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第7話:王族の薄味を、上品と呼ぶな

 王太子の食卓は、静かだった。

 静かすぎた。


 白い皿。銀の匙。透明に近いスープ。薄く蒸された魚。香りの弱い野菜。白いパン。水。

 病人食ではない。王族の昼餐だという。


「どうだ」

 王太子エドヴァルドは、俺の反応を待っていた。

 北広間の試食会から三日。魔族の黒牙傭兵団は、火を通すことを弱さとは呼ばない、と言って帰った。

 その翌日、エドヴァルドは俺を王族専用の小食堂へ呼んだ。


 セラフィナもいた。王宮料理長オルディスもいた。毒見役の老人もいた。

 老人の名はローレン。王家に三十年仕える毒見役らしい。痩せていて、目が鋭い。料理人よりも、医者に近い顔をしている。

 テーブルの上には、王太子が普段食べている昼餐が並んでいた。


 俺はスープを口に入れた。温かい水だった。

 魚を切る。柔らかい。だが、香りがない。塩は遠い。脂も、旨味も、骨の気配も、すべて慎重に取り除かれている。

 野菜も同じだ。煮すぎてはいない。形は綺麗。色も悪くない。だが、味がこちらへ来ない。


 俺は皿を置いた。

「つまらない」


 オルディスが顔を強張らせた。ローレンの目が細くなる。エドヴァルドは笑わなかった。

「まずい、ではないのか」

「まずい以前だ」

「以前?」

「食卓が、何も言っていない」


 小食堂の空気が硬くなる。王太子は椅子の背に身を預けた。

「王族の食事は、静かであるべきだ。香りが強すぎれば、毒の匂いを隠す。味が強すぎれば、異物に気づけない。脂が多ければ体調に障る。刺激物は、感情も胃も荒らす」

 ローレンが頷く。

「その通りです。王族の食事において第一は安全。味は、二の次です」


「二の次にされ続けた結果が、これか」

「何か問題が?」

 ローレンの声は低かった。

「この形式で、王家は何十年も毒を防いできました。薄味は上品のためではありません。生きるためです」


 なるほど。王宮の薄味は、ただの気取りではなかった。

 毒見のため。体調管理のため。王族の口が公務に支障を来さないため。理由はある。


 だが、理由があることと、正しいことは違う。

「生きるための飯が、食うことを諦めてどうする」


 ローレンの眉が動く。

「王族は、好きなものを好きなように食べる立場ではありません」

「だから、飯を殺していいのか」

「殺しているのではありません。抑えているのです」

「抑えすぎて、何も残っていない」


 俺は魚の皿を指した。

「この魚は何だ」

 オルディスが答える。

「白銀鱒です。王家の湖で獲れる淡水魚で、身が柔らかく、臭みが少ないため、王族の食卓にふさわしいとされます」

「ふさわしいのは、臭いが少ないからか」

「毒見の妨げにならず、消化にもよい」

「味は?」


 オルディスが黙った。ローレンが口を開く。

「味を前面に出す必要はありません」

「違う」

 俺は言った。


「味を前面に出す必要がないのではなく、味を出すと管理できないと思っているだけだ」


 エドヴァルドが、初めて少し身を起こした。

「ならば、作れるのか」

「作れる」

「毒見を妨げずに?」

「むしろ、今より分かりやすくする」


 ローレンが鼻で笑った。

「料理人はよくそう言います。だが、複雑な味ほど毒を隠す。香りは異臭をごまかし、酸味は苦味を丸め、油は舌を覆う」

「だから、お前たちは全部消した」

「必要だからです」

「違う」


 俺はスープの皿を持ち上げた。

「全部消すと、異物も見えにくくなる」


 ローレンの目がわずかに動く。

「……どういう意味です」

「味のない皿は、変化が分からない。水に一滴の苦味が落ちても、体調が悪いのか、毒なのか、素材なのか、分からない。皿に基準がないからだ」


 俺は魚の皿を置いた。

「味は騒がせるためにあるんじゃない。正常な輪郭を作るためにある。輪郭があれば、崩れた時に分かる」


 ローレンは黙った。エドヴァルドが言う。

「同じ食材を使え」

「白銀鱒か」

「そうだ。毒見の条件も同じだ。強い香辛料は禁止。匂いを隠すものも禁止。食後に公務がある前提で、体に重いものも避けろ」

「いい」


 俺は調理場へ向かった。王族専用の小食堂には、隣に小さな調理室がある。毒見の都合上、料理が運ばれる距離を短くするためらしい。


 白銀鱒。雪塩。白葱に似た香草。月根菜。透明芹。王家の湖水。白麦。星果。少量の白羽鳥の脂。

 材料は地味だ。だが、地味な食材ほど逃げない。


 まず、白銀鱒の骨を外す。捨てない。小鍋へ入れる。湖水を少し。煮立てない。骨から、静かな旨味を取る。

 身には雪塩を薄く振る。表面だけではない。時間を置き、魚の中へ少し入れる。


 月根菜は薄く切り、半分を焼く。焦がしすぎない。甘さの端だけを起こす。

 透明芹は刻まない。茎を軽く叩き、水に落とす。香りを強く出さない。ただ、鼻の奥に少し通るだけでいい。

 白羽鳥の脂を、ほんの爪先ほど温める。そこへ白葱の青い部分を通す。香りを移して、すぐ引き上げる。


 ローレンが調理室の入口に立っていた。

「脂を使うのですか」

「少しだけだ」

「毒を覆います」

「覆うほど使うな」

「香りは?」

「逃げ道を作る」

「逃げ道?」


「魚の臭みが出た時、鼻で分かるようにする」


 ローレンは眉をひそめた。理解していない顔ではない。理解したくない顔だ。


 白銀鱒の身を、蒸す。湯気に骨の出汁を少し混ぜる。魚を水っぽくしない。熱で締めすぎない。

 器には、焼いた月根菜を一枚。その上に白銀鱒。魚の下に、透明芹の香りを含ませた出汁を少し。上からかけない。底に置く。

 最後に、星果の皮をほんの少しだけ削る。酸味ではない。香りの境界線だ。


 もう一つ、小皿を用意する。同じ料理。ただし、わざと苦味の強い薬草を針の先ほど混ぜる。

 ローレンが目を細めた。

「何を」

「試す」

「毒を混ぜる気ですか」

「毒ではない。だが異物だ」


 俺は二つの皿を並べた。

「お前が先に食え」


 ローレンの顔が、わずかに歪んだ。

「……私に?」

「毒見役だろ」


 エドヴァルドが調理室の入口から見ていた。

「ローレン。やれ」

「承知しました」


 ローレンはまず、通常の皿を口に運んだ。表情は変わらない。だが、目が少しだけ動いた。

 魚の身は柔らかい。ただし、ぼやけない。骨の出汁が底から支える。月根菜の甘さが魚の淡さを持ち上げる。透明芹の香りが、口の奥に細く抜ける。強くない。だが、薄くもない。


 次に、異物入りの皿。ローレンは匙を口に入れた瞬間、眉を寄せた。

「……苦い」

「どこで分かった」

「魚ではありません。出汁の後です。芹の香りに触れたところで、苦味が浮いた」


「そうだ」

 俺は通常の皿を指した。


「味の流れがあれば、異物がどこに落ちたか分かる。何もない皿では、苦味はただの不快感になる。輪郭があれば、異常になる」


 ローレンは何も言わなかった。

 小食堂に料理を運ぶ。まずローレンが毒見を行う。通常皿。異物皿。彼はもう一度、異物皿で顔をしかめた。

「判別できます」

 ローレンは、はっきりと言った。エドヴァルドの眉が動いた。


「従来の食事よりもか」

 ローレンは少しだけ沈黙した。

「……少なくとも、この皿においては」

「そうか」


 王太子は通常皿を取った。白銀鱒を口へ運ぶ。今度は、俺が彼を見る番だった。

 エドヴァルドは、ゆっくり噛んだ。飲み込む。表情は変わらない。だが、すぐには次へ行かなかった。

 水を飲まない。口の中に残った香りを、確認するように黙っている。


「これは」

 彼が言った。

「王族の食事として、派手すぎるわけではないな」

「派手なものは作っていない」

「だが、味がある」

「ある」

「食後に、残る」

「残るようにした」


 エドヴァルドは皿を見た。

「私は、これまで食後に何も残らないことを、上品だと思っていた」


 誰も喋らなかった。王太子は続ける。

「舌に何かが残ると、公務に邪魔だと教えられてきた。香りが残ると、感情が動く。味が強いと、判断が鈍る。だから、食事は静かなほどいい」

 ローレンが少し頭を下げた。

「それは、王族の安全のためです」

「分かっている」


 エドヴァルドは、もう一口食べた。

「だが、安全のために、私は食べたことまで消していたのかもしれない」


 その言葉は、小食堂に静かに落ちた。セラフィナが、エドヴァルドを見ていた。オルディスも、ローレンも黙っている。


 俺は皿を見た。王太子の食卓。そこに味が残ることを、誰も許してこなかった。それは贅沢を禁じるためではない。王族を守るためだった。

 しかし、守ることと消すことは違う。


「上品な味っていうのは」

 俺は言った。

「味がしないことじゃない」


 エドヴァルドがこちらを見る。

「では、何だ」

「食べたあとに、騒がず残る味だ」


 セラフィナが小さく息を吸った。エドヴァルドは、少しだけ笑った。いつもの面白がる笑いではない。どこか、困ったような笑いだった。


「レンジ」

「何だ」

「明日から、王族用の食事基準を見直す」


 ローレンが顔を上げる。

「殿下、それは――」

「安全は落とさない。毒見も増やす。皿ごとに、正常な味の記録を作れ」

「味の、記録でございますか」

「異常が分かるようにするのだろう」


 エドヴァルドは、俺を見た。

「違うか」

「違わない」


 オルディスが、静かに息を吐いた。

「味を記録する王族食、ですか」

「できないのか」

 王太子の問いに、オルディスは少しだけ顔を引き締めた。

「……できます」

「では、やれ」


 その日、王族の昼餐は途中で下げられた。薄いスープ。白い魚。香りのない野菜。それらは廃棄されなかった。オルディスとローレンが、もう一度味見をした。どこに味がなく、どこに異常が隠れるかを確認するために。


 俺は、白銀鱒の骨を片づける。まだ出汁が出る。王族の皿は、思ったよりも長く眠らされていた。

 食堂を出る時、エドヴァルドが俺を呼んだ。


「レンジ」

「何だ」

「私は、味に鈍かったか」


 王太子の声は、いつもより低かった。その問いは、料理への問いではなかった。自分の食卓を疑い始めた人間の声だった。

 俺は少し考えて、答えた。


「鈍かったんじゃない」

「では?」

「鈍くなるように、育てられた」


 エドヴァルドは黙った。怒らなかった。笑わなかった。ただ、空になった皿を見た。


 その夜、王太子付きの毒見記録に、新しい欄が増えた。

『正常時の香り』

『正常時の塩味』

『正常時の余韻』

『異常発見位置』


 王族の食事は、初めて「薄いかどうか」ではなく、「何が残るか」を記録されることになった。

 俺はその報告を聞いて、少しだけ頷いた。


 上品な味が死んだわけではない。ただ、味のしない皿が上品のふりをする場所は、一つ減った。

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