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20/22

第20話:認定印は、舌の代わりにはならない

「印は要る」

 俺がそう言うと、会場の空気が少し変わった。

 料理ギルドの男たちが、息を吹き返したような顔をする。食材商会の人間も、わずかに肩を戻した。オルバン侯爵は、空になった白冠仔羊の皿の横で、静かに俺を見ている。


「当然です」

 料理ギルドの審査官が言った。細い男だった。痩せていて、目が鋭い。銀縁の眼鏡をかけ、胸には料理ギルドの紋章がある。指にはインクの跡。料理人の手ではない。だが、帳簿と検査表を何百枚もめくってきた手だった。


「認定印は、王都の食卓を守るものです。産地偽装を防ぎ、保存状態を確認し、毒性のあるものを弾き、輸送温度を記録する。希少食材の乱獲を防ぐ役割もあります」

「知ってる」

 俺は言った。

「ならば、先ほどのお言葉は少々乱暴ではありませんか」


 審査官は、皿の横に置かれた札を指した。

「白冠仔羊がここまで届いたのは、認定制度があったからです。飼育証明。輸送温度。血統記録。解体時刻。すべて印に残されています。料理人殿がその肉を扱えたのも、制度が食材を守ったからです」

「そうだな」


 審査官の眉が少し動いた。反論されると思っていた顔だ。

 制度は要る。印も要る。何もないまま王都へ運べば、偽物も混ざる。腐った肉も紛れる。名前だけ借りた食材が、皿に乗る。

 それは分かる。


 前世でも、似たものはあった。産地。温度。検査。日付。保管。それを軽く見た厨房から、皿は腐っていく。

 だから、認定印は悪ではない。


 問題は、押す場所だ。

「印は要る」

 俺はもう一度言った。


「だが、舌の代わりに押すものじゃない」


 審査官の顔が、今度こそ硬くなった。

「……舌の代わり」

「ああ」


 俺は卓を見る。皿の横には、まだ札が並んでいる。食べる前から、客に答えを渡している札だ。

 北方氷室熟成。王都料理ギルド一等認定。ガストレ侯爵家特別輸入。希少種第三等級。昨年比価格三倍。


 食材が口へ入る前に、もう評価が決まっている。

「食う前に読むな」

 俺は言った。


 会場が止まった。

「何を、ですか」

 審査官が聞く。

「札だ」

「……札を読まずに食べろと?」

「ああ」

「危険です。認定内容を知らずに食べるなど」

「厨房では読め」


 俺は言った。

「仕入れでは読め。毒がないか、腐ってないか、温度が守られたか、偽物じゃないか。そこでは読め。読まないやつは厨房に立つな」

 審査官は黙った。


「でも、客の舌の前に置くな」

 俺は札を一枚取った。白冠仔羊の札だった。

「これは肉を守るための記録だ。肉の代わりに食うものじゃない」


 セラフィナが、静かに卓の札を見ていた。彼女は、皿ではなく、印を見ている。祝福を見ている時の顔に少し似ていた。

「この札は」

 セラフィナが言った。


「食べる前に、もう答えを渡しているんですね」


 誰もすぐには答えなかった。

「怖いものを口にする時、確認は必要だと思います。けれど、確認が先に答えまで決めてしまうなら、食べた人の言葉は、どこへ行くのでしょう」


 審査官がセラフィナを見る。

「聖女様。認定印は、食べる方々の不安を取り除くためのものです」

「はい」

 セラフィナは頷いた。

「だから、必要なのだと思います」


 そこで一度、言葉を切る。

「でも、不安を取り除くことと、味を先に決めることは、同じではありません」


 エドヴァルドが、わずかに目を細めた。オルバン侯爵は笑っていない。料理ギルドの審査官は、セラフィナへ向けた顔を俺へ戻した。

「では、どうするおつもりですか」

「食わせる」

「何を」

「印を読まずに食える皿だ」


* * *


 厨房へ戻ると、審査官もついてきた。オルバン侯爵も来た。

 エドヴァルドとセラフィナは会場に残った。いや、正確には、会場で客たちの顔を見ていた。皿より先に札を読む連中の顔を。


 厨房長は、俺を見て少し警戒していた。さっき白冠仔羊を奪ったからだろう。

「次は何を」

 厨房長が言った。

「魚」

「魚、ですか」

「氷紋鱒があった」


 俺は食材庫の奥を指した。白冠仔羊の隣ではない。冷気の強い棚に、氷紋鱒が並んでいた。銀の体に、薄い青の斑がある魚だ。身は締まっている。目も悪くない。だが、冷えすぎている。


 札にはこうある。

『氷紋鱒』『王都料理ギルド一等認定』『輸送温度完全管理』『清流域産地証明』『氷蔵時間規定内』


 審査官が誇らしげに言った。

「氷紋鱒は温度管理が命です。少しでも温度が上がれば、身が緩み、臭みが出る。認定印はその管理が正しく行われた証明です」

「そうだな」


 俺は魚を一尾取った。冷たい。冷たすぎる。

「管理は悪くない」

「当然です」

「ただ、このまま食わせると、川がない」


 厨房長が眉を寄せた。

「川?」

「この魚は、清流域の魚なんだろ」

「はい」

「なのに、口に入る時には氷室の魚になってる」


 審査官の顔が固まる。

「鮮度を保つためです」

「保ったものを、そのまま出すな」


 俺は鱒を置いた。冷やすことは間違っていない。温度管理も必要だ。だが、冷やしたまま偉そうに出せばいいわけではない。

 魚は、運ばれるために冷やされた。食べられるためには、戻さなければならない。


 俺は、鱒の表面の水気を取った。強くこすらない。身を潰さない。皮の上の冷えた水だけを取る。

 少し置く。

 厨房長が落ち着かない顔をする。

「温度が上がります」

「食う温度に戻してる」

「規定では」

「規定は運ぶためのものだろ」


 俺は鱒を見る。

「口の中まで氷蔵するな」


 審査官は反論しかけて、黙った。

 鱒に塩を少し振る。強くない。水を出しすぎない程度。火にかける。皮からだ。皮の下の脂を少しだけ動かす。身を焼き切らない。皮が薄く張るまで。


 身は、中心に冷たさを少し残す。完全に温かい料理にする魚ではない。冷たく運ばれた魚の、冷たさを全部否定しない。

 ただ、氷室ではなく、川へ戻す。


 添えるのは、強いソースではない。細かく刻んだ香草でもない。温めた浅い皿に、ほんの少しの透明な汁。鱒の骨から取った軽い汁に、青い香りを一滴だけ移す。

 臭み消しではない。魚がいた場所を思い出させるためだ。

「骨も使うのですか」

 厨房長が言った。

「魚に聞いたら、そう言った」

「……」

「黙るな。次から聞け」


 鱒を切る。厚くはしない。薄くもしない。皮、脂、身、冷たさ、汁。順番に口へ来るように置く。

 皿に、札は立てない。


 審査官がそれを見て言った。

「認定印を添えないのですか」

「厨房には残せ」

「客席には?」

「食った後に読め」


 俺は皿を持った。

「先に食わせる」


* * *


 会場に戻ると、卓の札が伏せられていた。エドヴァルドがやったらしい。王族の顔で静かに座っている。

 貴族たちは落ち着かない様子だった。皿の横に答えがない。それだけで、どこを見ればいいのか分からない顔をしている。


 セラフィナは、伏せられた札を見ていた。少しだけ、息を吐く。

「皿が、前に出ましたね」


 小さな声だった。俺は答えなかった。その通りだったからだ。

 俺は、料理ギルドの審査官の前に氷紋鱒の皿を置いた。

「食え」

「私が?」

「お前が印を押してるんだろ」


 審査官は唇を結んだ。

「私は審査官であって、美食会の客では」

「なら、なおさらだ。印が何を守ったのか、舌で確かめろ」


 会場が静かになる。審査官は、ナイフとフォークを取った。最初に、皿の横を見た。札はない。

 彼は一瞬困った顔をした。

 それから、鱒を見る。皮。身。透明な汁。それだけだ。


 彼は一口切った。口へ運ぶ。噛む。

 最初に皮が来る。薄く張った皮が、歯に触れて割れる。


 次に、脂が少しだけ動く。身の中心に、冷たさが残っている。だが、氷室の冷たさではない。水の冷たさだ。

 透明な汁が遅れて来る。青い匂いが、鼻の奥へ抜ける。


 審査官の眉が動いた。彼は、もう一口食べた。

 誰も喋らない。

 いつもなら、ここで産地名が出る。一等認定の話が出る。輸送温度の話が出る。清流域の説明が出る。

 だが、今は口の中に魚がいる。

「……清流域」


 審査官が言った。声は小さかった。

「この魚は、冷たさの中に川が残るから、清流域の名がついた」


 俺は、伏せられた札を取って、裏返した。

『清流域産地証明』

 文字が出る。

「食う前に読むな」

 俺は言った。


「食った後なら、分かることもある」


 審査官は、札を見た。それから、皿を見た。

「……輸送温度は、必要です」

「必要だ」

「氷蔵しなければ、この魚は王都まで持たない」

「そうだな」

「認定印は、間違っていません」

「間違ってない」


 審査官は、少しだけ息を吐いた。

「では、何が」

「印が勝ちすぎてる」

 俺は言った。


「この魚は、王都まで冷えて来た。そこまでは印の仕事だ」

 皿の上の鱒を見る。

「そこから先は、料理の仕事だ」


 審査官の指が、フォークを握り直した。

「我々は、食材を守っている」

「ああ」

「それを否定されれば、王都の食卓は」

「否定してない」

 俺は遮った。


「守ったなら、最後に食わせろ」


 審査官は、黙った。

「守った食材を、印の横で殺すな。規定に従って冷やした魚を、規定の顔のまま出すな。毒がないこと、腐っていないこと、偽物じゃないこと。それは大事だ」

 俺は、伏せられた札を見る。


「でも、安全なだけの魚を、美味いことにするな」


 会場に、低いざわめきが起きた。

 オルバン侯爵は黙っていた。彼はさっきから、札を見ていない。皿を見ている。

 それは、いいことなのか、悪いことなのか。まだ分からない。


 料理ギルドの審査官は、皿の残りを見た。鱒は、まだ半分ほど残っている。

 美食会なら残してもいい。審査官なら、味を見るだけでいいと言える。

 だが、彼は食べた。最後まで。


 空になった皿の横で、認定札だけが伏せられていた。

 食材は食われた。印は、後から読まれた。それでいい。


「レンジ殿」

 オルバン侯爵が口を開いた。声は静かだった。

「あなたは、印を否定しない。高級食材も否定しない。残すことそのものも、否定しない」

「そうだな」

「では、あなたが否定しているものは何です」


 俺は少し考えた。いや、考えるほどのことではない。

「順番だ」

「順番」

「食う前に、答えを置くな」


 オルバン侯爵は、ゆっくりと目を細めた。

「食材は、まず食材として見ろ。印はその後でいい。格も、価格も、来歴も、その後でいい」

「来歴を軽んじるわけではないと」

「来歴は味に乗る」


 俺は、前にも言った言葉をもう一度言った。

「だが、味の代わりにはならない」


 セラフィナが、伏せられた札を一枚、そっと元に戻した。

 皿の横ではなく、少し後ろへ。食べる前に答えを渡す場所ではない。食べた後に、確かめる場所。

 その動きに、エドヴァルドが目を向けた。オルバン侯爵も見ていた。

「面白い」

 侯爵は言った。だが、笑っていなかった。


「ならば、料理人殿。あなたは、食材の来歴をどこまで皿に乗せられるのですか」

「食材に残ってる分だけだ」

「残っていなければ?」

「お前らが殺してる」


 会場の空気が、また少し重くなる。

 オルバン侯爵は、白冠仔羊の空皿を見た。次に、氷紋鱒の空皿を見た。最後に、自分の手元の杯を見た。

「私は、食材に格を与えてきたつもりでした」


 その声は、会場全体に向けたものではなかった。

 だが、俺には聞こえた。

「格のある場に置けば、食材は粗末にされない。希少なものは、選ばれた者の前に置かれるから守られる。そう思ってきた」


 俺は、オルバンを見る。この男は、やはり小物ではない。

 間違えている。かなり間違えている。だが、食材を粗末にしたいわけではない。たぶん、そこが一番面倒だ。


「レンジ殿」

「何だ」

「あなたは、私が食材を見ていないと言う」

「ああ」

「では、見せていただきたい」


 オルバン侯爵は、白冠仔羊の札を手に取った。

「私が、何を見ていなかったのかを」


 そこまで言って、彼は初めて札を伏せた。会場の音が、また一つ変わった。

 俺はオルバン侯爵を見た。

「いいだろう」


 まだ折れてはいない。むしろ、ようやく食卓に座った顔だった。

 次は、この男に食わせる番だ。

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