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聖獣の庭、あるいは忘却曲線  作者: 蒼乃モネ
第五章 砂漠の薔薇、昔噺は砂に眠る
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第21話 未来への船出

 ハークは、船に乗り込むのもすっかり慣れたものだと思った。生まれ育った孤児院を出てから、驚くほど様々な体験をしている。

 旅が生活の一部となった自分に対して、少しくすぐったいような、誇らしいような気分になった。

 朝焼けの空。凪いだ海。よせては返す波は、ゆったりと規則的に時を刻む。

 乗船する人々はみな、手に手に荷物を抱え、眠い顔で列を作っている。手荷物が増えているのを見るに、土産物をたんまり持ち帰るのだろう。これから向かうセインベルクに。

 このさき何が起こるかは、本当にわからないと思った。だが、予感が告げる。ついに歴史の転換期となりうる出来事が、国家を巻き込んでゆくということを。



 ロゼは、乗船待ちの人ごみに身を任せていた。昨夜から、仲間のあいだにも静かな緊張感がただよっていた。これから来る王都入りに備えて、それぞれには心の整理が必要なのだ。

 結局、この地でロゼは、ナイトと会えずして終わった。しかし、時間の問題だ。確信はあった。王都に行けば、あの男と関わらざるを得ないということに。

 ハークの様子がおかしかったのは、ロゼにとって意外な出来事だったが、ハークとてまだ少年だ。彼に甘え、気負わせ過ぎていたことに気づいた。

 ハークは、超人的な―否、人ならざる聖獣アルフレッドではないのだから。

 ナイト、あるいはユノと呼ばれる男が、結んだ数奇な縁。それを彼が意図していたかどうかは、わからない。

 自分もハークもアルフレッドも、その男とそれぞれ別物の接点があったのだ。すましているアルフレッドにも、ナイトとの繋がりがある。「聖獣の庭」から連れ出してもらったことで、彼に一目置いている。自分と出会う前に乞われれば、彼の召喚獣となっていてもおかしくなかっただろう。

 そのとき、ロゼはふと思った。

 自分と騎士を繋ぐものなど、しょせん空想に過ぎなかったのではないかと。

 ときおり光に透けて見える蜘蛛の糸ほどの確かさもないもの。そんな妄想に絡めとられていたのか、自分は。ハークもまた、足を取られて動けなくなっていた。昨日の朝は、まるで繭に籠り、硬化した様だった。アルフレッドには、そんなものは見えない。見えたところで、無造作に振り払うのだろう。彼には主人が、自分がいる。

 自分も、ハークも、同じ一人の男に心酔していた。自分は、より盲目的に。

 誰しも、拠り所を必要とするのだと思った。一人一人の人間は、弱くて脆いから。

 旅をして、初めて気づいたことだ。だから、みな互いを支えずにはいられない。

 

 ―そろそろみんなに話さなきゃ。誰とも共有することのなかった夢の話、私の不明瞭な記憶のことを。

 ロゼのなかで、これまでによぎりもしなかった考えが、潮風とともに胸を満たしていった。



「俺たちが帰っていないあいだに、セインベルクは大変なことになってたんだな」

 ケイトは、埠頭から外海を眺め、他人事のようにつぶやいた。

「ケイトが何となく予想してたことじゃないの?初めから、王宮から逃げてるみたいだったわよ。職務なんて言い訳みたいなものでしょう?」

 ラピスラズリは、妖艶に笑った。自分の後ろめたい部分だけはこの魔獣にどこまでも見抜かれている、とケイトはため息をつく。しかし、ラピスラズリの様子が元に戻ってきたことに安堵するのだった。

 ラピスラズリは、昨夜、ロゼにもらった魔毒を主人にすべて手渡した。自分が、すべて所持していると魔が差すからと言った。ケイトは最低限、この魔獣の生命維持に必要な分だけを手渡す。

「ケイト。私、あなたの考えの正しさを信じるわ。もうあなたのためと言って、身勝手なことはしない」

 続いて、ごめんなさい、と勢いよく頭を下げた。ケイトは目を丸くする。周囲の目が、自分をとがめているのがわかった。冷や汗をかき、即座に身を起こさせる。

「ラピスは、そもそも俺のことを見くびりすぎなんだ。もう契約を交わした時の俺じゃないんだから」

 ケイトは咳ばらいをしたあとに、声をひそめて話し始めた。

「ともかく、オレガノの民とやらが怪しい。俺は王家にはびこる奴らを一掃して、何としてもセシリアを目覚めさせる」

 それから、とラピスラズリの両肩に手を置いた。片青眼のコントラストが、間近に迫る。

「ラピス。おまえのことも必ず助ける。そうしたら今度は、職務とは無縁の自由な旅に出よう」

 ラピスラズリは、初めて聞く主人の言葉に驚いた様子だった。

 間が持たずに、視線を逸らして続ける。

「俺一人じゃ、自由である意味がない」

 途端に、ケイトの目の前には瑠璃の玉がはらはらと、零れ落ちる。錯覚だ。瑠璃色の瞳から落ちる、雫だ。そのとき、ありありと思い出された。初めてこの魔獣と出会い、契約を交わした日。名付けたのは自分だ。そのときは、人の姿ではなかった。グレージュの毛に覆われ、蝙蝠の羽根、猛禽の爪を持つ、魔獣だった。それでも自分は宝石の名を、《《彼女》》に―

 ふと我に返った。王女を批判し、獣はアクセサリーではないと、そう言い放った自身の言葉が反芻される。複雑だ。思考を止めた。

「魔獣って、本当に泣くんだな。あの詩人の妄言かと思ってた」

 そう言うと、地上に雫を落とし続ける瑠璃の瞳を、丁重に拭ってやるのだった。


「嗚呼、これはまた、なんと美しい朝焼けなのだろうね。まるで麗らかな乙女の恥じらいのようではないか」

 雑踏のなか、レイチェルの声が朗々と響いた。あたりに散漫するあくびまじりの空気が一気に解ける。ケイトは条件反射のようにラピスラズリを背後に隠した。

「おい、へぼ詩人。詩の質が落ちてるぞ」

「ああ、ばれてしまったか、情けないことだが、今のは僕にも自覚があったよ。詩の神はまたも僕を見捨てたもうたか」

 ハークが増えた荷物にふらつきながら、困ったようにやってくる。

「何でこの人まだいるんだよ。騎士団と陸路から帰るんじゃなかったのかよ」

「彼らなら、あの宴の次の日にはさっさと帰ってしまったよ。僕としたことが、帰国日を失念していた。ハーク少年、悲劇の男となってしまったこの僕を、どうか憐んでくれたまえ」

 慣れた身振りで目頭を押さえるレイチェルに、フィルは助け舟を出した。

「まぁ、いいじゃないか。こやつがいてくれるおかげで、長旅も退屈しなくて済む」

「あー、もうフィルは。もう今から先が思いやられるんだけど」

 ハークは、すでに疲弊した様子。ケイトも、だよなと頷いた。

 ロゼとアルフレッドが人をかき分け、行きましょうかと合流する。

 巨大な客船は、再び乗客らを迎え入れた。停船中に、デッキはぴかぴかに磨き上げられたようだ。航行中に乗客を養うためのあらゆる備蓄も満載されたことだろう。

 そのため、以前より心なしか船はずっしりとした印象に見えるのだった。


 大型帆船は乗客を残らず積み込むと、いよいよ出港する。陸と船上を繋いでいた架け橋が取り払われ、岸壁からゆっくりと離れた。

「嗚呼、偉大なる海神よ。我らの船出に祝福を。さぁ、いざゆかん。栄光の未来へ」

 レイチェルは船べりに足をかけ、高らかにうたい上げる。甲板にいる人々が何だ何だと興味深そうに集まってくる。

「今のフレーズはいいな」

 聴衆に混じるフィルはそう言いながら、ハーク、ケイト、ロゼを見回した。

「未来への船出と思えば、いくらか気分も上がるというもの。おぬしらがそんな辛気臭い顔では、それこそ先が思いやられるわい」

「そうさ、諸君。まだ先は長い。今はただこの時を楽しめばいいのさ」

 レイチェルに送られた喝采に包まれていると、ハークたちは呆れながらもいくらか肩の力が抜けたような気がした。

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