第17話:美食会は、腹ではなく格を満たす
招待状には、香りがついていた。紙そのものが厚い。端は金で縁取られ、封蝋には葡萄と銀の匙が刻まれている。開けば、甘い香木の匂いがした。食べ物の匂いではない。それだけで、少し嫌だった。
「王都美食会からだ」
エドヴァルドが言った。王宮の小さな応接室だった。
救護院の件が片づいてから数日。サエはまだ救護院で粥一号、二号、三号の手順を書き直している。マテルナ司祭は、古い木札を外したまま、食堂の祈りを続けているらしい。
それでいい。祈りを消したわけではない。粥から外しただけだ。
俺は招待状を見る。
『王宮の食卓を揺らし、救護院では粥を三つに分けたと聞き及びました。ぜひ、その慎ましい技を王都美食会にて伺いたく――』
慎ましい。その言葉は、香木の匂いより鼻についた。
「行くのか」
エドヴァルドが聞いた。
「皿があるなら行く」
「たぶん、皿より面倒なものがある」
「なら、なおさらだ」
エドヴァルドは少しだけ眉を上げた。隣で、セラフィナが招待状を見ている。
「美食会、ですか」
「知ってるのか」
「名前だけは。王都の貴族や料理ギルドの方々が集まる食の会だと聞いています。希少な食材や、新しい調理法を紹介する場所でもあるとか」
「調理法を紹介するだけなら、匂いはいらない」
「……そうですね」
セラフィナは封蝋に目を落とした。
「でも、価値を伝えるために、形を整えることはあります」
「形で味が増えるなら苦労しない」
「はい」
素直に頷くな。やりにくい。
エドヴァルドが椅子の背にもたれた。
「主催はオルバン・ガストレ侯爵だ。王都美食会の顔で、料理ギルドと食材商会にも強い。食材の知識もある。単なる派手好きではない」
「面倒そうだな」
「だから言った」
「で、皿はあるんだろ」
「ある」
「なら行く」
招待状を閉じる。香木の匂いが、指に残った。皿の前に匂うものは、たいてい皿の邪魔をする。
* * *
王都美食会の会場は、食堂というより展示場だった。
大理石の床、壁には各地の産地図。天井から吊るされた燭台は、葡萄と林檎の形をしている。長い卓には銀器が並び、白い布は雪みたいに広げられていた。
ただ、料理が出る前から、卓の上はうるさかった。皿の横に札が立っている。
『北方氷室熟成』
『王都料理ギルド一等認定』
『ガストレ侯爵家特別輸入』
『希少種第三等級』
『昨年比価格三倍』
皿より先に、札が前へ出ていた。食材が自分の匂いを出す前に、肩書きを読まされる食卓だった。
「ようこそ、レンジ殿」
声をかけてきた男は、よく整っていた。年は五十前後。淡い金髪に、細い銀の髭。指には宝石の指輪。だが、ただ飾っているわけではない。皿へ手を伸ばす時、邪魔にならない位置に収まっている。服は派手すぎない。だが高い。布も、縫い目も、歩き方も、そう言っている。
オルバン・ガストレ侯爵。王都美食会の主催者。
「王宮では肉を、救護院では粥を、それぞれ随分と率直に扱われたとか。噂は聞いております」
「噂は食えない」
オルバン侯爵は笑った。
「ええ。だからこそ、今夜は食べていただくためにお招きしました」
声は穏やかだった。俺を馬鹿にしている。だが、小物の笑い方ではなかった。
この男は、食材を知らないわけではない。むしろ知っている顔だ。それが、面倒だった。
「聖女様も、殿下も、どうぞごゆるりと。今夜は王都美食会の選りすぐりを並べております」
セラフィナは静かに一礼した。エドヴァルドは、笑わずに頷いた。
会場には貴族たちがいた。料理ギルドの上層らしい男たちもいる。食材商会の人間も混ざっている。全員、皿を見る前に札を読んでいた。
「こちらは南方香辛料を用いた白雲鴨でございます」
給仕が皿を置く。白い皿に、厚く切られた鴨肉。上には金色の粉。周囲には赤いソースが線を描いている。
香りは強い。強すぎる。鴨の脂の匂いが、香辛料の下で動けなくなっていた。
「南方香辛料ですかな」
「ええ、金貨で量る品だそうです」
「昨年は王都に三箱しか入らなかったとか」
「なるほど。香りが高いはずだ」
誰も、鴨の話をしていない。俺は一口食べた。不味い、とは言わない。肉は悪くない。火も完全に外してはいない。ソースも、作った人間が下手というわけではない。
だが、鴨が皿の上で息を詰めている。
次の皿が来る。
「北方氷室熟成の鹿肉です」
「この熟成印はガストレ家のものですな」
「一等認定です」
「さすが侯爵家の食卓だ」
俺は鹿肉を切る。刃が入る。柔らかい。だが、柔らかすぎる。熟成の香りはある。けれど、肉の奥の血の匂いまで遠くなっている。
長く眠らせたのではない。眠っていることにされた肉だ。
皿は豪華だった。だが、どの食材も、皿の上で胸を張らされている。自分の味ではなく、値段の姿勢を取らされていた。
「いかがですかな」
オルバン侯爵が聞いた。俺は答えなかった。
「よい食材には、語るべき来歴があります。どこで育ち、誰の手で運ばれ、どの印を受けたか。それもまた、美食の一部でしょう」
半分は正しい。来歴は味に乗る。育った場所も、食べたものも、運ばれ方も、切られた時間も、火に入る前の扱いも、全部味になる。
だからこそ、腹が立つ。
「来歴は味に乗る」
俺は言った。
「ええ」
「だが、味の代わりにはならない」
会場の音が、少し薄くなった。オルバン侯爵の目が細くなる。
「それは、どういう意味でしょう」
「そのままだ」
俺は皿を置いた。
「お前ら、腹じゃなくて肩書きを噛んでるな」
沈黙。銀器が触れる音だけが残った。
セラフィナが小さく息を呑む。エドヴァルドは黙っている。料理ギルドの男が眉を上げた。食材商会の人間が、皿ではなくオルバン侯爵を見る。
オルバン侯爵は笑みを消さなかった。
「手厳しい。ですが、食材の価値を語らずに食べるのは、むしろ無礼ではありませんか」
「語るなとは言ってない」
「では」
「食ってから語れ」
オルバン侯爵の指が、銀の杯の縁に触れた。
「なるほど。噂通り、率直な方だ」
「噂は食えないと言った」
「ええ。では、皿の話をしましょう」
オルバン侯爵は、卓の向こうを見渡した。
「王都美食会は、食材の価値を正しく伝える場です。希少なものには、希少である理由がある。高価なものには、高価である理由がある。それを選ばれた客の前で、最上の器と最上の形式で示す。これもまた、食材への敬意ではありませんか」
敬意。綺麗な言葉だった。食材は、綺麗な言葉でよく埋まる。
「美食とは、腹を満たすだけのものではありません。場を整え、格を与え、来歴を示し、その価値にふさわしい相手へ届けるものです」
「相手?」
「ええ。誰が食べるかも、味の一部です」
俺はオルバン侯爵を見た。この男は、食材を憎んでいない。むしろ、本当に大事にしているつもりなのだろう。だから余計に悪い。
「救護院の粥ならば、言葉を削り、形を分け、静かに口へ運ぶだけでよいのでしょう。弱った方々には、それも必要です」
オルバン侯爵は、少しだけ口元を緩めた。
「しかし、美食は違います。美食には、場があり、格があり、選ばれた者の目があります。粥を一号、二号、三号に分ける慎ましさとは、役目が違う」
会場の何人かが笑った。大きな笑いではない。上品に、短く、喉の奥だけで笑う。食堂で子どもが「今日は半分残します」と言った時とは、まるで違う音だった。
俺は、少しだけ息を吐いた。サエの粥を思い出す。ロダンが半分残した椀。子どもの「明日も三号がいいです」。感謝は消えていない。ただ、徴収できなくなっただけだ。
その皿を、この口が笑った。
「食べられない人間の皿を笑った口で」
俺は言った。
「よく食えるな」
笑いが止まった。オルバン侯爵の目から、初めて温度が消えた。
「誤解があるようです。私は救護院の仕事を否定しているのではありません。ただ、役割が違うと申し上げているのです」
「役割か」
「ええ。食べられない者には、食べられるための皿を。選ばれた食卓には、選ばれた食材を。それぞれにふさわしい料理があります」
「ふさわしい?」
「当然でしょう」
「なら、食材にもふさわしい皿がある」
オルバン侯爵は一瞬黙った。俺は続ける。
「お前らは、食材にふさわしい皿を出してるのか」
誰も答えなかった。
皿の上では、南方香辛料が鴨を押しつぶしている。氷室熟成の鹿肉は、眠らされたまま褒められている。果実は色だけで選ばれ、熟した香りを失っている。魚卵は塩気を整えられすぎて、海の匂いを忘れている。
全部、高い。全部、偉そうだ。全部、皿の上で自分の味から少しずつ遠ざけられている。
オルバン侯爵は、ゆっくりと杯を置いた。
「そこまでおっしゃるなら、料理人殿にも後ほど一皿お願いしましょう。王都美食会の食材庫は、救護院の厨房とは違いますよ」
「違うだろうな」
「お気に召すものがあればよいのですが」
「食材に聞く」
オルバン侯爵は、また少し笑った。
「面白い方だ」
面白くはない。俺は席を立った。
セラフィナも立ちかける。俺は手で止めた。
「ここで見てろ」
「……はい」
セラフィナは頷いた。その目は、皿ではなく、札を見ていた。
エドヴァルドは立たなかった。
「私はここで、彼らの顔を見ている」
「悪趣味だな」
「君ほどではない」
そうかもしれない。
* * *
美食会の厨房は、広かった。王宮厨房ほどではないが、十分すぎる。銅鍋が磨かれ、包丁は揃い、香辛料箱は整然と並べられている。食材庫には冷気を保つ魔道具まであった。救護院の厨房とは違う。だが、良い厨房かどうかは別だ。
俺は食材庫へ入った。肉が並んでいる。魚が並んでいる。果実が並んでいる。香草、香辛料、干した茸、熟成された乳製品、異国の豆。
どれも高い。どれも悪くない。それが、腹立たしかった。
悪い食材なら楽だった。腐っているなら捨てればいい。傷んでいるなら、そう言えばいい。扱えない食材なら、扱うなと言えばいい。
だが、ここにあるものは違う。食材はまだ生きている。生きているのに、皿の上へ運ばれる前から、肩書きに縛られている。
「こちらは、今夜の主菜用です」
厨房長らしい男が、奥の棚を開いた。白い脂を薄くまとった仔羊の肉があった。札には、白冠仔羊と書かれている。
「高地の草を食べ、塩気を含んだ風の中で育つ希少な仔羊です。ガストレ侯爵家が今年ようやく三頭分を押さえました」
その説明は、会場で何度も聞いた。たぶん、この後も何度も聞かされるのだろう。
俺は肉を見る。説明より静かだった。脂は軽い。白いが、重くない。赤身の色も悪くない。香りの奥に、青い草の匂いがほんの少し残っている。強い匂いではない。近づかなければ逃げる。香辛料を重ねれば、すぐ消える。
「これは、どのように」
俺が聞くと、厨房長は少し得意げに答えた。
「厚く切り、表面を強く焼き、南方香辛料と濃縮果実のソースで仕上げます。仕上げに金箔を。白冠仔羊の格にふさわしい皿に」
格。また、それだ。
「厚く切るのか」
「はい。希少な肉ですから。薄く切っては貧相に見えます」
「香辛料も使う」
「もちろんです。白冠仔羊に負けない香りが必要です」
「負けない?」
「高級食材には、高級な香りを合わせませんと」
俺は、白冠仔羊を見た。いい肉だった。それが、腹立たしかった。高いからではない。高くなるだけの理由が、ちゃんと肉の中にあったからだ。
この肉は、厚さを見せたいわけではない。香辛料に勝ちたいわけでもない。金箔を乗せられたいわけでもない。噛んだ時、軽い脂がほどける。その後に、草の青さが戻る。たぶん、最後に乳の甘さが少し残る。
それを、こいつらは全部、格で覆うつもりでいる。
「高いから偉いんじゃない」
俺は言った。
厨房長が、少し顔を上げる。
「高くなるだけの理由が、肉の中に残ってる」
会場の方では、まだ誰かが産地と値段を語っていた。白冠仔羊の名を、食べる前から褒めている。誰も、この匂いを見ていない。
「料理人殿」
厨房長が、少し硬い声で言った。
「主菜の手順は、すでに決まっております。侯爵閣下も、それをお望みです」
「そうか」
「はい」
「なら、先に食わせろ」
「何を」
「肩書きを噛んでる口に」
俺は、白冠仔羊を見た。
「肉を食わせる」
厨房の奥で、香辛料箱の蓋が開いた。強い匂いが流れてくる。
俺はそれを閉じた。まずはそこからだ。




