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第16話:レシピから、感謝の一行を消す

 サエのレシピ帳は、汚れていた。油染みではない。香辛料の粉でもない。粥の飛んだ跡と、水の跡と、何度も濡れた指でめくられた紙の歪みだ。いい帳面だった。綺麗な帳面は信用しない。料理の現場で使われるものは、汚れる。濡れる。角が折れる。書き直される。使われていない帳面だけが、いつまでも綺麗な顔をしている。


 サエは厨房の作業台に、その帳面を置いた。

「これが、最初のレシピです」

 彼女はそう言って、古いページを開いた。


『粥 一号』

『飲み込み困難者用』

『穀粒を残さない』

『香りは口中に入れない』

『温度は、恐怖を起こさない範囲』


 次のページ。

『粥 二号』

『舌でほどける程度』

『噛ませない』

『食べている感覚を残す』


 さらに次のページ。

『粥 三号』

『回復期』

『粒をわずかに残す』

『食事へ戻るための段階』


 字は細かい。余白には、その日の失敗が書かれている。

『ロダン、二号で顔を背ける。一号へ戻す』

『薬草布、洗浄不足。匂い残り。使用不可』

『子ども、二号で二口目あり。量は少なく』


 悪くない。いや、かなりいい。食べられなかった記録が、料理の中へ戻っている。

「昨日の夜、書き直しました」

 サエは言った。目の下の隈は濃くなっていた。寝ていない顔だ。だが、目は昨日より少しだけ軽い。

「それは見れば分かる」

「褒めていますか」

「褒めてない」

「でしょうね」


 サエは、そこで帳面の後ろの方を開いた。そこから、紙の質が変わった。厚い。綺麗すぎる紙だ。インクも揃っている。字も整っている。厨房で書かれた字ではない。サエの字ではなかった。

「これは?」

「救護院で運用する時に、足された項目です」

 サエの声は平らだった。


 俺は紙を見る。

『慈悲の粥 配膳運用』

『食前、女神への感謝を唱和させること』

『食後、慈悲への謝意を記録すること』

『残食が見られた場合、信仰指導の対象とすること』

『不満・選り好みは回復を乱す兆候として扱うこと』


 厨房の音が、遠くなった。木匙の音も、鍋の泡も、湯気が上がる音も。全部、少し遠くなった。

「なるほどな」

 俺は言った。


「お前の粥に、余計な味が混ざってる」


 サエは何も言わない。その紙を見ている。昨日までなら、きっと見ていなかった。いや、目には入っていたのだろう。だが、料理の外に置いていた。配膳運用。教会の決まり。祈り。感謝。信仰指導。全部、皿の外だと思っていた。

「私が作ったのは、粥です」

 サエは言った。

「そうだな」

「この紙は、私が書いたものではありません」

「そうだな」

「でも」


 彼女は、指で紙の端を押さえた。

「この紙が挟まっている帳面を、私は毎日使っていました」

 俺は黙った。

「見ていないことにしていました」


 サエの声は震えていない。泣かない。謝らない。崩れない。それでいい。料理人が皿の前で崩れても、誰も食えない。

「レンジ」

「何だ」

「昨日、あなたは言いました。私が楽をしていた、と」

「言ったな」

「はい」


 サエは、厚い紙を見下ろした。

「楽でした」


 短い言葉だった。

「食べられなかった理由を、信仰に渡せばよかった。残した理由を、感謝の不足にできた。何も言わない人を、満足していることにできた」


 彼女の指が、紙の上で止まる。

「楽でした」


 二度目は、少しだけ重かった。俺は言った。

「消せ」

 サエがこちらを見る。

「命令ですか」

「違う」

「では」

「皿で決まった」


 サエは、少しだけ息を吐いた。

「便利な言葉ですね」

「料理人だからな」

「料理人は、本当にずるい」

「たぶんな」


 サエはペンを取った。その時、厨房の入口にマテルナ司祭が立っていた。

「それは、院の正式な運用文です」

 声は穏やかだった。だが、昨日までの柔らかさはない。マテルナ司祭は作業台へ近づく。

「サエさん。勝手に消してよいものではありません」

「勝手ではありません」

「誰の許可を得ましたか」


 サエは少し黙った。そして、帳面を閉じなかった。

「食べた人の言葉を聞きました」

 マテルナ司祭の目が、細くなる。

「それは許可ではありません」

「はい」

「では」


「でも、料理を直す理由にはなります」


 マテルナ司祭は答えなかった。サエは、紙の一行に線を引いた。


『食後、慈悲への謝意を記録すること』


 その行を、消す。次に、


『残食が見られた場合、信仰指導の対象とすること』


 それも消す。ペン先が紙をこする音が、厨房に響いた。大きな音ではない。それでも、昨日までの「ありがとうございます」より、ずっとはっきり聞こえた。

 サエは、余白に書いた。


『食後の言葉を求めない』

『残食は、次回調整の記録とする』

『食べられなかった理由を、信仰ではなく調理に戻す』


 マテルナ司祭の顔から、色が引いた。

「サエさん」

「はい」

「それでは、食事から祈りが消えます」

「消えません」

 サエは言った。


「粥から外します」


 マテルナ司祭が息を呑む。

「祈りは祈りとして残せばいい。粥の中に混ぜないでください」


 いい返事だった。俺が言うより、ずっといい。

 マテルナ司祭は、しばらくサエを見ていた。やがて、静かに言った。

「その運用文は、私が勝手に作ったものではありません」

 サエの手が止まる。マテルナ司祭は続けた。

「教会本部から、慈悲事業の標準運用として送られてきたものです。救護院の食事は、ただ食べさせればよいものではない。慈悲を受けた者が、感謝を覚え、祈りへ戻ることまでを含めて救護である、と」


 そうか。やはり、この女だけではない。マテルナ司祭は悪人ではない。いや、悪くないという意味ではない。ただ、彼女もまた、自分の口で同じ返事を返していたのだ。教会本部の言葉を。慈悲の運用を。感謝の記録を。そのまま、食堂へ流していた。

「私は、それに従いました」

 マテルナ司祭は言った。

「従えば、救護院は支援を受けられる。粥の材料も、薬草も、寝台も、布も届きます。感謝の記録が整えば、救護院は慈悲事業として認められる」


 サエが顔を上げる。

「感謝の記録で、粥の材料が来るんですか」

「そうです」

 マテルナ司祭は答えた。

「慈悲は、報告されなければ続きません」


 静かな言葉だった。綺麗な言葉だった。綺麗すぎて、味がしなかった。

「レンジ」

 セラフィナが、後ろで小さく呼んだ。彼女はいつの間にか厨房にいた。エドヴァルドもいる。王族は黙って帳面を見ていた。

「なるほど」

 エドヴァルドが言った。

「昨日は、私の見解だった」

 彼はマテルナ司祭を見る。


「今日は、王宮の記録として扱う」


 マテルナ司祭の顔が、わずかに強張る。

「殿下」

「救護院の食事が、感謝記録を前提に支援されているなら、王宮も確認する必要がある」

「教会の慈悲事業に、王宮が介入なさるのですか」

「食事に、だ」

 エドヴァルドの声は低かった。

「祈りにではない」


 その一言で、厨房の空気が変わった。

「昨日、私は言った。目を覚ませば立てる者ばかりではない、と」

 エドヴァルドは、サエの帳面を見る。

「なら、立てない者には、立てないまま食べられる段階が必要だ。これは昨日の私個人の判断だった」

 彼は続けた。


「今日から、王宮記録では、これを慈悲料理ではなく、回復食として扱う」


 マテルナ司祭が唇を結んだ。

「慈悲では、ないと」

「慈悲かどうかは、祈りの場で扱え」

 エドヴァルドは言った。

「献立には、食べられる段階を書く」


 いい王族の顔だった。嫌になるくらい。

 俺は、帳面を見る。慈悲の粥。その名前が、ページの上でまだ生きている。

「レンジ」

 サエが言った。

「何だ」

「この名前は、どうしますか」

「俺に聞くな」

「では、皿に聞けと?」

「そうだ」

 サエは少し笑った。マテルナ司祭は笑わない。


* * *


 昼の食堂には、三つの小鍋が並んでいた。昨日までは、大鍋が一つだった。今日は違う。小鍋には、まだ仮の木札が立てられている。


『粥 一号』

『粥 二号』

『粥 三号』


 慈悲、という字はない。

 マテルナ司祭は、食堂の奥に立っていた。修道女たちはいつもより動きが遅い。何を言えばいいのか、分からないのだろう。

 食事の前に、マテルナ司祭が祈りを唱えた。

「女神の慈悲に、感謝を」


 それは残った。俺は消せとは言っていない。サエも消していない。セラフィナも、祈りを否定していない。だが、祈りが終わった後、すぐに配膳は始まらなかった。

 サエが前に出た。

「今日から、食べた後の言葉は求めません」


 食堂の空気が、揺れた。

「残しても、信仰指導にはしません」

 老人ロダンが、少しだけ顔を上げる。

「食べられなかったら、教えてください。言えなければ、残した椀を見ます。次の調整に使います」


 サエは、そこで少しだけ息を吸った。

「食べられなかったことを、あなた方のせいにしません」


 食堂が静かになった。昨日までと同じ静けさではない。誰かが言葉を探している静けさだった。

 配膳が始まる。ロダンには一号。昨日の子どもには三号を少量。巡礼者には二号。兵士にも二号。寝台の女には一号を少しだけ冷ましたもの。

 食べる音が、食堂に広がる。小さい音だ。だが、昨日までより少しだけ、ばらばらだった。

 ロダンが一号を半分ほど食べて、手を止めた。修道女が、反射的に近づく。

「ロダンさん、どうされました」

 老人は椀を見た。長い時間をかけて、言った。

「今日は」

 声はかすれている。

「半分、残します」

 食堂の誰もが、ロダンを見た。残します。その言葉は、昨日までなら食堂に存在しなかった。マテルナ司祭の指が、袖の中で動く。サエが近づいた。

「苦しいですか」

「苦しくはない」

「匂いですか」

「違う」

「では」

「疲れた」


 ロダンは、椀を両手で持ったまま言った。

「今日は、ここまででいい」

 サエは頷いた。

「分かりました」


 それだけだった。叱らない。励まさない。感謝を促さない。サエは帳面に書いた。

『ロダン。一号。半分で終了。苦痛なし。疲労。次回量を減らす』

 信仰指導、とは書かなかった。


 その瞬間、マテルナ司祭の顔が少しだけ歪んだ。

 老人が半分残した。罰されなかった。祈りで処理されなかった。料理人の記録になった。

 残された粥は、信仰の不足ではなく、次の一皿の材料になった。


 食堂の端で、子どもが三号を食べていた。一口。二口。少し考えてから、サエを呼ぶ。

「明日は」

 自分から言った。誰も聞いていないのに。

「明日は、もう少しだけ、噛める方がいいです」


 サエが頷く。

「量は同じでいいですか」

「少しだけ」

「分かりました」


 帳面に書く。

『子ども。三号。次回、粒をわずかに増やす。量は少量』


 巡礼者は、食べ終えてから言った。

「昨日くらいの匂いなら、大丈夫です」

 兵士は言った。

「今日は、食った気がした」

 寝台の女は、半分残した。理由は言えなかった。サエは、残った粥の固さと温度を見て、帳面に書いた。

『女。半分残し。理由不明。次回、温度を下げる。量も減らす』


 食堂に、言葉が増えていく。ばらばらだった。揃っていない。綺麗でもない。祈りのように整ってもいない。でも、食卓の言葉だった。

 マテルナ司祭が、静かに言った。

「感謝の言葉が、減りましたね」


 サエの手が止まる。セラフィナが顔を上げた。だが、答えたのは俺だった。

「減ってない」

 マテルナ司祭がこちらを見る。


「揃わなくなっただけだ」


 食堂の奥で、子どもが椀を両手で持ち、少し迷ってから言った。

「ごちそうさまでした」

 巡礼者は言った。

「食べられました」

 兵士は言った。

「明日も二号で頼む」

 ロダンは、半分残した椀を見て、小さく言った。

「今日は、ここまで」


 それから、しばらくして。誰かが言った。

「ありがとうございます」

 一人だけではなかった。何人かが言った。だが、それはもう同じ音ではなかった。


 ごちそうさまの後に出た、ありがとう。

 残しますの後に出た、ありがとう。

 明日もこれがいいの後に出た、ありがとう。


 それは、決まり文句ではなかった。

 マテルナ司祭は、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。言わなかったのかもしれない。どちらでもよかった。

 彼女は、食堂を一つの言葉でまとめることを失った。


* * *


 食後、掲示板の前に人が集まった。そこには、昨日まで大きな木札がかかっていた。


『慈悲の粥』


 サエが、その札を外した。木札は軽い音を立てて、彼女の手の中に落ちる。マテルナ司祭が、その音を聞いていた。

「その名を外せば、救護院の支援は減るかもしれません」

 彼女は言った。脅しではなかった。事実なのだろう。

「慈悲事業として報告できなければ、教会本部は渋るでしょう」


 エドヴァルドが前へ出る。

「王宮記録へ回す」

「殿下」

「食事として必要なものは、食事として支える。祈りの記録ではなく、回復の記録で判断する」


 マテルナ司祭は、長く沈黙した。

「……教会は、慈悲を失うのでしょうか」

 セラフィナが答えた。


「失うのは、慈悲ではありません」


 彼女は、外された木札を見る。

「慈悲という名前で、聞かずに済ませていたものです」


 マテルナ司祭はセラフィナを見る。聖女と司祭。どちらも、祈りの側にいる人間だ。セラフィナは続けた。

「私も、祝福を慈悲と呼ぶ時は気をつけます。祝福した後に、何が残ったかを聞かないなら、私も同じことをします」


 それだけでよかった。

 セラフィナは、それ以上、この場で言葉を足さなかった。

 サエは、新しい札をかけた。


『回復食』

『粥 一号』

『粥 二号』

『粥 三号』


 味気ない札だった。でも、食べる人間の状態は見える。俺はそれでいい、と思った。

「レンジ」

 サエが言った。

「何だ」

「これで、慈悲ではなくなりましたか」

「知らない」

「知らない?」

「慈悲かどうかは、皿が決めることじゃない」


 俺は新しい札を見る。

「でも、少なくとも、献立に書くことじゃない」


 サエは、小さく頷いた。マテルナ司祭が、古い木札を見ている。慈悲の粥。その文字は、まだ綺麗だった。削れていない。割れてもいない。ただ、外された。

 俺はマテルナ司祭へ言った。

「感謝は消えてない」

 彼女が顔を上げる。


「ただ、徴収できなくなっただけだ」


 マテルナ司祭は、何も言わなかった。怒鳴らない。泣かない。膝をつかない。ただ、食堂から返ってくる言葉を、一つにまとめられなくなった。それで十分だった。

 サエは古い札を裏返し、棚の端に置いた。捨てはしない。燃やしもしない。次に同じ間違いをしないための、古い札だ。


 食堂の方から、子どもの声が聞こえた。

「明日も、三号がいいです」

 誰かが笑った。小さな笑いだった。修道女の一人が、少し慌ててから、帳面に書いた。

 明日も、三号。


 それは祈りではなかった。感謝でもなかった。でも、食べる人間の言葉だった。

 俺は厨房の方へ歩き出した。

「どこへ」

 サエが聞く。

「腹が減った」

「救護院の食事を食べますか」

「食べない」

「なぜですか」

「俺は回復中じゃない」


 サエが、今日初めて少し笑った。

「では、何を」

「魚があれば焼く」

「ここは救護院です。魚はありません」

「使えない厨房だな」

「あなた向けの厨房ではありません」

「知ってる」


 それでも、少しだけ腹が減っていた。

 食堂には、同じ言葉が積もっていなかった。ごちそうさま。明日は三号。今日は半分。これは食べられた。ありがとうございます。ばらばらの言葉が、粥の湯気と一緒に上がっていた。


 それでいい。皿は、人の口を一つに揃えるためにあるんじゃない。食べた後、それぞれの言葉が返ってくるなら。

 その粥は、少なくとももう、慈悲のふりをした沈黙ではなかった。

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