第18話:残せることを、余裕と呼ぶな
香辛料箱の蓋を閉じると、厨房長の顔が固まった。
「料理人殿」
「何だ」
「その箱は、今夜の主菜に使うものです」
「使えば肉が死ぬ」
厨房長は、すぐには答えなかった。
白冠仔羊の肉は、静かにそこにある。軽い脂。悪くない赤身。奥に残る青い草の匂い。
強い香辛料を重ねれば、たぶん一口目は派手になる。だが、その後に来るはずの草の匂いは消える。高い肉を、高そうな味にされる。それが、一番まずい。
「主菜はまだ後です」
厨房長は、押し殺した声で言った。
「まずは前菜、魚、鳥、果実、氷菓が続きます。最後に白冠仔羊を」
「多いな」
「美食会ですので」
「全部食うのか」
厨房長は、少し不思議そうな顔をした。
「まさか」
その返事が、まずかった。
「最後まで余裕を見せるのが、美食会の作法です。すべてを食べ切っては、飢えているように見えます」
「飢えているように」
「ええ。選ばれた食卓では、満腹を見せすぎないことも礼儀です」
俺は食材庫を出た。
会場の方から、笑い声が聞こえる。銀器の音、杯の音、皿が下げられる音。
香辛料箱を閉じても、別の匂いが残っていた。肉の匂いではない。腹の匂いでもない。余らせることに慣れた食卓の匂いだった。
* * *
会場に戻ると、皿が残っていた。
食べられなかった皿ではない。食べる気のなかった皿だった。
端だけ切られた鴨肉。香りだけ確かめられたスープ。中央を崩さないように残された魚。飾りのまま置かれた果実。半分以上残っているのに、誰も気にしていない皿。
給仕がそれを下げていく。誰も止めず、誰も、もったいないとは言わない。
「今夜は実に豊かですな」
貴族の一人が言った。
「すべて食べ切るのは、少々野暮というものです」
「皿を惜しむように食べるのは、空腹な者の作法でしょう」
「余らせるだけの豊かさも、美食会の趣向ですな」
笑い声が返る。俺は、下げられていく皿を見た。
救護院の食堂で、ロダンは半分残した。あれは、ここまで食べたという言葉だった。今日は、ここまででいい。体がそう言った。サエはそれを罰にしなかった。祈りで処理しなかった。次の一皿の材料にした。
ここにある皿は違う。最初から、食べる気のない残し方だった。
「レンジ殿」
オルバン侯爵が、こちらへ杯を向ける。
「厨房はお気に召しましたかな」
「食材は悪くない」
「それは何より」
「使う側がうるさい」
周囲の空気が少し固まる。オルバン侯爵は、笑みを薄くしたまま言った。
「美食は、飢えを満たすためだけのものではありません。すべてを食べ切ることに執着すれば、皿は腹の都合に従ってしまう」
半分は正しい。腹を満たすだけなら、料理でなくてもいい。量だけを押し込めばいい。
だが、こいつらの皿は逆に行きすぎている。腹から離れすぎて、食べ物からも離れている。
「余裕を残すことで、食卓は美しく終わる」
オルバン侯爵は続けた。
「満腹で皿へ縋る姿は、美食会にはふさわしくありません。残せることもまた、選ばれた食卓の品位です」
「残せることを、余裕と呼ぶのか」
「ええ」
オルバン侯爵は、当然のように頷いた。
「選ばれた者は、皿に支配されない。食欲に引きずられない。だからこそ、料理を眺め、語り、余韻を選べるのです」
俺は、下げられる魚の皿を見た。魚はまだ終わっていなかった。端を少し崩されただけで、目を伏せるように下げられていく。
「食べられない人間の残しと」
俺は言った。
「食べる気のない人間の残しを、同じ皿に置くな」
笑い声が止まった。オルバン侯爵の目が、少しだけ鋭くなる。
「同じだとは申しておりません」
「なら分けろ」
「分ける?」
「あっちは、体がここまでだと言った」
俺は、空になりかけた卓を見た。
「こっちは、格がここまででいいと言ってるだけだ」
誰かが息を呑んだ。セラフィナは黙っていた。彼女は皿ではなく、卓の上に残った札を見ている。
皿は下げられ、肉も、魚も、果実も残される。けれど、札は残る。
『北方氷室熟成』
『一等認定』
『希少種第三等級』
『昨年比価格三倍』
全部、綺麗なままだ。
「札は、全部残っていますね」
セラフィナが小さく言った。
俺は、札を見た。食材は食われていない。味も見られていない。でも、札は読まれた。肩書きは、もう食われている。
「食われたのは、そっちだな」
セラフィナは、少しだけ目を伏せた。何かを思い出している顔だった。祝福か、聖女の名か。俺には分からない。
ただ、皿の横に置かれた価値の札が、食材より先に役目を終えていることだけは分かった。
「料理人殿」
オルバン侯爵の声は、まだ穏やかだった。
「あなたは残すことを悪とおっしゃる」
「言ってない」
「では」
「残した理由を見ろと言ってる」
俺は、下げられかけていた果実の皿を指した。
「それは、食えなかったのか」
給仕が動きを止める。
皿には、薄く切られた透明な梨が並んでいた。硝子梨。季節外れに王都へ運ばれる高級果実だと、さっき誰かが話していた。薄く透ける果肉。綺麗な形。皿の上では、宝石みたいに並んでいる。
だが、ほとんど減っていない。
「硝子梨は、香りの余韻を楽しむものです」
料理ギルドの男が言った。
「すべて食べ切るような果実ではありません」
「食べる前に冷やしすぎてる」
俺は皿を取った。
「水分が閉じてる。香りが皿の上で寝てる。薄く切りすぎて、噛む前に終わる」
料理ギルドの男の顔が赤くなる。
「硝子梨は、その透明感を見せるために――」
「見せるために、食わせるところを削ったのか」
俺は皿を厨房へ持っていく。オルバン侯爵は止めなかった。
「では、その梨で何をなさるのか、見せていただきましょう」
「一口でいい」
「一口?」
「ああ」
俺は振り返らずに言った。
「残すための皿じゃない。食うための一口だ」
* * *
硝子梨は悪くなかった。悪いのは冷やし方と、切り方と、見せ方だ。
冷やしすぎて、香りが閉じている。薄く切りすぎて、歯が果肉に触れる前に舌の上で消える。皿の上では綺麗だ。だが、口の中で梨になる前に終わる。
俺は、余っていた硝子梨を一つ取った。冷やした水から出し、少しだけ温度を戻す。完全にぬるくはしない。冷たさは要る。だが、香りが立ち上がれるだけの隙間を作る。
皮は全部剥かない。薄く残す。噛んだ時、最初に当たる苦みが必要だ。
切り方も変える。透けるほど薄くはしない。厚すぎもしない。一口で噛み切れるが、噛む前に消えない厚さ。
そこに、塩をほんの少し。砂糖ではない。甘さを足すためではない。梨が持っている水分を、舌に戻すためだ。
最後に、冷たすぎない白い小皿に置く。
飾らず、並べず、一切れだけ。厨房長が、後ろで黙って見ていた。
「それだけですか」
「それだけだ」
「美食会の皿としては、あまりに」
「食えば分かる」
俺は小皿を持って、会場へ戻った。卓上では、まだ残された皿が下げられている。皿は消え、札は残る。
俺は、さっき「すべて食べ切るのは野暮」と言った貴族の前に小皿を置いた。
「食え」
貴族は顔を強張らせた。
「私が、ですか」
「残せる余裕があるんだろ」
オルバン侯爵が、静かに見ている。
貴族は小さく笑った。
「一口の果実なら、もちろん」
彼は硝子梨を口に入れた。噛む。音は小さい。
だが、変わったのは顔だった。
最初に、皮の苦みが少し触れる。次に、冷たさがほどける。水分が戻る。梨の香りが、舌の上ではなく、鼻の奥へ抜ける。
貴族の男は、すぐには飲み込まなかった。それが答えだった。
さっきまで香りの余韻を語っていた男が、今は黙って食っている。語る前に、食っている。
やがて、男は飲み込んだ。小皿は空になった。会場が静かになる。
「……これは」
男は言いかけて、黙った。
うまいと言えば下品だと思ったのか、食べ切ったと認めるのが恥だったのか。だが、皿は空だった。
オルバン侯爵が静かに笑った。
「一口の皿なら、食べ切るのは容易でしょう」
「そうだな」
俺は、卓に残された肉と魚を見た。まだ皿の上で終わっていないもの。食べられる前に、余裕の飾りにされたもの。白冠仔羊の札は、会場の奥で揺れている。
「だから次は」
俺は言った。
「残すために出された皿を食わせる」
オルバン侯爵の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
会場の奥から、白冠仔羊を焼く前の肉の匂いが、かすかに流れてきた。




