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第4話:冒険者飯はまずくて当然、という敗北

 冒険者ギルドの保存食は、石だった。

 比喩ではない。本当に、石に近い。

 灰色の塊。掌に乗るくらいの大きさで、表面は乾ききっている。


 香りはない。いや、正確には、湿った倉庫と古い穀物と獣脂が、互いに謝らずに固まった匂いがした。


「これが遠征用の標準携行食だ」

 冒険者ギルドの補給担当、バルドが誇らしげに言った。

 分厚い腕。短く刈った髪。左頬に古い傷。料理人ではない。だが、飯を配る人間の顔をしていた。


「一つで半日は動ける。雨に濡れても腐りにくい。袋に入れて腰へ下げれば、十日は持つ。味はともかく、命は繋がる」


 味はともかく。

 その言葉を聞いた瞬間、俺は保存食を割った。割れなかった。

「硬いな」

「硬いから持つ」

「歯は持たない」

「噛めば慣れる」

「慣れるな」


 俺は保存食を台に置き、包丁の背で叩いた。やっと欠けた。

 欠片を口に入れる。

 乾いている。塩が表面にだけ偏っている。中は粉っぽく、脂は酸化しかけている。噛んでも、噛んでも、喉の奥へ行きたがらない。水が欲しくなる。

 疲れた体なら、もっと飲み込めないだろう。俺は欠片を飲み込んだ。


「飯じゃない」


 バルドの眉が動いた。

「何だと」

「これは敗北を固めたものだ」


 ギルド倉庫の空気が重くなる。周囲には、遠征前の冒険者たちがいた。魔王領境界に近い森で魔獣の群れが出たらしい。三日分の食料を持って、明朝出発する。

 俺は王太子の命令で、王宮からギルドへ連れてこられていた。


 理由は単純だ。王宮晩餐で騒ぎを起こした雑役が、冒険者飯にも文句をつけるか見てみたい。エドヴァルドは、そういう顔をしていた。実際、今も倉庫の入口で腕を組んで見ている。暇な王太子だ。


「敗北だと?」

 バルドが低い声で言った。

「お前、戦場を知らねえだろ。飯に贅沢を言える場所ばかりじゃない。腹に入ればいい。動ければいい。まずいだの固いだの、そんなものはな――」

「ある」

 俺は遮った。


「まずい飯は、食う手を止める。硬い飯は、疲れた体をさらに疲れさせる。喉を通らない飯は、水を奪う。水を奪う飯は、戦場で人を殺す」


 バルドの目が細くなった。

「言葉だけなら、誰でも立派だ」

「食わせろ」

「は?」

「この携行食を、今日の遠征組に食わせるんだろう」

「そうだ」

「だったら、今食わせろ」


 冒険者たちが顔を見合わせた。バルドはしばらく俺を睨んでいたが、やがて一人の若い冒険者に顎をしゃくった。

「ジン。食え」

「え、俺っすか」

「遠征初参加だろ。ちょうどいい」


 ジンと呼ばれた少年は、苦笑しながら保存食を受け取った。年は十五か十六。革鎧がまだ体に馴染んでいない。

 彼は保存食をかじろうとして、歯を止めた。

「……硬いっすね」

「噛め」

 バルドが言う。


 ジンは力を込めて噛み、ようやく小さな欠片を口に入れた。噛む。噛む。眉間に皺が寄る。水袋へ手が伸びる。

「待て」

 俺は止めた。

「飲むな」

「え」

「それだけで飲みたくなるなら、森ではもっと飲む。水が切れたら終わりだ」


 ジンの顔が少し青くなる。バルドが低く唸った。

「……何が言いたい」

「これは保存食としては失敗していない。だが、遠征食としては弱い」

「同じだろ」

「違う」


 俺は保存食の欠片を台に並べた。

「保存できるだけなら、木片でもいい。遠征食は、疲れた人間が食えることまで含めて設計するものだ」


 白い皿の匂いがした。

 磨かれたカトラリー。審査員の前に並ぶ、形のいい魚の身。俺は若かった。


 料理長は言った。

『骨と皮と腹身は捨てろ。審査員は皿の中心しか見ない』

 俺は捨てた。骨に残っていた身も。皮目の脂も。腹身の強い味も。


 捨てた皿は、褒められた。

『洗練されている』

『余計なものを削ぎ落としている』

『上品な余韻だ』

 俺はその日、初めて賞を取った。


 そして閉店後、ゴミ袋の中で冷えた魚の骨を見た。あれが、一番うまかったはずだと分かっていた。分かっていて、捨てた。

 褒められた皿ほど、信用できなくなったのはその時からだ。


「……レンジ?」

 エドヴァルドの声で、意識が戻る。

 俺は保存食を見た。灰色の塊。食べられることを諦められた飯。


 似ている。誰かに褒められるために捨てられた味と、誰かに文句を言わせないために固められた味は、同じ匂いがする。


「作り直す」

 俺は言った。


 バルドが腕を組む。

「材料は同じだ。干し穀物、豆粉、塩、獣脂、干し肉、苦草。長持ちしなければ意味がない。割れやすくても困る。荷袋で崩れたら終わりだ」

「同じ材料でいい」

「また端肉だの骨だの使うのか」

「使わない」


 俺は袋を開けた。今回、捨てる部分で勝つ必要はない。この飯は、捨てられた食材の話ではない。食べる人間が、最初から諦められている話だ。


 まず、干し穀物を粗く砕く。粉にしすぎない。食感を残す。

 豆粉はそのままだと口の中の水を奪う。軽く煎る。香りが出るまで。青臭さを飛ばす。

 干し肉は細かく刻む。塩気を確認する。強すぎる。湯で少し戻し、その湯を捨てない。


「戻し汁を使うのか?」

 ジンが覗き込む。

「捨てたら味が逃げる」


 干し肉の戻し汁に、苦草を少しだけ入れる。そのままでは苦い。だが、獣脂と合わせれば、苦味が香りになる。

 獣脂は全部混ぜない。半分は生地へ。半分は表面へ薄く塗る。


 そこへ、酸味のある干し赤実を刻んで入れる。バルドが顔をしかめた。

「それは薬用だ。腹を壊した時に噛む」

「だから入れる」

「甘酸っぱいものを保存食に?」

「疲れた時に、口が動く」


 塩を入れる。ただし、均一に練らない。一部に強く、一部に弱く。口の中で変化が出るように。

 丸めない。薄く伸ばす。携帯しやすいように細長く切る。

 火を入れる。焼き切らない。水分を抜きすぎない。外側は乾かす。内側は少しだけ残す。

 最後に薄く獣脂を塗り、もう一度火に当てる。


 香りが立った。倉庫にいた冒険者たちの顔が変わる。

 派手な料理ではない。王宮の皿にもならない。見た目は茶色い棒だ。だが、さっきの石よりは飯の匂いがする。


「名は」

 エドヴァルドが聞いた。

「遠征棒飯」

「本当に名前を飾る気がないな」

「食う時に名前は噛めない」


 俺は焼き上がった一本を半分に折った。さっきより簡単に折れる。だが、崩れない。

 ジンに渡す。

「食え」


 ジンは恐る恐るかじった。噛む。目が少し開く。

「……噛めます」

「飯だからな」

「干し肉の味がする。あと、少し酸っぱい。でも、嫌じゃないです。水……そんなにいらないかも」


 ジンはもう一口食べた。バルドが無言で手を出す。俺は一本渡した。

 彼は噛んだ。顔をしかめる。

「……柔らかすぎる」

「荷袋で崩れるか?」


 俺は一本を布袋に入れ、台の上へ投げた。さらに上から木箱を置く。取り出す。割れていない。

 バルドの眉が動く。


「……十日持つかは分からん」

「干し方を調整すれば持つ。戻し湯と脂の割合も変える。森なら少し硬め、砂地なら塩を強める。寒冷地なら脂を増やす。全部同じ塊で済ませるから、まずくなる」


 バルドは黙った。エドヴァルドが、遠征棒飯を一本手に取った。かじる。王太子が食べるには、かなり地味な顔をした飯だ。

「……王宮の晩餐には出せないな」

「出すな」

「だが、遠征には持っていける」

「そのための飯だ」


 冒険者たちが、次々に手を伸ばした。ジンはもう二本目を食べている。

「お前、遠征前に食いすぎるな」

 バルドが手厳しく叱る。

「す、すみません。でも、これなら歩きながら食えそうです」


 その言葉で、倉庫の空気が少し変わった。

 保存食は、我慢して食べるものだった。腹に入れるものだった。命を繋ぐために、味を捨てたものだった。

 だが、今この少年は、歩きながら食えると言った。それだけで、十分だった。


「バルド」

 エドヴァルドが言う。

「遠征組に、試験的に持たせろ」

「……承知しました」


 バルドは渋い顔で答えた。だが、その目は保存食を見ていた。

 負けを認めた顔ではない。計算している顔だ。


 どれくらい持つか。どれくらい作れるか。どの部隊に配るか。水の消費が変わるか。疲労時に本当に食えるか。

 それでいい。味は、まず口で分かる。だが飯は、食べた後の体で答えが出る。


 バルドは、残った石のような保存食を手に取った。しばらく見つめ、低く言った。

「……俺たちは、これを強さだと思っていた」

「違う」

 俺は言った。


「諦めだ」


 バルドは反論しなかった。倉庫の隅で、古い保存食の箱が積み上がっている。

 十日持つ。雨に濡れても腐りにくい。腹に入れば命は繋がる。そう言いながら、誰も食う人間の顔を見ていなかった。


 俺は、鉄板に残った焼き跡を拭いた。飯は、贅沢でなくてもいい。


「だが、敗北であっていい理由にはならない」


 その日、冒険者ギルドの標準携行食は、初めて「味見」の対象になった。ただ持つかどうかではなく、疲れた人間が食えるかどうかを試されることになった。


 まずくて当然、という看板が剥がれた下には、空腹の顔があった。

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