第22話:美食会は、最後の皿を残せない
厨房に戻ると、白冠仔羊の脂は、まだ静かだった。
冷えきってはいない。
動いてもいない。
ただ、次にどう扱われるかを待っている。
肉は喋らない。
だが、うるさい肉はある。
この肉は、うるさかった。
高いからではない。
希少だからでもない。
札が多いからでもない。
脂の奥に、まだ草が残っている。
赤身の中に、塩気を含んだ風が少し残っている。
それを殺されるくらいなら、皿に上がらない方がましだと言っている。
たぶん、そういう肉だった。
「主菜を作り直すのですか」
厨房長が聞いた。
「作り直すんじゃない」
俺は答えた。
「では」
「まだ始まってなかった」
厨房長は黙った。
さっきまで、南方香辛料の箱は開いていた。濃縮果実のソースも、金箔も、厚く切るための大きなナイフも揃えられていた。全部、皿を豪華に見せるものだ。
だが、肉の向きを見るものではない。
俺は白冠仔羊の塊を見た。
「厚く切らない」
「薄くするのですか」
「違う」
厚いか薄いかではない。どこから噛ませるかだ。
俺は肉の筋を見た。脂の入り方を見る。赤身の色を見る。香りがどちらから逃げるかを見る。
この肉は、最初に脂を当ててはいけない。先に脂が来ると、軽さが贅沢に見える。
違う。こいつの脂は、威張るための脂ではない。草を連れてくるための脂だ。
俺は切る位置を変えた。
厨房長が息を呑む。
「そこから切るのですか」
「ああ」
「主菜用に見える面が」
「客に見せる面だろ」
「……」
「今日は、肉が向いてる方から切る」
切り出した一枚は、大きくない。美食会の主菜としては、むしろ控えめに見えるだろう。だが、噛む順番は決まっている。
最初に、赤身。次に、脂。最後に、草。その順番で来るように切る。
香辛料は使わない。金箔も使わない。濃縮果実のソースも使わない。
ただし、何も足さないわけではない。
塩を少し。前よりも、ほんの少し粗い塩。海の塩ではない。高地の草地に吹く風の塩気に近いものを選ぶ。
青い葉は、前よりも少し苦いものを使う。飾りではない。添え物でもない。肉が最後に向かう場所を、皿の上に置くためだ。
厨房の隅に、薄い乳を発酵させたものがあった。美食会では、ソースの下地にする予定だったらしい。俺はそれを少しだけ取った。
「それも使うのですか」
厨房長が言った。
「ああ」
「白冠仔羊には、濃縮果実のソースが」
「甘さで押すな」
俺は、発酵乳を少しだけ温める。煮ない。香りを起こすだけ。そこへ、塩を溶かす。青い葉をくぐらせる。
乳の甘さ。塩気。青い苦み。
肉の外から味をかぶせるためではない。肉の中に残っているものを、外から少しだけ照らすためだ。
火に入れる。
最初は弱い。表面を急がせない。赤身の中に熱を通しすぎない。脂が薄くほどける。
そこで一度、火から外す。休ませる。
厨房長は、もう何も言わなかった。だが、見ていた。
料理ギルドの審査官も、入口から見ている。札は持っていない。帳面もない。見ているのは、肉だった。
オルバン侯爵は厨房には入ってこなかった。会場で待っている。
それでいい。これは厨房で勝つ皿ではない。食卓で残せるかどうかを見る皿だ。
肉をもう一度、短く火へ戻す。焼き目は薄い。派手ではない。皿の上で威張る色ではない。
だが、香りは逃げていない。
俺は肉を切った。
断面から、軽い脂が少しだけ光る。赤身はまだ柔らかい。火は通っている。だが、言い訳のようには通っていない。
皿に置く。
発酵乳の軽い汁を、肉の下に少しだけ。上にはかけない。肉を覆わない。食う時に、噛んだ後で触れる位置へ置く。
青い葉は、横に一枚。飾りではない。最後に噛ませる。
厨房長が、小さく言った。
「……白冠仔羊が、小さく見えません」
皿は派手ではない。量も多くない。金箔もない。香辛料もない。
それでも、小さくは見えなかった。
いい皿かどうかは、まだ分からない。だが、少なくとも、肉は客席の方を向いていなかった。肉のまま、皿にいた。
俺は皿を持った。
「行くぞ」
* * *
会場は、待っていた。正確には、待たされていた。
白冠仔羊の札は、伏せられている。オルバン侯爵の前にだけ、何も置かれていない。
彼は背筋を伸ばして座っていた。敗北を待つ顔ではない。断罪を待つ顔でもない。自分が守った食材を、もう一度見る顔だった。
俺は皿を置いた。
皿は小さい。美食会の最後の皿としては、あまりに静かだった。周囲の貴族たちがざわめく。
「これが白冠仔羊の主菜ですか」
「金箔もない」
「ソースは」
「量が少ない」
オルバン侯爵は、何も言わなかった。皿を見ている。札ではない。俺でもない。皿を見ている。
少しは、まともになった。
「食え」
俺は言った。
オルバン侯爵は、ナイフを取った。その手は、震えていなかった。
ゆっくり肉を切る。最初の一口。口へ運ぶ。噛む。
会場が静かになる。
最初に、赤身が来る。強くない。だが、薄くもない。噛むほどに、肉の中から細い味がほどける。
次に、脂が来る。重くない。舌に貼りつかない。さっきの皿より、もっと遅れて来る。
その脂が、青い匂いを連れてくる。
高地の草。
札に書かれていた言葉ではない。飼育記録にあった説明でもない。オルバン侯爵が、これまで何度も口にしてきたはずの産地の誇りでもない。
味だ。
そして最後に、皿の下に置いた乳の甘さと塩気が来る。肉の内側にあったものが、外から少しだけ戻される。
オルバン侯爵の目が、ほんの少し開いた。彼は、すぐには飲み込まなかった。
言葉を探しているのではない。たぶん、場所を探している。この肉がどこを向いているのかを。
オルバン侯爵は、飲み込んだ。
皿には、まだ肉が残っている。いつもの美食会なら、ここで残せる。残せることが余裕だった。全部食べ切らないことが品位だった。最後の皿を空にしないことが、選ばれた者の姿だった。
彼は、ナイフを置かなかった。二口目を切る。今度は、青い葉をほんの少し合わせた。噛む。
草の苦みが先に来る。その後で、脂が戻る。さっきよりも、肉の向きがはっきりする。
高地の草を食って育った肉。その言葉に、ようやく舌が追いついた。
オルバン侯爵は、また飲み込んだ。皿には、あと一切れ。
会場の誰も喋らない。料理ギルドの審査官も、食材商会の男たちも、黙っている。彼らは見ている。オルバン侯爵が残すかどうかを。
オルバン侯爵も、それを分かっていたはずだ。残せば、美食会の余裕は守られる。残さなければ、これまでの皿が少し壊れる。
彼は、最後の一切れを見た。長い沈黙だった。
それから、切った。口へ運んだ。
食べた。
皿は空になった。白冠仔羊の皿が、美食会の主催者の前で空になった。
誰も拍手しなかった。誰も笑わなかった。誰も、余裕だとは言わなかった。
オルバン侯爵は、空の皿を見ていた。しばらくして、彼は小さく息を吐いた。
「……残せませんでしたな」
自嘲ではなかった。悔しさだけでもなかった。言葉が、ようやく追いついたような声だった。
「ああ」
俺は言った。
「残せるのが余裕だったな」
オルバン侯爵は、顔を上げない。
「ええ」
「なら今、お前は余裕を失ったんじゃない」
会場の空気が揺れた。
俺は続けた。
「ようやく、味を見たんだ」
オルバン侯爵の指が、空の皿の縁に触れた。
「味を」
「ああ」
「私は、今まで味を見ていなかったと」
「見ていたものもある」
俺は答えた。
「産地も、価格も、草地も、認定も、食材が皿に届くまでのことは見ていた」
オルバン侯爵は黙っている。
「でも、皿に乗った後は、客の目を見ていた」
空の皿を見る。
「今は、肉を見た」
オルバン侯爵は、ようやく俺を見た。目に怒りは残っている。誇りも残っている。折れきってはいない。
それでいい。折るために出した皿ではない。見せるために出した皿だ。
「この肉は」
オルバン侯爵は言った。
「高地の草を覚えていました」
「ああ」
「私は、それを何度も語ってきた」
「だろうな」
「語っていたのに」
彼は空の皿を見る。
「今日、初めて食べた」
会場の奥で、誰かが息を呑んだ。
セラフィナは、伏せられた札を見ていた。それから、そっと札を手に取る。
白冠仔羊。高地の草。塩気を含んだ風。軽い脂。
彼女は、それを皿の前には戻さなかった。空の皿の少し後ろに置いた。
「食べた後なら」
セラフィナが言った。
「この札は、嘘ではないんですね」
俺は答えなかった。嘘ではない。ただ、早すぎた。
エドヴァルドが、会場を見渡した。
「ガストレ侯爵」
王族の声だった。オルバン侯爵が顔を上げる。
「王都美食会は、食材の来歴を語る場だと言ったな」
「はい」
「ならば、来歴を味より前に置くな」
オルバン侯爵は黙った。
「皿の前に札を立てるなとは言わない。必要な時もある。だが、食べる前に答えを渡すな」
それは、制度の命令ではない。だが、王族が食卓で言った言葉だ。十分に重い。
オルバン侯爵は、ゆっくり頭を下げた。
「承知しました」
敗北の礼ではない。たぶん、食材をもう一度見るための礼だった。
俺は、それ以上言わなかった。言えば、皿より前に言葉が立つ。
美食会の卓には、まだ札がいくつも並んでいる。皿も残っている。何もかもが一夜で変わるわけではない。
だが、主催者の前の皿は空だった。残せることを余裕と呼んでいた男が、最後の皿を残せなかった。それだけは、もう消えない。
* * *
厨房へ戻ると、白冠仔羊の残りがまだあった。
厨房長は、それを見ていた。香辛料箱は閉じたままだった。金箔の皿も、使われずに置かれている。
「残りはどうしますか」
厨房長が聞いた。
「食わせろ」
「同じ皿で?」
「同じにはならない」
「では」
「肉を見ろ」
厨房長は、少しだけ黙った。それから、白冠仔羊の塊へ向き直った。札ではなく、肉を見た。
まだ下手だ。たぶん、何度も間違える。でも、最初の向きだけは変わった。
俺は食材庫を出た。
会場では、まだ貴族たちが小声で話している。高地の草。軽い脂。白冠仔羊。空になった皿。
値段の話は、少し遅れていた。
それでいい。肩書きを噛んでいた口が、少しだけ肉を噛んだ。
まずは、それでいい。




