第9話:聖女様、その皿はまだ弱い。でも嘘ではない
セラフィナの皿は、弱かった。
教会の小厨房。白い石の壁、磨かれた銅鍋。窓辺には、乾かされた聖草と月根菜の葉が吊るされている。
その中央の調理台に、白い器が一つ置かれていた。
粥だ。
白麦、月根菜、干し甘実、聖草、雪塩、少量の豆乳。そして、祝福。
前回の断食明けの聖餐に近い。だが、まったく同じではない。セラフィナが自分で作ったらしい。
「食べていただけますか」
彼女は言った。
聖女の正装ではない。袖をまくり、髪を後ろでまとめている。指先に少しだけ白麦の粉がついていた。それだけで、今までの聖女料理とは違った。
グラシオ神官長もいた。壁際に立ち、厳しい顔で見ている。他に、教会の料理係の修道女が二人。
王宮からは、なぜかエドヴァルドも来ていた。
「王太子は暇なのか」
「最近、食卓が退屈でなくなってな」
「暇なんだな」
エドヴァルドは笑った。
俺はセラフィナの粥を掬った。湯気は柔らかい。聖草の香りは強くない。月根菜の甘さもある。
祝福は全体を覆っていない。器の片側に、薄く置かれている。
前よりは、考えている。
口に入れた。
温かい。飲み込みやすい。苦くない。甘すぎない。祝福も邪魔をしていない。
だが。
「弱い」
セラフィナの肩が、わずかに動いた。グラシオが即座に口を開く。
「言い方というものがあるでしょう。これは聖女様が初めて、ご自身で考案された回復食です」
「だから弱いと言った」
「何ですって」
「聖女が初めて作ったから褒める、という顔をするな」
俺は器を置いた。
「それは料理を見ていない」
グラシオの顔が強張る。セラフィナは黙っている。俺は粥を見る。
「食べられる。飲み込める。前の聖餐よりずっといい。祝福も逃げに使っていない」
「では、なぜ弱いのですか」
セラフィナが聞いた。声は震えていなかった。ただ、目が少し痛そうだった。
「怖がっている」
「……私が、ですか」
「そうだ」
俺は匙で粥を少し崩した。
「塩が浅い。月根菜の甘さも奥へ引いている。聖草は苦くならないように下げすぎている。全部、誰かを傷つけないようにしている味だ」
セラフィナは、返事をしなかった。
「優しい味ではある」
俺は続けた。
「だが、優しい味と、踏み込まない味は違う」
グラシオが低く言う。
「弱った人に、踏み込む必要などありますか」
「ある」
俺は即答した。
「弱った人間は、何も感じたくないわけじゃない。食えるものを欲しがっているだけだ。これは、入口を作っている。でも、次の一口を引っ張る力がない」
エドヴァルドが、黙って粥を見ている。
セラフィナは、自分の器を手に取った。自分で一口食べる。目を伏せる。
「……食べやすいと思いました」
「食べやすい」
「はい」
「そこから先を怖がった」
彼女の指が、器の縁を押さえた。
「……怖かったです」
小さな声だった。グラシオが息を呑む。セラフィナは続けた。
「私が味を置いて、それで誰かが食べられなかったら。強すぎたら。苦しかったら。祝福なら、私は祈ったと言えます。でも、味は……私の手です」
その言葉は、粥よりも熱かった。
俺は彼女を見る。セラフィナは、今まで祝福を責任の外側に置いてきた。神の恵み、聖女の役目、教会の儀礼。
だが、今、自分の味を怖がっている。悪くない。
「怖いなら、味を抜くな」
俺は言った。
「どこが怖いか、皿の上に置け」
「皿の上に」
「そうだ」
俺は材料棚を指した。
「月根菜をもう少し焼け。甘さを逃げ道ではなく、支えにしろ。聖草は少しだけ前へ出せ。苦味を消すな。弱っている人間は、苦味を全部嫌がるわけじゃない。体が戻る場所を探す時、少しの苦味は目印になる」
セラフィナは頷いた。
「塩は」
「怖がるな。少なくていい。だが、届かせろ」
「祝福は」
「お前が決めろ」
彼女が顔を上げる。
「俺に聞くな。お前の皿だろ」
セラフィナは、しばらく俺を見ていた。それから、小さく息を吐く。
「……はい」
彼女は鍋の前へ戻った。グラシオが動きかける。
「聖女様、無理をなさらずとも――」
「無理をしないと、私の味になりません」
その一言で、グラシオは止まった。
セラフィナは月根菜を取った。前より少し厚く切る。火に当てる。焼き色がつく。
彼女は慌てて引き上げようとして、止まった。もう少し待つ。
香りが出た。甘さではなく、香ばしさが立つ。
次に聖草。葉を一枚。前は茎だけだった。今回は、葉先をほんの少しだけ刻む。
苦味が出る。セラフィナの眉が動く。それでも、捨てない。
雪塩を取る。指先にのせる。彼女は一度、こちらを見た。
「見るな」
俺は言った。
「自分で入れろ」
セラフィナは、塩を入れた。粥を混ぜる。味を見る。ほんの少し、目が変わった。
祝福。彼女は手をかざした。前回のように器の片側だけではない。だが、全体を覆うわけでもない。
器の入口。甘実の近く。苦味が出る場所の少し手前。三点。小さな光が、粥の中に置かれた。
俺は何も言わなかった。新しい器に、粥が注がれる。セラフィナが俺の前に置いた。
「もう一度、お願いします」
俺は食べた。
最初のひと匙。月根菜の香ばしさがある。白麦の柔らかさが、その下にある。塩が舌の手前に届く。
次のひと匙。聖草の苦味が、ほんの少しだけ出る。だが、嫌ではない。苦いものがあるから、甘さが逃げない。
祝福は、味を覆っていない。喉を開き、次の場所へ手を渡している。
まだ粗い。塩の置き方は少し迷っている。聖草の苦味も、あと半歩。粥全体の余韻も短い。
だが。
「弱い」
セラフィナの顔が少し曇る。
「でも」
俺は匙を置いた。
「嘘ではない」
その瞬間、彼女の目が揺れた。グラシオが口を開きかける。俺は先に言う。
「褒めるな」
グラシオの口が止まった。
「聖女様の初めての皿だから尊い、とか言うな。神が導いた味だ、とか言うな。そういう言葉で包むと、この皿はまた死ぬ」
セラフィナは黙って聞いていた。
「これはまだ弱い。粗い。迷っている。でも、祝福でも儀礼でもなく、セラフィナが怖がりながら置いた味だ」
俺は器を指した。
「だから、嘘ではない」
エドヴァルドが、静かに言った。
「私も食べていいか」
「勝手に食え」
王太子は粥を口に運んだ。すぐには何も言わなかった。
次に、グラシオも食べた。苦い顔をしている。だが、今度は「清貧ではない」とは言わなかった。修道女たちも味見をする。
一人が小さく呟いた。
「……前より、目が覚めます」
セラフィナがその言葉を聞いた。
「目が、覚める」
「はい。優しいだけではなくて……戻ってくる感じがします」
その修道女は、慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。変な言い方を」
「いいえ」
セラフィナは首を振った。
「記録します」
彼女は紙を取った。前回の聖餐記録とは別の紙。見出しに迷っている。
グラシオが言った。
「『聖女式回復粥』でよろしいのでは」
「いいえ」
セラフィナはすぐに答えた。その声が、今までより少しだけ強かった。
「まだ、式ではありません」
彼女は紙に書いた。
『セラフィナ試作一号』
字は、やはり少し震えていた。だが、前回とは違う震え方だった。怖がっている。けれど、逃げていない。
「改善点を、お願いします」
セラフィナが俺を見る。
「今ここでか」
「はい」
「多いぞ」
「書きます」
俺は溜息を吐いた。
「塩の位置は悪くない。でも、二口目で切れる。聖草は葉を使ったのはいいが、刻み方が細かすぎる。苦味が早く出る。月根菜は焼きが浅い。怖がるな。焦がせとは言っていない。あと、白麦を煮すぎるな。弱った相手に合わせようとして、全部を柔らかくすると、舌が寝る」
セラフィナは書く。書く。追いつかなくなって、少し眉を寄せる。
「もう少し、ゆっくり」
「料理は待たない」
「記録は待ってください」
俺は少しだけ黙った。エドヴァルドが笑った。
「レンジ。待て」
「王太子までうるさい」
「記録が残らなければ、次に進めない」
それは正しい。俺は口を閉じた。
セラフィナが書き終える。そして、最後に小さく一行足した。
『祝福は、怖い場所の手前に置く』
俺はそれを見た。
「何だ、それは」
「今日、そう思いました」
「曖昧だな」
「はい」
セラフィナは頷く。
「でも、今はこの言葉で残します」
俺は反論しなかった。まだ式ではない。まだ完成でもない。だが、皿の上に、自分の怖さを置いた人間の言葉だった。
その日、セラフィナの粥は教会の正式聖餐には採用されなかった。グラシオが保留にした。王太子も、無理に通さなかった。
ただ、治療院の小厨房に、試作用の小鍋が一つ増えた。
白麦、月根菜、聖草、雪塩、干し甘実。そして、セラフィナの記録。
誰も大きく宣言しなかった。だが、次の朝、修道女の一人が小さな鍋で同じ粥を試していた。
セラフィナは、その横で見ていた。指示は少ない。祝福もまだ入れない。まず、味を見る。その順番だけは、変わっていた。
帰り際、セラフィナが言った。
「レンジさん」
「何だ」
「今日は、少しだけ悔しかったです」
「そうか」
「でも、前より嫌ではありませんでした」
「変な聖女だな」
「あなたほどではありません」
言い返すようになった。面倒なことだ。
俺は小厨房を出た。外の廊下には、白麦の匂いが少し残っていた。
まだ弱い。まだ迷っている。
だが、もう祝福だけの匂いではなかった。




