなんでサメって他の魚を食べたりしないんですかね?」
「無駄だから、らしいですよ」
調べたことがあったのか、答えはすぐに返ってきた。
「無駄?」
「水族館にいる魚は、別に狩りをしなくても決まった時間に餌をもらえることを理解しているんです。サメは……というか生き物は、お腹が満たされていたり餌が確保されているときは余計な狩りはしませんから。だから同じ水槽にいても襲わないんです」
「へぇ、なるほど」
つまり、親から金がもらえるのが確定しているニートがわざわざバイトを始めようとしないのと同じことか。
長年の疑問に納得がいきスッキリしていると、あることに気づいた。
二人して水槽に近づきキャッキャしていたうちに、僕と清咲さんの距離が肩が触れ合いそうなほど近くになっていたのだ。香水らしき甘い匂いが不意討ちのように鼻腔に届く。
慌てて僕は間に人が入れるぐらいの距離を取った。
……ああクソ。心臓がまたバクバクとうるさくなり始める。
そんな僕の不調も知らず、しばらく魚を眺めていた清咲さんは「あのっ、落城さん」と半歩距離を詰めてきた。
「次のコーナーに行きませんか?」
「えっ、あ、はい。そうしましょうか」
半歩下がりながら答える。
再び間近で見た清咲さんの目は、おもちゃ売場に来た子供のように輝いていた。今の水槽の魚に飽きたというよりも、早く新しい魚に出会いたい、というような顔だった。
その顔を見ていると、次第に心臓の動きが収まってきた。ドキドキの代わりに、純粋に新鮮な気持ちになってくる。
(……清咲さん、こんな顔できたんだ)
今まで僕が見てきた清咲さんは、『高嶺の花』というか磨き上げられた彫刻のような……悪く言えばどこか無機質な雰囲気ばかりを漂わせていた。
それが今は、良い意味で子供っぽいというか、年相応らしいバイタリティに満ちた表情になっている。
その表情は、とても綺麗に思えた。
次に到着したエリアは、自然にある地形を再現したエリアのようだった。
岩場だとか沖合だとか潮だまりだとか。
それの一つ一つを、僕と清咲さんはたっぷり時間をかけて鑑賞していく。
「魚、好きなんですか?」
あまりに清咲さんの食い付きが良いので尋ねてみる。サンゴ礁をまるで宝石を見るように眺めていた清咲さんは、そこでようやく我に返って若干顔を赤くした。
「は、はい。魚……というか、森とか海とか空みたいな、自然の光景とそこにいる生き物が好きなんです」
まぁこれはあくまで自然を再現したものなんですけど、と水槽に目を戻す。
「綺麗で、汚れてなくて……なんというか、『悪意』がないというか」
「はぁ」
「見てて心が疲れないというか……どの生物もただ自然のままに生きて流れているだけであって……『こいつがムカつくから食ってやろう』みたいな、どす黒い感情があまり無いような世界と言いますか……えっと、こう……」
「いや、何となく言いたいことはわかりますから、大丈夫ですよ」
微苦笑しながら止める。僕としてはそれなりに共感できる内容であった。
確かに自然界で行われるやり取りは綺麗だと思う。いや自然界でもエグい生態があったりするし、別に自然の生物が皆ピュアで悪意が無いと言うわけではない。
それでも人間界の思想のどす黒さに比べれば、自然界でのやり取りなんてただ各々が生き残りを模索しただけの、ピュアなものである。
そんな感傷に浸っていると、清咲さんが顔にかかる赤色を濃くし始めた。
「ていうかあの、すいません……私、ここにきてから急に喋るようになってしまって……つい、楽しくて」
「え?あぁ、いえいえ全然」
そこはあまり気にしてなかった。
楽しいことや得意なことを前にすれば誰だって饒舌になる。僕だってアニメやゲームの話になったらそこそこ早口になってしまうだろう。
「少し意外だなとは思いましたけど」
……むしろ清咲さんも僕と同じ『人間』だったんだな、と失礼な感想を抱いてしまったぐらいだ。
それに、僕と清咲さんはまだお互いのパーソナリティーをロクに知らない段階。だからこういうのは『キャラが変わった』ではなく『素が出た』というのだ。
「何はともあれ清咲さんが楽しんでいるんなら、よかったですよ」
本心からの言葉を言うと、清咲さんはまだ照れながらも「……ありがとうございます」と返してくれた。
……というかつい僕も流しかけたけど、清咲さん、ちゃんと楽しんでくれてるんだな。
よかったよかった。
まぁもっともその楽しさの源はあくまで水族館によるものであって、僕の存在はあまり関係ないんだけど。
その後も僕たちは順調に通路を進んでいった。
「潮が引いた後の泥地である干潟って、餌はたくさんあるけど、温度や塩分濃度の変化が激しくて生物が生きるには厳しい場所らしいですよ」
「なるほど、だからこの水槽には二種類しか生き物がいないんですね」
「こんな過酷な環境で過ごすぐらいなら、普通に海の中で生きた方がよさそうだけどなぁ……」
「それでも、この生物にとってはここで生きたいと思わせるほどの何かが、干潟にはあるのかもしれませんね」
「餌が多いだけじゃ割に合わない気もしますけど……」
「もしくは、本当は後悔してるけどもう干潟に適応しきっちゃったから元の場所には戻れない、とか」
「悲しすぎませんかそれ」
久しぶりに魚を見て気づいたが、魚って正面から見ると割と怖い。目はギョロリとしてるし、種によっては結構デカイし、また種によっては歯もしっかり生えている。
だが隣に清咲さんを置いて見ていると不思議と気にならず、むしろ観賞のスパイスになった。
……始まる前はウダウダ言っていた水族館へのお出掛けだが。なかなかどうして、僕の気分は晴れやかになり始めていた。
単純に水族館自体が存外悪くないというのもある。だがなにより、清咲さんと一緒にいるというのが大きい……と思う。
俗っぽい話になってしまうが、清咲さんのような美人と並んで出掛けられるというのは、悪い気がしない。
男なら一度は夢見る光景というか。すれ違う他の男がたまに振り返ってくるというのは、なんとも言いがたい優越感のようなものなある。
たが、確実にそれだけでなかった。
「うおっウツボか……いざ近くで見ると結構気持ち悪い見た目してますね」
「そういえばウツボって、獲物を食べるときには喉から第二の顎が伸びてくるらしいですね」
「第二の顎!?」
「元は咽頭顎っていう部位で……私もテレビで少し聞いただけなので詳しくはわかりませんけど、それで獲物を細かく刻むらしいですよ」
「あ、後でスマホで調べてみましょうか」
魚を見る度に二言三言ぐらいトークを交わす。
他の人にとっては普通の光景で───むしろまだ距離があるやり取りかもしれない。
だけど僕にとってはなんだか、ひどく久しぶりな気がした。
(見下されたりせず、ちゃんと目を合わせて対等に誰かと会話をするのなんて)
心がザワザワとする。
ガラスに薄く反射した自分の顔を見て、僕は驚いた。
その顔が、笑っていたからだ。
……自然に笑みが浮かんだのなんて、いつぶりだろう?
ずっと落としていたナニかが、不意に手元に戻ってきたような気がした。
「落城さん?どうしたんですか?」
先に歩き始めていた清咲さんが振り返る。
戸惑いを悟られたくなくて、僕は慌てて近くの水槽へ声をかけた。
「あっほら清咲さんアレ。針のある生き物のコーナーのとこ。ハリセンボンが膨らんでます」
事前に誰かが驚かせていたのか、ハリセンボンが膨らみボディビルダーのように針を誇示していた。名前通りの無数の針がこちらを向いており、威嚇としては充分である。
それに清咲さんの意識を向けさせようとしたのだが───どうやら彼女の興味は既に別の物へとあったらしい。
「落城さん、こっち、クラゲがいますよ」
タタッとハリセンボンを素通りし、ブルーライトに照らされた水槽へ僕を呼び寄せる。
自分の言葉を無視されたことに若干傷ついたが、まぁ目的自体は果たせていたので良しとした。
「……なぁ、アイツらいつになったら来るんだ?」
ボヤきというよりも不満の色の方が濃い声。
水族館の外にある駐車場の影で、暗寧高校バスケ部の二大強豪選手である戸塚と今宮は立ち尽くしていた。
彼らは、今日ここへデートに来るはずの落城と清咲を待ち構えていた。彼らの後を追って、そのぎこちないデートの様子を嘲笑うつもりでいた。
そのためにわざわざ水族館の割引チケットを用意したり、休日にこうして興味もない水族館前へやって来ていたのだが……。
「あいつ……集合は十時だつってただろうが……!」
スマホの時計は十時十五分を指している。
戸塚の口から舌打ちがもれた。
落城のNINEを開き一応確認してみたが、確かに落城は十時に集合と言っていた。だから彼らはその時刻の十分前にここへやって来て予め隠れていた。
にもかかわらず、落城も清咲も一向に現れず今に至る。
時間が変更になったら連絡しろとも言っていたのだが、今のところそのようなNINEは届いていない。
というか、さっきから五通ほど追いNINEをしているのだが、一向に既読が付く様子がない。
「デート中は常に電源付けとけつったのにコレってことは、ナメてんな落城の奴」
横から覗き込んだ今宮がイラ立ちに顔を歪ませる。ちなみに、彼らの三人目の取り巻きである本山は、急遽サッカー部の練習が入ったようでここにはいない。
ともかく。
未読無視か、本当に気づいていないだけか。前者なら迷うことなく極刑だし、後者も後者で処罰すべき案件。
「チッ!」
吸い終えた二本目のタバコを踏み潰す。
これは、落城の裏切り行為と取って良いだろう。
今宮がタバコに火をつけるのを尻目に、手の平のスマホに目を落とす。
本来の彼らの計画では、デート(仮)をする二人を追いながら隙を見て『肩を抱け』とか『もう一度告白しろ』とNINE越しに落城に指令を出し、それに従った様を写真に撮って更にネタにしてやるつもりだった。
そんな極上の遊び時間を目の前で取り上げられた喪失感は大きい。
どうしたものか。どうしてやろうか。
「どうするよ、戸塚?」
今宮は完全に戸塚に従う方針のようだ。
戸塚はタバコの箱を懐にしまう。
落城は間違いなく水族館にいる。先ほど見つけ、蹴り倒した自転車の存在からもそれは確定。
ならば。
当初の計画が曲がった状態で続行するのは屈辱だが、このまま引き下がって『してやられた感』を落城ごときに感じるのはもっと癪だ。
「アイツら追うぞ。中で」




