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第11話:慈悲の粥は、ありがとうしか返さない

 粥は、まだ湯気を立てていた。

 白い。いや、白というより、薄い灰色に近い。潰した穀物と、水と、少しの塩。そこに薬草をほんの少し。香りは弱い。弱いというより、最初から立ち上がることを許されていない匂いだった。


 教会救護院の食堂は、静かだった。王宮の晩餐会とは違う。銀の皿も、飾り布も、重たい燭台もない。長い木卓が並び、木の椀が整然と置かれている。床は磨かれていた。窓も開いている。湿った薬草の匂いと、煮えた穀物の匂いが、部屋の中で薄く混ざっていた。

 悪い場所ではない。それが、まず嫌だった。


 王宮厨房で見た白祝の聖餐スープのように、食材が鍋の中で死んでいるなら、殴ればよかった。

 黒冠ソースのように、伝統で肉の顔を塗り潰しているなら、引き剥がせばよかった。

 銀鱗魚のように、骨も皮も腹も捨てろと言われたなら、拾って皿に戻せばよかった。


 だが、この粥は違った。死んでいない。殺してもいない。むしろ、死にかけた人間を、何度もこちら側へ戻してきた粥なのだろう。だから、厄介だった。


「こちらが、当院で毎朝と夕にお出ししている慈悲の粥でございます」

 そう言った女は、淡い灰色の修道服を着ていた。年は四十を少し越えたくらいか。顔には穏やかな皺があり、声は柔らかい。手も清潔だった。爪は短く切られ、袖口に汚れはない。


 マテルナ司祭。教会救護院の院長であり、慈悲料理監督官。

 名前だけ聞けば面倒な役職だが、目の前の女は怒鳴る料理長でも、得意げな美食家でもなかった。穏やかで、正しく、疲れている。そういう人間が、一番厄介だ。


「慈悲の粥、ですか」

 セラフィナが小さく繰り返した。彼女は聖女の白衣ではなく、簡素な外套を羽織っていた。教会関係者が多い場所だからか、いつもより少し背筋が硬い。

「はい。胃に負担をかけず、弱った方にも入ります。巡礼の途中で倒れた方、戦傷で食欲を失った方、身寄りのない子どもたち。皆、この粥から食事へ戻っていかれます」

 マテルナ司祭は誇らしげではなかった。ただ、事実を言った。それも嫌だった。


 エドヴァルドは俺の横で、腕を組んでいる。王太子が救護院に顔を出すなど、普通なら大騒ぎになるらしい。だが今日は、教会側が事前に人払いをしていた。とはいえ、病人と子どもと負傷兵を全員隠すわけにはいかない。

 食堂には、人がいた。痩せた巡礼者。片腕を吊った兵士。顔色の悪い老人。小さな子どもたち。寝台から起こされ、背を支えられて座っている女。


 彼らの前に、同じ椀が置かれていく。同じ粥。同じ量。同じ湯気。同じ木匙。俺は、配膳を見ていた。

「レンジ」

 エドヴァルドが言った。

「何か言いたそうな顔だな」

「まだ何も食ってない」

「食えば言うのか」

「たぶんな」


 エドヴァルドは少しだけ笑った。最近、この男は俺の皿を見る時より、俺が皿を見る時の顔を観察している気がする。嫌な趣味だ。

「この粥で助かった者も多い」

 エドヴァルドは、食堂の奥へ目を向けた。

「飢えた者に、まず温かいものを出す。それ自体は間違いではない」

「間違いなら楽だった」

「そうか」


 そうか、ではない。面倒なことを言うな。

 セラフィナは、配られていく粥を見ていた。目は椀ではなく、人の顔を追っている。

「……皆さん、静かですね」

 セラフィナが言った。

 マテルナ司祭が微笑む。

「救護院では、食事の前後に祈りを捧げます。静かに受け取ることも、回復の一部ですから」


「回復の一部」

「ええ。食べられることは、女神の慈悲です。まずは、その慈悲を乱さず受け取ることが大切なのです」

 言葉は綺麗だった。綺麗な言葉は、皿の上ではよく濁る。


 配膳が終わる。木の椀が、すべての前に並んだ。粥はまだ湯気を立てている。湯気は薄い。香りも薄い。薬草の匂いが、穀物の匂いを上から軽く押さえている。

 マテルナ司祭が、両手を組んだ。

「女神の慈悲に、感謝を」


 食堂にいる者たちが、同じように手を組む。セラフィナも少し遅れて手を重ねた。俺は組まなかった。エドヴァルドも組まない。王族の祈りは形式が違うのか、単に面倒なのかは知らない。


 祈りが終わる。木匙が動き出した。粥をすくう音。口へ運ぶ音。飲み込む音。どれも小さい。

 誰も急がない。誰も残さない。誰も顔をしかめない。誰も笑わない。


 一人目の老人が、椀を置いた。

「ありがとうございます」

 次に、兵士が言った。

「ありがとうございます」

 子どもが言った。

「ありがとうございます」

 寝台から起こされた女が、かすれた声で言った。

「ありがとうございます」


 その言葉が、食堂に順番に落ちていく。

 おかしい。


 俺は、粥の鍋を見た。大鍋は一つ。底は厚い。焦げはない。粥はきちんと混ぜられている。穀物は潰れすぎてはいないが、形を残しすぎてもいない。塩も強くない。薬草も、苦くは出ていない。

 下手ではない。だから、余計におかしい。


「レンジさん」

 セラフィナが、小さく呼んだ。

「何だ」

「……優しい味、ではあると思います」

「まだ食ってないだろ」

「匂いと、皆さんの顔で、少しだけ」

「顔で味を見るな」

「はい」


 素直に返事をするな。面倒になる。

 マテルナ司祭が、俺の前に椀を置いた。

「レンジ様にも、ぜひ」

「様はいらない」

「では、レンジさん」

「それもいらない」


 俺は椀を受け取った。粥をすくう。匙の上で、白灰色の粥がゆっくり揺れた。口へ運ぶ。

 温かい。熱すぎない。弱った喉でも飲み込める温度だ。塩は薄い。だが、完全な無味ではない。胃に刺さらないようにしてある。薬草の青さも、少しだけ残している。


 粥の粒は舌の上で崩れる。噛まなくても飲める。噛もうと思えば、ほんの少し抵抗がある。

 作った人間は、食べられない人間を知っている。それは分かった。

 俺は、もう一口食べた。やはり、下手ではない。雑でもない。食べさせる意志はある。

 だが。


「いかがですか」

 マテルナ司祭が聞いた。声は穏やかだった。勝ち誇ってはいない。だから、俺は余計に嫌になった。


「不味い、とは言わない」


 食堂の端で、数人がこちらを見た。マテルナ司祭の眉が、ほんの少し動いた。

「それは、安心いたしました」

「安心するな」

「……はい?」

「食えるようには作ってある。胃にも、喉にも、悪くない。飢えた人間に出す粥として、間違ってはいない」

「では、何か問題が?」

「ある」


 俺は椀を置いた。

「変な皿だな」

「……変、ですか」

「ああ」


 粥を見る。粥そのものは、何も言わない。穀物も、薬草も、水も、塩も、悪くない。悪くないのに、変だった。

「味がないんじゃない」

 俺は言った。


「返事が決まってる」


 食堂の音が、少し止まった。セラフィナが息を呑む。エドヴァルドは黙っている。マテルナ司祭は、すぐには答えなかった。

「返事、とは」

「食ったあと、全員が同じことを言う」

「感謝の言葉です」

「知ってる」

「救われた方は、自然と感謝を口にされます」


 自然と。その言葉が、一番まずかった。

「自然じゃない」

 俺は言った。


「自然なら、全員同じにはならない」


 マテルナ司祭の顔から、笑みが少しだけ消えた。

「……救護院では、感謝を忘れないよう導いております」

「導く?」

「はい。食事は命を繋ぎます。命を繋がれた者が感謝を返すのは、当然のことです」

「当然の返事は、味じゃない」

 俺は、もう一度粥を見る。

「この粥は、食わせている。けど、聞いていない」


「何を、ですか」

「食ったやつの返事を」


 兵士が、椀を持ったままこちらを見ていた。痩せた巡礼者も。子どもたちも。その視線に、怯えはあった。期待はない。期待することに慣れていない目だった。

 セラフィナが、ゆっくりと食堂を見回す。

「……祈りの後に、似ています」

「何が」

「顔です」


 彼女は胸元で手を重ねたまま言った。

「祝福を受けた後、人は安心します。痛みが引いて、呼吸が楽になって、少しだけ目を閉じる。……ここの方たちも、似ています」

「いいことではないのか」

 エドヴァルドが聞いた。

 セラフィナは少し迷った。

「いいことです」

「なら」

「でも、祝福の後、私は時々、聞きそびれていました」


 彼女は粥の椀を見る。

「その人が、本当は何を言いたかったのか」


 マテルナ司祭が、静かにセラフィナを見た。

「聖女様。苦しむ方々に必要なのは、まず回復です。言葉は、体が戻ってからでよろしいのです」

「そうかもしれません」

 セラフィナは否定しなかった。だから、言葉が重くなった。

「でも、体が戻るまで、ずっと同じ言葉だけを返していたら。戻った時にも、別の言葉を思い出せないかもしれません」


 食堂が、また静かになった。その時だった。木匙が、椀の縁に小さく当たった。

 音を立てたのは、子どもだった。年は七つか八つくらい。髪は薄い茶色で、頬はこけている。椀を両手で持ち、粥を食べ終えたところだった。

 隣の修道女が、優しく頷く。


 子どもは、いつものように口を開いた。

「ありがとう、ござい……」


 そこで、止まった。俺を見たわけではない。セラフィナを見たわけでもない。ただ、自分の椀を見ていた。白灰色の粥が、少しだけ底に残っている。

 誰も動かなかった。子どもの唇が、少し震える。言葉が出ない。

 マテルナ司祭が、柔らかく微笑んだ。

「どうしました。食べられたことは、ありがたいことでしょう」


 子どもの肩が、小さく跳ねた。

「……ありがとうございます」

 言った。言ってしまった。修道女が安心したように頷き、椀を下げる。


 食堂の空気が、元に戻る。だが、俺は見ていた。今、止まった。ほんの少し。粥より薄い、一瞬だった。それでも、止まった。

「レンジ」

 エドヴァルドが低く言った。

「今のは」

「知らない」

「知らない顔ではない」

「うるさい」


 俺は椀を持ち上げ、残りの粥を食べた。冷め始めていた。冷めると、薬草の匂いが少し前に出る。穀物の甘さは弱い。温度が下がると、さらに返事がなくなる味だった。

 食える。だが、戻ってこない。


「マテルナ司祭」

 俺は言った。

「この粥を作った料理人は誰だ」

「料理人、ですか」

「これを作ったやつだ」

「当院の厨房担当が――」

「違う」


 俺は大鍋を見た。

「最初に、この形にしたやつだ。潰し方も、温度も、薬草も、塩も、素人じゃない。弱った人間を見たことがあるやつの粥だ」

「……」

 マテルナ司祭は、少しだけ黙った。その沈黙で、答えは分かった。


 厨房の奥で、木杓子の音が止まった。俺はそちらを見る。

 白い前掛けをつけた女が立っていた。年は、俺より少し上か。黒に近い髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。顔色は良くない。寝不足の料理人の顔だった。だが、目は逃げていない。

 女は、俺の椀を見た。次に、食堂を見た。最後に、俺を見た。

「その粥を作ったのは、私です」

 声は静かだった。疲れているが、折れてはいない声。マテルナ司祭が小さく息を吐く。

「サエさん」

「構いません、司祭様」

 サエと呼ばれた女は、厨房から一歩出てきた。前掛けには、粥の白い跡がいくつも残っている。手には、小さな火傷の跡があった。料理をしている手だった。

「あなたが、レンジさんですね」

「さんはいらない」

「では、レンジ」

「何だ」

「その粥は、食べられない人のために作りました」


 彼女は、怒ってはいなかった。ただ、線を引いていた。

「香りだけで吐く人がいます。塩だけで夜に苦しむ人がいます。粒が残るだけで、喉に詰まる人がいます。脂を少し増やすだけで、次の日に戻ってこられない人もいます」

 俺は黙って聞いた。

「あなたの皿が、どれだけ正しくても」


 サエは言った。

「食べられない人に、強い皿を出す料理人なら、ここには要りません」


 食堂の粥は、まだ湯気を立てていた。俺は、空になった椀を置いた。

「そうか」

 サエの目が細くなる。

「それで終わりですか」

「終わりじゃない」

「では、何を」

「次は、お前の粥を食う」


 サエは、ほんの少し眉を動かした。

「今、食べたでしょう」

「違う」

 俺は大鍋を見た。

「今食ったのは、教会の返事が混ざった粥だ」


 マテルナ司祭の顔が、初めてはっきり固まった。サエは黙った。木匙を握る手に、少し力が入る。

「明日、厨房を見せろ」

「なぜですか」

「この粥が、お前の皿なのか確かめる」

 サエは、俺から視線を外さなかった。

「確かめて、どうするんです」


「皿で決める」

 俺は言った。

「祈りじゃない。感謝でもない。食えるかどうかで見る」


 サエは、少しだけ目を伏せた。そして、頷いた。

「いいでしょう」

 マテルナ司祭が口を開きかける。サエは、その前に言った。

「厨房でお待ちしています」


 それきり、食堂にはまた粥をすくう音だけが戻った。子どもは、もう何も言わなかった。兵士も、巡礼者も、老人も、決まった言葉を返していた。


 ありがとうございます。

 ありがとうございます。

 ありがとうございます。


 同じ言葉が、粥より薄く、食堂に積もっていく。俺は空の椀を見ていた。

 この粥は、まだ殴れない。殴る場所を間違えれば、食べられない人間の口まで潰す。


 だが、決まった返事だけを返す皿を、俺は信用しない。

 白い湯気の向こうで、厨房の扉が静かに閉まった。

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