第19話:高級食材は、高いまま殺されている
白冠仔羊の匂いは、厨房の奥から来ていた。
強くはない。むしろ、弱い。香辛料箱の蓋を閉じなければ、すぐに消えるような匂いだった。
だが、残っていた。
脂の奥に、青い草の匂い。獣の重さではなく、育った場所の匂い。塩気を含んだ風の中で草を食った肉は、たぶんこうなる。
俺は、肉の前に立った。
「主菜の準備を始めます」
厨房長が言った。
白冠仔羊は、すでに切り分けられ始めていた。厚い。かなり厚い。
肉の断面は悪くない。だが、厚く見せるための厚さだった。
噛むための厚さではない。火が入るための厚さでもない。皿の上で、希少な肉が希少に見えるための厚さ。
それだけで、少し嫌だった。
「その厚さで焼くのか」
「はい。白冠仔羊は、薄く切ると格が落ちます」
「格」
「希少な肉ですから。皿の上で小さく見せるわけにはいきません」
厨房長は当然のように言った。悪意はない。だから、余計に厄介だった。
香辛料箱が再び開けられる。南方の粉。乾いた花。黒い粒。油に漬けられた赤い実。
どれも悪くない。だが、今この肉の横に置くには、うるさすぎる。
「やめろ」
俺は言った。
厨房長の手が止まる。
「料理人殿。これは侯爵閣下の指定で」
「侯爵が肉を焼くのか」
「いえ」
「なら、手を止めろ」
厨房長の顔が少し赤くなった。だが、止めた。
会場の方では、まだ話し声が続いている。硝子梨の小皿を食べ切った貴族は、もう別の皿を前にしている。さっき空にしたことを、なかったことにしたいのだろう。
皿を残せる余裕。食べ切らない品位。それを守るために、また別の皿を残す。
面倒な連中だ。
「レンジ殿」
オルバン侯爵が厨房へ入ってきた。いつの間にか、会場からこちらへ来ていたらしい。香木の匂いではなく、葡萄酒の匂いを少しまとっている。
「主菜の準備に口を出されているとか」
「肉が嫌がってる」
オルバン侯爵は、ほんの少し笑った。
「食材が、ですか」
「ああ」
「面白い表現ですな。ですが、白冠仔羊には白冠仔羊にふさわしい仕立てがあります。希少な肉を、慎ましく焼くだけでは足りません」
「慎ましく焼くとは言ってない」
「では、どうなさる」
「肉に聞く」
オルバン侯爵の笑みは崩れなかった。
「あなたは、食材を擬人化しすぎる」
「お前らは、食材を身分化しすぎる」
厨房長が息を呑んだ。オルバン侯爵は黙った。だが、怒ってはいない。こちらの言葉を、ただの暴言としては処理していない顔だった。
「この肉は、高い」
オルバン侯爵が言った。
「ええ、高い。育つ環境も、輸送も、管理も、どれも容易ではありません。だからこそ、料理人にはそれを皿の上で示す責任がある」
「示す相手は誰だ」
「食べる者です」
「違う」
俺は肉を見た。
「まず、肉だ」
* * *
俺は、白冠仔羊の塊から一枚だけ切り出した。端ではない。余りでもない。中心に近い、まともな部分。
厨房長の眉が跳ねる。
「そこは主菜用の」
「だから使う」
「試し焼きに使う部分ではありません」
「試しじゃない」
俺は肉の断面を見る。脂は薄い。筋は細い。赤身に、水っぽさはない。ただ、冷えすぎている。
まず、置く。火に入れる前に、肉を待たせる。肉の表面が、厨房の空気に少し戻るまで。
厨房長が落ち着かなさそうに言った。
「冷たいまま焼かないのですか」
「焼かない」
「なぜ」
「外だけ焼けて、中が置いていかれる」
「しかし、厚く切ればそれを見せるのが」
「見せるな。食わせろ」
俺は香辛料を使わなかった。塩を少し。本当に少しだけ。強い塩ではない。肉の中にある草の匂いが逃げない程度。
油も足さない。この肉には脂がある。足せば重くなる。
火は強すぎない。最初から焼き目で黙らせる肉ではない。白冠仔羊の脂は、威張らせるとくどくなる。少しだけほどけるところで止める。
表面に薄く火が入る。脂が透明になりかける。そこで返す。
香りが立った。厨房長が、無意識に息を吸った。オルバン侯爵も、少しだけ目を細める。
会場で語られていた白冠仔羊の説明。高地の草。塩気を含んだ風。希少な仔羊。
その言葉が、ようやく匂いになった。
俺は肉を火から外した。
「もう?」
厨房長が言った。
「まだ切るな」
俺は肉を置いた。休ませる。
火から外した後の肉は、まだ終わっていない。中で熱が動く。脂が戻る。肉汁が落ち着く。
それを待たずに切れば、皿の上で肉が崩れる。
それを濃いソースで隠すなら、最初から肉を見ていないのと同じだ。
厨房長は黙っている。オルバン侯爵も黙っている。
俺は、少しだけ青みのある葉を取った。高価な香草ではない。厨房の端にあった、苦みのある葉だ。白冠仔羊が食っていた高地の草とは違うが、方向は近い。
それを細かく刻まない。潰さない。香りだけを、肉の横に置く。
肉を切る。厚くはしない。薄すぎもしない。
噛んだ時、最初に脂がほどけ、次に赤身が来て、最後に草の匂いが戻る厚さ。
皿に置く。金箔は使わない。濃縮果実のソースも使わない。南方香辛料も使わない。
塩と、肉と、青い苦み。それだけだった。
「……これが、白冠仔羊にふさわしい皿だと?」
厨房長が言った。
「少なくとも、肉を飾りにしていない」
俺は皿を持った。
「食わせる」
* * *
会場に戻ると、次の皿が並んでいた。食べられる前から残ることが決まっている皿。語られるために出された皿。札だけが先に役目を終えた皿。
俺は、オルバン侯爵の前に白冠仔羊の皿を置いた。会場がざわつく。
「主菜にはまだ早いのでは」
「これは正式な皿ではないのか」
「ソースは?」
「金箔がない」
「香辛料も見えない」
オルバン侯爵は、皿を見た。最初に肉ではなく、皿全体を見た。それから、肉を見た。最後に、青い葉を見た。
いい見方ではない。だが、見ようとはしている。
「レンジ殿」
「食え」
「これは、予定された仕立てではありません」
「予定は食えない」
「……」
「食え」
オルバン侯爵は、ナイフを取った。会場の視線が集まる。
彼は肉を切る。切り口を見た。香りを確かめる。ここまでは、美食家の動きだった。
口へ運ぶ。噛む。
最初に、脂がほどけた。重くない。舌の上に張りつかない。水のように逃げるわけでもない。
次に、赤身が来る。強い味ではない。だが、薄いわけでもない。噛むほどに、肉の中から草の青さが戻る。
最後に、塩気が少し残る。海の塩ではない。風の塩気だ。
オルバン侯爵の手が止まった。会場も止まった。
侯爵は、すぐには飲み込まなかった。たぶん、言葉を探していた。
産地。価格。希少性。認定。血統。
いつもなら、いくらでも出てくるはずの言葉が、出てこない。
皿の上で、白冠仔羊が肩書きより先に来たからだ。
「……これは」
オルバン侯爵が言った。声は、さっきより低かった。
「白冠仔羊は、こういう香りだったのか」
誰も笑わなかった。俺は、皿を見た。
「違う」
オルバン侯爵が顔を上げる。
「こういう香りだったのを、お前らが消してた」
その言葉に、料理ギルドの男が反応した。
「失礼な。白冠仔羊には、代々の仕立てが」
「代々、消してたんだろ」
「料理人殿」
オルバン侯爵が、片手を上げて止めた。ギルドの男は黙る。
オルバン侯爵は、もう一度肉を見た。皿の上には、まだ一切れ残っている。いつもの美食会なら、残してもいい。むしろ、残すことが余裕だった。
だが、彼はそれを見ていた。残すためではない。次に口へ運ぶかどうかを、考えていた。それだけで、少し変わった。
「高級食材を否定するおつもりでは、ないのですな」
オルバン侯爵が言った。
「高いものが嫌いなわけじゃない」
「では、何が」
「高いまま殺してるのが嫌いだ」
俺は、白冠仔羊を見る。
「こいつは高いから偉いんじゃない。高くなるだけの理由を、皿の上で殺されてる」
会場の空気が重くなる。セラフィナは、皿の横に置かれていた札を見ていた。そこには、白冠仔羊の説明が細かく書かれている。
彼女は小さく言った。
「札に書いてあったことが、今、味になったんですね」
俺は答えなかった。その通りだったからだ。
エドヴァルドは黙っている。だが、顔は会場ではなく、料理ギルドの男たちへ向いていた。ここで何が崩れたかを見ている顔だった。
オルバン侯爵は、皿の最後の一切れを口へ運んだ。食べ切った。
ただし、まだ敗北ではない。この男は、一皿で折れるほど浅くない。むしろ、ここから面倒になる。
オルバン侯爵は、空になった皿を見て、静かに言った。
「なるほど。料理人殿の腕は、よく分かりました」
「腕の話じゃない」
「では、何の話でしょう」
「肉の話だ」
侯爵は笑った。今度の笑いは、さっきより少し薄かった。
「それでも、この肉がここに届いたのは、認定があったからです」
来た。
オルバン侯爵は、空の皿の横に置かれた札を指で押さえた。
「高地の飼育証明。輸送温度の管理印。血統記録。王都料理ギルドの一等認定。これらがなければ、白冠仔羊は王都の食卓へ届かない。あなたが今扱った肉も、我々の制度が守った肉です」
それは、正しい。腹が立つくらい、正しい。
認定印がなければ、偽物も混ざる。輸送管理がなければ、肉は傷む。血統記録がなければ、食材は名前だけになる。制度は、全部が嘘ではない。
だから、次はそこだ。
俺は札を見た。皿は空になっている。肉は食われた。
だが、札はまだ勝った顔をしている。
「印は要る」
俺は言った。オルバン侯爵の目が、少しだけ動いた。
「だが、舌の代わりに押すものじゃない」
会場の奥で、料理ギルドの男たちが顔を強張らせた。
次は、そいつらの番だった。




