表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
12/22

第12話:病院食の転生者は、強い皿を嫌う

 翌朝、厨房はまだ暗かった。

 救護院の朝は早い。王宮厨房のように、香辛料を並べる音も、肉を叩く音も、銅鍋を磨く音もない。あるのは、水を張る音と、穀物を洗う音と、火を起こす音だけだった。

 静かな厨房だ。だが、眠っている厨房ではなかった。


 サエは、俺たちが入ってきた時にはもう鍋の前に立っていた。白い前掛け。肘までまくった袖。指の節に残った小さな火傷の跡。目の下には薄い隈がある。寝不足の料理人の顔だ。それだけで、少なくとも信用できる部分はあった。

「早いですね」

 セラフィナが言った。

「この粥は、急いで作ると失敗します」

 サエは振り返らずに答えた。


「穀物の潰れ方が少し変わるだけで、飲み込めない人が出ます。温度を上げすぎれば、口の中を切っている人が食べられません。冷めすぎれば、匂いが前に出て、吐く人がいます」

 木匙が、鍋の中をゆっくり回る。粥はまだ形になっていない。水の中で、白い粒がほどけかけている。


 俺は鍋を覗いた。

「昨日の粥と同じか」

「同じです」

「毎日同じ味か」

「同じ状態で出すのが仕事です」

 サエは淡々と言った。

「昨日食べられた人が、今日も食べられるように。昨日吐いた人が、今日は少しでも飲めるように。味を変えるより、まず戻って来られることを優先します」


「戻って来られること」

「食卓にです」

 サエはそこで初めて、こちらを見た。


「あなたは、食卓に戻ってこられることを、当然だと思っていますか」


 俺は答えなかった。当然ではない。それくらいは知っている。

 前世で、厨房から見ていた。病室へ運ばれる食事。戻ってくる盆。手をつけられていない粥。蓋を開けた跡すらない汁。半分だけ潰されたゼリー。メモに書かれた「食欲なし」。


 知っている。見ていた。ただ、俺はその時も、皿の中心しか見ていなかった。

 サエは鍋に視線を戻した。

「昨日、あなたは言いましたね。この粥には返事が決まっている、と」

「ああ」

「間違ってはいません」

 彼女はあっさり認めた。

「でも、食べられない人にとっては、返事の前に口へ入るかどうかです」

「だから味を殺すのか」

「味を殺しているつもりはありません」

 木匙が止まる。


「味で人を殺さないようにしています」


 セラフィナが、少し息を呑んだ。俺はサエを見た。

「大きく出たな」

「現場では、大きく出る余裕はありません。小さく間違えるだけで、誰かが食べなくなります」

「食べないのは、皿がまずいからだろ」

「そういう時もあります」

 サエは否定しなかった。

「でも、それだけではありません」


 彼女は棚から小さな椀を一つ取った。そこに、鍋とは別に置いてあった透明な汁を少し注ぐ。香りは弱い。昨日の粥より、少しだけ輪郭がある。穀物ではなく、野菜の甘さに近い匂い。

「これは?」

「昨日、あなたが嫌がっていた“返事が決まっている粥”より、少しだけ香りを立てた汁です」

「俺に出すのか」

「違います」


 サエは椀を持って、厨房の隅へ歩いた。そこには、木の椅子に座った老人がいた。細い。肩が落ち、首だけで体を支えているように見える。昨日、食堂で粥を食べていた老人の一人だ。

「ロダンさん」

 サエが声をかける。老人が、ゆっくり目を開けた。

「今日は、少しだけ香りのある汁を試します。無理なら、すぐ下げます」


 老人は小さく頷いた。サエは椀を近づける。まだ口には運ばない。ただ、湯気が届く距離に置いただけだった。


 その瞬間。

 老人の顔が歪んだ。


 苦しそう、ではない。痛そう、でもない。拒絶だった。喉が小さく鳴り、唇が震える。老人は目を閉じ、顔を背けた。肩がこわばり、細い手が椅子の縁を掴む。

 サエは一瞬で椀を下げた。

「ここまでです」


 彼女の声は、変わらなかった。責めない。驚かない。慰めもしない。ただ、椀を下げた。

「大丈夫です。昨日の粥に戻します」

 老人は息を吐いた。顔色が戻るまで、少し時間がかかった。


 俺は、何も言えなかった。汁は悪くない。香りも強すぎない。王宮なら、味が薄いと文句を言われる程度の汁だ。それでも、届かなかった。

「今のは、香りですらありません」

 サエが言った。

「香りの手前です。それでも、食べられない人がいます」


 俺は老人を見た。老人は、まだ椅子の縁を握っている。目は伏せたままだ。

 サエがこちらを向いた。

「あなたの皿は、強い」

「……」

「それは悪いことではありません。目を覚ます人もいるでしょう。自分の舌を取り戻す人もいるでしょう」

 サエは椀を作業台へ置いた。


「でも、目を覚ます前に、匂いで体が閉じる人もいます」


 エドヴァルドの声が、昨日の食堂から戻ってくる。

 ――君の皿は、目を覚まさせる。だが、目を覚ませば立てる者ばかりではない。

 腹の奥が、少し冷えた。


「飲み込めなかった人を、あなたは見たことがありますか」


 サエは言った。俺は、答えられなかった。

 見たことはある。だが、見ていなかった。皿に残されたものを、失敗として見ていた。作り直すべき味として見ていた。もっと良い調理、もっと正しい火入れ、もっと澄んだ出汁、もっと生きた香り。そういうものを考えていた。


 その前に、口が閉じる人間がいる。俺は、それを皿の外へ置いていた。

「レンジさん」

 セラフィナの声がした。俺は振り返らなかった。セラフィナは続ける。

「私は、以前、あなたに言いました。食べる人の弱さを見ていない、と」

「覚えてる」

「今のは、弱さだけではないと思います」

 彼女は老人を見る。


「体が、先に拒んでいました」


「そうだな」

 俺は、ようやく答えた。

 サエは鍋の前へ戻る。

「あなたは昨日、返事が決まっていると言いました」

「ああ」

「その通りです。でも、返事が決まる前に、食べられない人がいます」

「……」

「だから、私は粥を作っています」

 木匙がまた動き始める。

「食べられるように。戻ってこられるように。昨日より一口でも多く。明日もこの椅子に座れるように」


 その言葉は、正しかった。正しい言葉は嫌いだ。だが、間違ってはいない。

「レンジ」

 エドヴァルドが低く言った。いつの間にか、厨房の入口に立っていた。

「ずいぶん静かだな」

「うるさい」

「負けたのか」

「まだ皿を出してない」


 エドヴァルドは少しだけ眉を上げた。

「それは、負けていない理由にはならないな」

 嫌な王族だ。


 俺は、サエの鍋を見る。この粥は、食える。食えない人間を知っている粥だ。昨日の俺なら、そこに味を足そうとした。もっと輪郭を出せ。もっと香りを残せ。もっと温度を考えろ。もっと食材の顔を見せろ。

 だが、今の老人は、その前で顔を背けた。強い皿では殴れない。少なくとも、ここでは。


「サエ」

「はい」

「この粥は、必要だ」


 サエの手が、一瞬だけ止まった。

「……意外ですね」

「勘違いするな。褒めてない」

「でしょうね」

「食べられない人間に、まず入るものが必要なのは分かった」

「はい」

「お前は、それを作れる」

「はい」

 サエは短く答えた。


 俺は鍋から視線を外さない。

「だから、余計に腹が立つ」

 サエがこちらを見る。

「この粥は必要だ」

 俺は言った。


「必要なのに、返事が決まってる」


 厨房の空気が、少し重くなった。

「昨日の食堂で、あいつらは全員、同じことを言った」

「感謝の言葉です」

「お前もそう思うのか」

「……」

 サエはすぐには答えなかった。その沈黙だけで、少し見えた。


 この女は、マテルナ司祭と同じではない。だが、完全に違うわけでもない。

 粥を作った。食べられるようにした。生きて明日へ戻せるようにした。その後の言葉を、教会に預けた。

「食後の祈りは、救護院の決まりです」

 サエは言った。

「私が決めたことではありません」

「そうか」

「はい」


「なら、お前は逃げたんだな」


 サエの目が、初めて鋭くなった。

「……逃げた?」

「ああ」

「私は、食べられない人に食べてもらうために粥を作っています」

「そこから先を見なかった」

 サエの手が、木匙を握り直す。

「食べられれば、それでいいのか」

「食べられない人にとっては、それが最初です」


「最初だろ」

 俺は言った。

「最後にするな」


 沈黙。鍋の泡が、小さく弾けた。

 サエは俺を睨んでいた。怒りではない。怒って済ませられるほど、軽くはなかった。

「あなたは、簡単に言いますね」

「簡単なら昨日殴ってる」

「……」

「殴れなかった。お前の粥が必要だからだ」

 俺は、息を吐いた。認めるのは嫌だった。だが、皿で確認した以上、認めるしかない。


「でもな、サエ」

「はい」

「必要な皿を、失敗しても怒られない皿にするな」


 サエの眉が動いた。

「それは、どういう意味ですか」

「この粥は、誰にも怒られない」

 俺は言った。

「薄くても、慈悲だから。香りがなくても、弱者のためだから。毎日同じでも、食べられるだけありがたいから。誰かが飲み込めなくても、体調が悪かったから。誰かが何も言わなくても、感謝しているから」

 一つずつ、鍋の中へ落とすように言う。


「それで逃げられる」


 サエは黙っている。

「お前の粥は必要だ。でも、必要だからって、味の責任まで免除されるわけじゃない」

「……あなたは、まだ味の話をしている」

「違う」

 俺は首を振った。

「返事の話をしてる」


 その時、厨房の外から、昨日の子どもの声が聞こえた。小さな声だった。

「今日も、粥ですか」

 修道女が答える。

「ええ。ありがたい慈悲の粥ですよ」

 少し間があった。

「……はい」


 その「はい」は、昨日の「ありがとうございます」と同じ味がした。サエの視線が、わずかに扉の方へ動いた。

 見たか。聞いたか。俺は、何も言わなかった。サエも、しばらく何も言わなかった。

 やがて彼女は、鍋の火を少し弱めた。


「レンジ」

「何だ」

「あなたの皿では、あの子は食べられません」

「ああ」

「私の粥なら、食べられます」

「ああ」

「それでも、あなたは私の粥を変えると言うんですか」

「違う」


 俺は、作業台に置かれた空の椀を指で押した。

「お前の粥じゃなくて、その後ろにある言葉を変える」


 サエは俺を見た。

「言葉」

「慈悲。感謝。ありがたい。わがまま。贅沢」

 昨日、食堂に積もっていたもの。粥より薄く、粥より重いもの。

「お前の粥に、混ざってる」


 サエは、何も言わなかった。勝った顔ではない。負けた顔でもない。俺も、勝っていない。今日は、俺が負けた日だ。

 強い皿では届かない人間がいる。それを、皿の前で見せられた。だから、刃を持ち替える。味で殴れないなら、逃げを殴る。


 厨房の外で、木の椀が並べられていく音がした。今日も粥が配られる。今日も誰かが、同じ言葉を返す。ありがとうございます。

 俺は鍋を見た。

「サエ」

「はい」

「明日、この粥をもう一度作れ」

「毎日作っています」

「違う」

 俺は言った。


「教会の返事を抜いて作れ」


 サエの目が、かすかに揺れた。

「そんな作り方は、知りません」

「なら、明日覚えろ」


 サエは少しだけ笑った。疲れたような、腹を立てたような、どちらでもない顔だった。

「ずいぶん勝手ですね」

「料理人だからな」

「負けたばかりなのに?」

「ああ」

 俺は空の椀を手に取った。


「負けたから、作り直す」


 サエは、初めて小さく息を吐いた。

「……明日、同じ時間に」

「厨房を開けておけ」

「あなたの強い皿は、持ち込まないでください」

「持ち込まない」

 今日は。


 サエは木匙を鍋に戻した。粥がゆっくり回る。

 俺は厨房を出る前に、もう一度老人を見た。ロダンと呼ばれていた老人は、昨日と同じ粥を小さな匙で食べていた。一口。また一口。食べられている。

 それは、確かに勝ちだった。俺の皿ではない。サエの粥の勝ちだった。だから俺は、黙って厨房を出た。


 食堂では、今日も粥が配られていた。子どもが椀を受け取る。修道女が微笑む。マテルナ司祭が祈りの言葉を述べる。

 女神の慈悲に、感謝を。


 俺は、その言葉を聞きながら、空の椀を握っていた。

 まだ殴るな。間違えるな。粥を殴れば、食べられない人間の口まで潰す。

 殴るのは、粥ではない。


 この粥で黙らせているものだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ