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第21話:美食伯は、食材を見せる相手を間違えた

「見せていただきたい」

 オルバン侯爵は、そう言った。

「私が、何を見ていなかったのかを」


 会場は静かだった。

 氷紋鱒の皿は空になっている。認定札は伏せられたまま、皿の少し後ろに置かれていた。

 さっきまで皿の前に立っていた札が、食べ終えた後に読む場所へ下がっている。それだけで、食卓の顔が変わっていた。


 だが、オルバン侯爵は折れていない。目が違う。降参した人間の目ではなかった。

「ただし」

 侯爵は、白冠仔羊の札を指で押さえた。

「その前に、あなたにも見ていただきたいものがあります」

「何を」

「皿に届く前の食材です」


 俺は黙った。

 オルバン侯爵は、給仕へ目を向ける。給仕が奥へ下がり、やがて厚い革表紙の帳面と、数枚の封書を持って戻ってきた。

 帳面は飾りではなかった。角が擦れている。紙の端に、何度もめくられた跡がある。綺麗な帳面は信用しない。使われた帳面は、少しだけ信用する。


「白冠仔羊の飼育記録です」

 オルバン侯爵は帳面を開いた。

「高地の草地は、放っておけばすぐ荒れます。冬に越せる群れは限られる。塩気を含んだ風を受ける草を維持するには、普通の羊肉の値では続かない」


 彼はページをめくる。

「この産地では、十年前に白冠仔羊をやめる家が出ました。手間がかかりすぎるからです。王都で高く買う者がいなければ、草地ごと別の用途へ変わっていたでしょう」

 封書が一通、俺の前へ置かれる。

 開かれた紙には、癖のある字が並んでいた。王都の貴族が書く字ではない。まっすぐではないが、嘘は少ない字だ。


『今年の草は浅く、脂は軽く出ると思われます』

『輸送時は冷やしすぎないよう、昨年の失敗を避けてください』

『若い群れを残すため、今年の出荷は三頭まで』


 俺は、その字を見た。

 皿の上では見えないものだった。

「あなたは、白冠仔羊を皿の上で見た」

 オルバン侯爵は言った。

「ですが、白冠仔羊は皿の上だけで守られるわけではありません」


 正しい。

 腹が立つくらい、正しい。


「認定印も、価格も、美食会の場も、すべて見栄だけではありません。高く買い、名を守り、偽物を弾き、選ばれた場に置く。そうして初めて、希少な食材は次の年も残る」

 彼は、俺をまっすぐ見た。

「あなたが今夜扱った肉は、私が高く買い続けたから、ここにあります」


 会場の誰も笑わなかった。食材商会の男たちも、料理ギルドの審査官も、黙っている。さっきまで肩書きを食っていた口が、今は少しだけ閉じていた。

 俺は帳面を見る。飼育日。出荷数。輸送温度。損耗。偽物の混入記録。草地の維持費。皿の上には乗らない数字ばかりだった。


「そこは、お前の勝ちだ」

 俺は言った。

 オルバン侯爵の指が、帳面の上で止まった。

「認めるのですか」

「認める」


 認めるしかない。

 皿の前まで食材を連れてくる人間がいる。畑も、牧場も、船も、荷車も、氷室も、認定印も、全部が皿の外で動いている。

 皿だけで料理は始まらない。


 そんなことは分かっていたはずだった。でも、俺はよく忘れる。皿の上で怒るのは簡単だ。皿に届く前の手間を見ないのも、逃げだ。


「ただし」

 俺は帳面から目を上げた。

「皿に届いた後まで、客の目で焼くな」


 オルバン侯爵は答えなかった。

「お前は食材を守った。そこは認める」

 俺は、白冠仔羊の札を見る。

「でも、守った食材を、食卓で見失ってる」

「見失っている」

「高地の草も、塩気のある風も、軽い脂も、お前は全部知っていた」


 さっきの白冠仔羊を思い出す。

 香辛料箱。金箔。厚すぎる切り方。格にふさわしい皿。

「知っていたのに、皿に乗せる時には、客に見せる形ばかり見ていた」


 オルバン侯爵の顔が、少しだけ硬くなった。

「選ばれた客に見せるからこそ、食材は守られるのです」

「そこまではな」

「そこまでは?」

「客に見せるために、肉の顔を変えたら終わりだ」


 セラフィナが、低く息を吸った。

 彼女は帳面と札を見ていた。皿ではなく、食材の前に置かれた言葉を見ていた。

「印は、守るためにも使えるんですね」

 セラフィナが言った。

「ああ」

 俺は答えた。

「だから厄介なんだ」


 守るための印。守るための価格。守るための場所。守るための祈り。守るための祝福。

 たぶん、どれも最初から悪いわけではない。

 悪いのは、それが食べる前に答えになることだ。


 エドヴァルドが、帳面を見ていた。

「君が壊そうとしているのは、悪趣味な晩餐だけではないな」

「壊すとは言ってない」

「では?」

「順番を戻す」


 エドヴァルドは、少しだけ目を細めた。

「食材が皿へ届くまでは、印も値も記録も要る」

 俺は言った。

「でも、皿に乗ったら、まず食材を見ろ」


 オルバン侯爵は黙っていた。

 その沈黙は、反省ではなかった。考えている。まだ、こちらを受け入れてはいない。

 それでいい。ここで簡単に頷かれたら、むしろ困る。


「レンジ殿」

「何だ」

「あなたは、私が客の目を見て食材を扱っていると言う」

「ああ」

「では、あなたは一度もそうしなかったのですか」


 会場の空気が変わった。いい一打だった。

 俺は、すぐには答えられなかった。


 前世の厨房が、少しだけ戻る。

 白い皿。磨かれた銀のカトラリー。審査員の顔。魚の骨。皮。腹身。

――骨と皮と腹身は捨てろ。

――審査員は皿の中心しか見ない。


 俺は捨てた。

 魚を嫌っていたわけではない。むしろ、褒められる皿にするために、魚を切った。中心だけを整えた。余計なものを外した。綺麗にした。褒められた。その皿が、一番信用できなかった。


 その後で、同じような魚を皿に戻した。骨も、皮も、腹も、まだ味がある。そう言って、ようやく一度だけ戻した。

 でも、捨てた事実は消えない。


「した」

 俺は言った。

 オルバン侯爵が、少しだけ眉を動かす。

「昔、褒められる皿にするために、魚の骨も皮も腹も捨てた」

 言葉にすると、喉の奥が少し重くなった。

「魚が嫌いだったわけじゃない。まずいと思ったわけでもない。審査員に届く形にした。皿の中心だけを見せた。褒められた」


 セラフィナは黙っている。エドヴァルドも何も言わない。

「その後で、同じような魚を皿に戻した。今日は捨てなかった。そういう日もあった」

 俺は、オルバン侯爵を見る。

「でも、捨てた時の俺は、魚を見ているつもりで、審査員の目を見ていた」


 オルバン侯爵は、何も言わなかった。

「お前も同じだ」

 俺は続けた。

「食材を見ているつもりで、美食会の目を見ている」


 会場が静かだった。

 これは、罵倒ではない。少なくとも、ただの罵倒ではなかった。だから、オルバン侯爵はすぐに返せなかった。


「お前が食材を大事にしたかったのは、嘘じゃないんだろうな」

 俺は言った。

 侯爵の指が、帳面の端を押さえる。

「なら、なぜ」

「見せる相手を間違えた」


 オルバン侯爵の顔から、ほんの少し血の気が引いた。

「食材は、客の格を飾るために育ったんじゃない」

「……」

「高く買ったことも、守ったことも、間違いじゃない」

 俺は白冠仔羊の記録を見る。

「でも、最後に見せる相手は、客じゃない」

「では、誰に」

「食べるやつの舌だ」


 オルバン侯爵は笑わなかった。

 その問いは、たぶん彼の中ではまだ終わっていない。

「選ばれた場がなければ、食材は守られない」

 侯爵は言った。

「それは変わりません」

「ああ」

「価格がなければ、産地は続かない」

「ああ」

「認定がなければ、偽物が混ざる」

「ああ」


「ならば、私は間違っていない」

 強い声だった。ようやく、オルバン侯爵が本当に抵抗した。

 俺は頷いた。

「そこまでは間違ってない」

「なら」

「その先で間違えた」


 オルバン侯爵の口が閉じる。

「皿に乗せた後も、まだ美食会に見せようとした」

 俺は、会場の卓を見る。伏せられた札。残された皿。空になった白冠仔羊。空になった氷紋鱒。

「だから、食材が客の方を向かされていた」


 オルバン侯爵は、ゆっくりと帳面を閉じた。

「……私は、食材を粗末にしたかったわけではありません」

「知ってる」

「私は、食材に格を与えたかった」

「知ってる」

「希少なものには、希少な場所が必要だと思っていた」

「知ってる」


「それでも、あなたは私が食材を見ていないと言う」

「ああ」

 俺は言った。

「見ていたのは、食材を置く場所だ」

 侯爵の手が止まる。

「食材そのものじゃない」


 会場の奥から、白冠仔羊の匂いがした。

 次の皿の準備が進んでいる。厨房長は、たぶんまだ迷っている。香辛料箱を開けるかどうか。厚く切るかどうか。金箔を置くかどうか。

 俺は立ち上がった。


「次は、客じゃなくて肉に合わせる」

 オルバン侯爵が顔を上げる。

「白冠仔羊を、ですか」

「ああ」

「すでに一皿、食べました」

「あれはまだ途中だ」


 侯爵の目が、少しだけ動いた。

「途中」

「お前は香りを知っただけだ」

 俺は、閉じられた帳面を見る。

「次は、肉がどこを向いているかまで食わせる」


 オルバン侯爵は、長く黙った。

 それから、白冠仔羊の札を手に取り、俺の前へ置いた。さっきまで皿の前に置かれていた札だ。今は、俺の前にある。

「では」

 侯爵は言った。

「私が守った食材を、あなたがどう見るのか」


 俺は札を見なかった。

 厨房の方を見る。

「札じゃない」

 そう言って歩き出す。

「肉を見る」


 背中に、オルバン侯爵の声が届いた。

「それでも残せるなら、残してみろ、でしたな」

「ああ」

 俺は振り返らなかった。


「残せるなら、残せ」


 厨房の奥で、白冠仔羊の脂が静かに冷えていた。

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