第10話:褒められる皿ほど、信用できない
その魚を見た瞬間、俺は少しだけ黙った。
王宮美食審査会。名前からして嫌な場所だった。
白い審査卓、銀の皿、その奥に並ぶ五人の審査員。全員が食べる前から味を知っているような顔をしている。
その中央に置かれていたのは、銀鱗魚だった。
王都の北湖で獲れる高級魚。身は白く、脂は薄く、皮は銀色に輝く。骨は細いが、出汁が出る。腹身には少し癖がある。頭にも、頬にも、まだ味がある。
いい魚だった。だから、嫌な予感がした。
「課題は、銀鱗魚の白身を使った王宮晩餐用の一皿です」
審査長ミュラーが言った。年老いて痩せた男で、白い手袋に細い銀縁眼鏡、声は乾いている。
「王宮の皿にふさわしいのは、中心の身です。骨、皮、頭、腹身は不要。余計な香りを避け、清く、上品な皿を作りなさい」
俺は魚を見た。銀鱗魚の目は、何も言わない。
だが、前世の厨房の匂いが戻りかけた。
白い皿、審査員、中心だけの魚、捨てた骨と皮と腹身。
褒められた皿。信用できない皿。
「レンジ」
横からセラフィナが小さく呼んだ。なぜか彼女も来ていた。
正式には教会側の食養記録の参考にするためらしいが、半分は自分の目で見たいだけだろう。
エドヴァルドもいる。王太子の席で、黙って見ている。
最近、この男は料理で遊んでいる顔をしなくなった。皿を見る時、少し考えるようになった。面倒なことだ。
「どうしましたか」
セラフィナが聞く。
「何でもない」
「そうは見えません」
「見るな」
「見ます」
言い返すようになった。本当に面倒だ。
審査長ミュラーが咳払いをした。
「制限時間は半刻。王宮晩餐にふさわしい品格を期待します」
「一つ聞く」
俺は言った。
「骨と皮と腹身は、本当に使うなと?」
「不要です」
「食べたことは」
「ありますとも」
「料理として?」
ミュラーの眉が動いた。
「下働きの賄い程度なら」
「分かった」
それだけで十分だった。俺は銀鱗魚を手に取る。包丁を入れる。
中心の白身は、たしかに綺麗だ。だが、綺麗なところだけを皿に置けばいいというものではない。綺麗な身は、支えがなければただ薄い。
骨を外す。捨てない。皮を引く。捨てない。腹身を切り分ける。捨てない。
ミュラーがすぐに声を上げた。
「不要な部位を調理台に残すのは衛生上――」
「使う」
「聞いていなかったのですか。王宮晩餐に不要な部位だと」
「聞いた」
「ならば」
「不要かどうかは、皿が決める」
審査員たちがざわついた。
俺は骨を焼く。弱い火ではない。強すぎてもいけない。骨の表面に、薄く香ばしさをつける。
前世で捨てた骨と、同じ匂いがした。腹の奥が少し冷える。だが、俺は手を止めなかった。
焼いた骨を小鍋に入れ、水を少し。煮立てない。ゆっくり出す。
頭も割る。頬肉は外しておく。頭の骨からも味を取る。
皮は軽く塩を振り、余分な水を抜く。薄く油を引いた鉄板へ。押さえる。縮ませない。焦がさない。
銀色の皮が、ぱり、と音を立て始める。
腹身は細かく叩く。癖がある。そのままでは王宮の皿には強すぎる。だが、癖は悪ではない。
月橙の皮、透明芹、雪塩、ほんの少し、酸味のある白葡萄酢。
腹身を和える。臭みではなく、余韻へ回す。
中心の白身は、蒸す。骨の湯気を使う。ただ白く仕上げるのではない。魚が魚の中で戻ってくるようにする。
「……骨を、湯気に」
オルディスが、審査卓の端で呟いた。今日は審査員ではなく、王宮料理長として見届ける立場らしい。
彼は黒冠ソースの鍋を前にして以来、少し黙るようになった。良いことだ。
ミュラーは不満そうに見ている。
「王宮晩餐に、腹身の香りは強すぎます」
「だから、上に置かない」
俺は答えた。
「下に置く」
「下?」
「食べた時に、最後に来ればいい」
皿を作る。
まず、骨と頭から取った澄んだ出汁を薄く敷く。そこへ、月根菜を紙のように薄く切ったものを一枚。その上に、蒸した白身。横に、頬肉を小さく置く。腹身は、皿の端にほんの少し。皮は砕かず、白身の上ではなく、隣に立てる。
銀鱗魚の白身の皿。だが、中心だけではない。魚が、捨てられずに皿の中へ戻っている。
最後に、星果の皮をほんの少しだけ削る。香りの出口。
「名は」
エドヴァルドが聞いた。
俺は少し黙った。名前など、どうでもいい。
だが、この皿には、どうでもよくない気がした。
「銀鱗魚」
「それだけか」
「それだけだ」
皿が審査員たちの前に置かれる。ミュラーは、不快そうに皿を見た。
「白身の美しさが、余計な部位で乱されています」
「食え」
「口の利き方を――」
「冷める」
セラフィナが小さく咳をした。笑いを堪えたのかもしれない。
ミュラーはナイフを取った。白身を切る。口に入れる。最初、表情は変わらない。
白身は柔らかい。骨の湯気で蒸しているから、薄くない。魚の味が、中から戻る。
次に、皿の下の出汁が来る。透明だが、骨の味がある。月根菜の薄い甘さが、魚の淡さを支える。
底から味が立ち、少し遅れて腹身の香りが届く。上品ではない。だが、魚が生きていた場所の味だ。
ミュラーの眉が、わずかに動いた。
彼は皮を食べる。ぱり、と音がした。
その音で、他の審査員が顔を上げた。一人が頬肉を食べる。
「……ここが、一番味が強い」
思わず、という声だった。
ミュラーがその審査員を睨む。だが、すぐ自分も頬肉を食べた。
黙った。
エドヴァルドが、皿を見ている。
「これは、王宮晩餐にふさわしいか」
彼は審査員へ聞いた。ミュラーは答えない。
「審査長」
王太子の声が少しだけ低くなる。
ミュラーは、ようやく口を開いた。
「……王宮晩餐としては、少々、魚の存在が強すぎます」
「魚料理なのに?」
セラフィナが言った。食堂が静かになった。ミュラーが彼女を見る。
「聖女様」
「魚料理で、魚の存在が強すぎるのですか」
セラフィナの声は穏やかだった。だが、逃がさない声だった。
俺は彼女を見た。言い返すようになっただけではない。刺す場所を覚えてきている。
ミュラーは言葉を探した。
「王宮料理には、節度が必要です」
「食材が消えるほどの節度ですか」
セラフィナが続けた。
エドヴァルドが少しだけ目を細める。ミュラーは黙った。
俺は皿を見ていた。勝った気はしない。
これは、いつものように相手の看板を殴る皿ではなかった。むしろ、俺が昔捨てたものを、遅れて皿に戻しただけだ。遅すぎる。
だが、戻した。
「レンジ」
エドヴァルドが言った。
「この皿は、誰に食べさせるつもりで作った」
嫌な質問だった。俺は答えなかった。
ミュラーが少し笑う。
「料理人なら、王族へ捧げるためと答えるべきでしょう」
「黙れ」
声が、低く出た。ミュラーの顔が固まる。
俺は皿を見たまま言った。
「今、お前に答えるための皿じゃない」
セラフィナも、エドヴァルドも黙っている。俺は、前世の魚を思い出していた。
骨、皮、腹身。ゴミ袋の中で冷えていた味。
あの時、俺は審査員に褒められる皿を作った。食材を見なかった。食べる人間の顔も見なかった。ただ、評価される皿を作った。
今日の皿は、誰のためか。王太子ではない。審査員ではない。聖女でもない。
たぶん、あの時、捨てた魚のためだった。
「……昔」
俺は言った。
「同じような魚を捨てた」
誰も口を挟まなかった。
「骨も、皮も、腹も。皿の中心だけを使えと言われた。そうした。褒められた」
喉が少し重い。
「その皿は、俺が作った中で、一番信用できない皿だった」
セラフィナが、息を止めたのが分かった。エドヴァルドは、静かに俺を見ている。
「今日の皿は」
俺は皿を見る。
「そいつに、戻しただけだ」
「そいつ」
セラフィナが小さく言う。
「魚に、ですか」
「そうだ」
笑いたければ笑えばいい。皿の前で魚に謝る料理人など、まともではない。だが、今さらだった。
ミュラーは何か言いかけて、口を閉じた。たぶん、この空気では勝てないと判断したのだろう。賢い。嫌な賢さだ。
エドヴァルドが、ゆっくりと皿を口に運んだ。
すべてを食べた。白身も。皮も。頬肉も。腹身も。出汁も。
そして、ナイフを置いた。
「王宮美食審査会の課題基準を変える」
ミュラーが顔を上げる。
「殿下」
「中心の身だけを評価対象とする慣習を廃止する。今後、魚は可食部全体の扱いを含めて評価しろ」
「しかし、それでは皿が雑多に――」
「ならないようにするのが料理人だ」
エドヴァルドの声は冷たかった。
「今まで雑多になるのを避けるために、味を捨てていただけだ」
ミュラーは言い返せなかった。オルディスが、静かに頭を下げた。
「王宮厨房でも、魚の下処理記録を改めます」
「やれ」
エドヴァルドは頷く。
セラフィナは、皿を見ていた。
「レンジさん」
「何だ」
「今日の皿は、強かったです」
「そうか」
「でも、いつもの強さとは違いました」
「うるさい」
「悔しくありません」
「聞いていない」
「覚えておきます」
俺は返事をしなかった。審査会が終わったあと、調理台に戻る。
銀鱗魚の骨が、まだ少し残っていた。出汁は取り切っていない。皮の端もある。腹身も少し。
捨てるには、まだ早い。
俺は小鍋を火にかけた。
審査会用ではない。王宮晩餐用でもない。誰に出すかも決めていない。
ただ、残ったものを、食える形にする。
セラフィナが隣に来た。
「手伝っても?」
「邪魔するな」
「します」
「面倒だな」
「はい」
彼女は少し笑った。白麦を洗い始める。俺は何も言わなかった。
銀鱗魚の骨から、二度目の出汁が出る。一度目ほど強くはない。
だが、まだ味がある。
褒められる皿ではない。審査される皿でもない。ただ、食えるものを捨てないための鍋だった。
俺は、その湯気を少しだけ見ていた。
信用できる皿かどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも、今日は捨てなかった。




