第6話:魔族の生肉信仰を、香りで殺す
強い肉を、強いまま食う。
魔族の料理人は、それを誇りだと言った。
王宮の北広間に、黒い卓が置かれていた。普段は晩餐会に使われない場所だ。壁際には近衛。反対側には、角のある大柄な男たち。魔族傭兵団《黒牙》の使節。
魔王領境界の魔獣討伐に協力する見返りとして、王国側と補給契約を結ぶらしい。その試食会に、俺は呼ばれた。
理由は簡単だ。王太子エドヴァルドが、俺で遊んでいる。
「レンジ」
広間の上座で、エドヴァルドが言う。
「今日は魔族の食文化を見せてもらう。失礼のないようにしろ」
「失礼に値する皿なら、失礼なことを言う」
「だろうな」
止める気はないらしい。その隣には、聖女セラフィナが座っていた。治療院の粥から二日。彼女は昨日より静かだったが、目はこちらを見ている。
皿を見る目ではない。俺を見る目だ。面倒な相手になった。
「人間の料理人か」
魔族の一人が立ち上がった。名はヴァルガ。黒牙傭兵団の副長であり、料理番でもあるらしい。
背が高い。腕が太い。額から短い角が二本伸びている。口元には牙。腰には包丁というより鉈に近い刃物を下げている。
「聞いたぞ。王宮の皿をいくつも黙らせたそうだな」
「皿は黙らない。黙るのは食っていた人間だ」
「いい口だ」
ヴァルガは笑った。喉の奥で獣が鳴るような笑いだった。
「なら、我らの肉を食え」
部下が大皿を運んできた。黒い肉だった。いや、赤い。だが、血が濃すぎて黒く見える。
厚く切られた肉が、生のまま皿に並んでいる。上には粗い岩塩と、砕いた赤い実。肉の表面には、まだ魔力が残っている。熱を持っているような匂いがした。
「黒牙牛の心臓肉だ」
ヴァルガが言う。
「火は入れない。火を通せば、肉は弱くなる。強い肉は、血の熱をそのまま腹へ入れる。それが魔族の食い方だ」
魔族たちが低く唸る。誇りの声だった。
人間側の貴族たちは、顔を引きつらせている。だが、誰も笑わない。魔族の食文化を馬鹿にすれば、補給契約が壊れるからだ。
俺は皿の前に立った。黒牙牛、心臓肉。筋繊維は詰まっている。血の香りが強い。魔力由来の鉄臭さもある。肉そのものは悪くない。
ただし、厚い。噛み切らせる気がない。
俺は一切れを取り、口に入れた。硬い、強い。鉄と脂と血と魔力が、口の中で殴り合う。赤い実の辛味が上から乗るが、臭いを切れていない。噛むたびに肉が抵抗する。飲み込むには、力がいる。
魔族たちは、俺の顔を見ていた。飲み込む。水は飲まない。
「どうだ」
ヴァルガが牙を見せる。
「人間には強すぎたか」
「噛み切れないものを、勇気と呼ぶな」
広間が、静かになった。魔族の一人が立ち上がりかける。ヴァルガが片手で止めた。
「続けろ」
「肉は悪くない」
「当然だ」
「でも、この食い方は肉に負けている」
ヴァルガの笑みが消えた。
「我らが肉に、負けている?」
「そうだ」
俺は皿を指した。
「強い肉を、強いまま出したんじゃない。どう扱えばいいか分からないから、強いまま置いただけだ」
「火を通すのは、人間の弱さだ」
「火を入れることと、肉を弱くすることは違う」
セラフィナが、少しだけこちらを見た。昨日の言葉を思い出しているのだろう。
――強い味だけで、勝とうとしないでください。
分かっている。今回は、強い味で勝つ話ではない。
俺はヴァルガを見る。
「この肉を使う」
「同じ心臓肉をか」
「そうだ」
「焼くのか」
「一部だけ」
「逃げるのか」
「逃がすんじゃない」
俺は肉を持ち上げた。
「余計な強さを削る」
調理台が用意される。魔族たちは腕を組んで見る。人間側の貴族たちは、露骨に距離を取っている。エドヴァルドは楽しそうだ。セラフィナは、真剣に見ている。
俺は心臓肉を薄く切った。厚く食う肉ではない。繊維が詰まっている。なら、繊維を断つ。
包丁を寝かせ、筋の向きを見て、一枚ずつ切る。薄すぎれば逃げる。厚すぎれば噛めない。肉が抵抗し、舌が勝てる厚さにする。
ヴァルガが低く言った。
「薄い。弱そうだな」
「厚ければ強いと思っているうちは、肉の顔を見ていない」
切った肉に、雪塩ではなく黒岩塩を使う。魔族側が持ち込んだ塩だ。強い。苦味もある。そのままだと肉と喧嘩する。
そこに、黒麦酵を少し。発酵させた黒麦のペースト。魔族は酒造りに使うが、料理にはあまり使わないらしい。匂いは深い。旨味がある。ただし、入れすぎれば肉が腐ったようになる。俺は指先で薄く塗った。
「それは酒の素だ」
ヴァルガが言う。
「肉に塗るものではない」
「酒になる前の味を使う」
火赤実の果汁を一滴。辛味ではなく、酸味のある部分だけ。血の匂いを切る。
次に、魔族が燃料に使う焔木の欠片を削る。香りが強い。煙も強い。まともに燻せば全部焦げ臭くなる。
だから、直接当てない。鉄皿を熱し、その上に焔木を一瞬だけ触れさせる。煙を立てる。その煙を、薄切りの肉にくぐらせる。ほんの一息。
肉はまだ生に近い。だが、表面に香りがついた。
小鍋に、肉から出た血を少し。捨てない。血は臭い。だが、料理すれば旨味になる。
黒麦酵、火赤実、黒岩塩、少量の獣脂。弱い火で温める。血の匂いが丸くなる。鉄臭さが、深さへ変わる。
「血を火にかけるのか」
魔族の一人が顔をしかめた。
「血をそのまま飲む方が偉いと思っているのか」
「それが強さだ」
「血に謝れ」
黙った。
仕上げに、熱した血のソースを皿の底へ薄く敷く。上に、煙をくぐらせた心臓肉を並べる。さらに、刻んだ白葱に似た香草。最後に、火赤実の皮をほんの少し。
「名は」
エドヴァルドが聞く。
「黒牙牛心臓の煙通し。血酵のソース」
「物騒だな」
「肉がそういう顔をしている」
まず、ヴァルガに出した。彼は皿を見下ろした。薄く切られた肉。底に赤黒いソース。肉の表面には、焔木の香りが薄くまとっている。
「弱そうな皿だ」
「食え」
ヴァルガは一枚取った。口に入れる。噛む。
止まった。
肉は抵抗する。だが、噛み切れる。血の香りはある。だが、臭くない。焔木の煙が、肉の野性を立てる。黒麦酵が、血の重さを旨味へ引く。火赤実の酸味が、最後に舌を切る。強い。だが、噛むための強さだ。
ヴァルガは、もう一枚食べた。今度は、少しゆっくり噛んだ。魔族たちの表情が変わる。
「副長?」
ヴァルガは答えなかった。ただ、三枚目を食べた。
俺は言った。
「生のまま食うことが、強さなんじゃない」
ヴァルガの目が、俺へ向く。
「強い肉を、最後まで味として受け止めるのが強さだ。噛み切れない。臭い。飲み込みにくい。それを我慢しているだけなら、肉に支配されているのと同じだ」
「……肉に、支配される」
「そうだ」
俺は生の心臓肉の皿を指した。
「お前たちは、肉を従えている顔をして、肉に噛みつかれていただけだ」
魔族の一人が唸った。だが、ヴァルガは怒鳴らなかった。
「火を入れれば、弱くなると思っていた」
「入れ方が下手ならな」
「これは、火を入れたうちに入るのか」
「入る」
「ほとんど生だ」
「だから何だ」
俺は返した。
「火を通すことが目的じゃない。肉を食える形にすることが目的だ」
ヴァルガは皿を見る。
「……強さが、残っている」
「残した」
「削ったのではないのか」
「余計な強さを削った」
ヴァルガは、低く笑った。さっきとは違う笑いだった。獣が喉を鳴らすような音に、少しだけ人間の息が混じった。
「人間の料理人」
「何だ」
「この皿は、腹が立つ」
「そうか」
「だが、もう一皿よこせ」
「自分で持っていけ」
俺は皿を押した。魔族たちが、一斉に手を伸ばした。
最初は警戒していた人間側の貴族も、香りに負けて一切れ取る。食べる。顔が歪む。辛いからではない。強いからでもない。自分が思っていた「魔族の生肉」が、別の皿になったからだ。
セラフィナも、一切れだけ口に入れた。彼女はしばらく黙っていた。
「……強い味です」
「そうだな」
「でも、乱暴ではありません」
「そう作った」
「弱っている人には向きませんね」
「向かない」
「では、昨日の私の話を聞いていないわけではないのですね」
「いちいち確認するな」
セラフィナは、少しだけ笑った。
「これは、強い人のための料理ですか」
「違う」
「では?」
「強くありたい奴が、自分の我慢を味だと思わないための料理だ」
セラフィナの笑みが消えた。ヴァルガが、俺の言葉を聞いていた。
「我慢を、味だと思うな」
彼はゆっくり繰り返した。
「いい言葉だ」
「使うな」
「使う」
魔族たちが笑った。エドヴァルドが、面白そうに頬杖をつく。
「ヴァルガ。黒牙は、この調理を受け入れるか」
ヴァルガはしばらく黙っていた。それから、自分たちが持ち込んだ生肉の皿を見た。
「生で食うことを、やめはしない」
「そうか」
「だが」
彼は俺の皿を指した。
「火を通すことを、弱さとは呼ばん」
それで十分だった。魔族の生肉信仰は、その日、完全には折れなかった。だが、火を入れることは弱者の逃げ、という看板は剥がれた。
剥がれた下には、まだ噛み切れる強さが残っていた。
広間の片隅で、セラフィナが俺に言った。
「巻き返しましたね」
「何を」
「昨日、少しだけ私に負けたことです」
「負けていない」
「そういうことにしておきます」
俺は返事をしなかった。調理台の上には、黒牙牛の血がまだ少し残っている。ソースにできる。捨てるには、惜しい。
強さは、皿の上で叫ばなくていい。噛めば分かる形にすればいい。そのくらいは、あの粥でも学んだ。
認める気はないが。




