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第2話:王宮料理長、そのソースは伝統ではなく惰性だ

 翌日の王宮晩餐会で、俺は雑役ではなくなっていた。

 王太子エドヴァルドの命令により、厨房の端に一台の調理台が与えられた。


 ただし、正式な料理人ではない。扱いとしては、見世物に近い。

 王宮料理長オルディスが用意する伝統料理と、俺の皿を並べる。王族と貴族の前で、どちらが晩餐にふさわしいかを見る。ずいぶん上品な処刑台だと思った。


「逃げ出さなかったことだけは褒めてやろう」


 オルディスが、俺の横を通りながら言った。白い口髭は昨日より整えられている。

 料理長の正装に、銀の飾り鎖。胸元には王宮料理人の証である小さな鍋型の徽章。皿の上では邪魔なものばかりだ。


「逃げる理由がない」

「昨日のスープで、調子に乗ったか」

「昨日のスープで調子に乗ったのは、お前たちの方だろ」

「何?」

「祝福がなければ味がないものを、神の味と呼んでいた」


 オルディスの顔に怒りが走る。だが、今日はすぐ怒鳴らなかった。

 王太子も、貴族も、神官もいる。料理長としての品格を保つつもりなのだろう。その品格も、皿には乗らない。


「本日の主菜は、王宮伝統の銀角鹿である」


 オルディスが高らかに宣言した。下働きたちが、銀の盆に肉を載せて運んでくる。

 銀角鹿。王家の狩猟地でのみ獲れる、淡い銀色の角を持つ鹿だという。

 肉は赤みが強く、脂は少ない。香りは深い。血抜きは悪くない。熟成は浅いが、素材はいい。かなりいい。


 ただし、横に置かれたソースを見た瞬間、俺は顔をしかめた。

 黒い。濃い紫に近い黒。

 葡萄酒、黒蜜、香草、香辛料、獣脂、血、焦がし小麦。おそらくそのあたりを長時間煮詰めたものだ。香りは重い。


 肉を支えるのではなく、肉を塗り潰す香りだった。


「王宮に三百年伝わる、黒冠ソースだ」


 オルディスは誇らしげだった。

「初代料理長が、建国王へ捧げた栄光の味。銀角鹿の高貴な赤身を、この深きソースで包む。これぞ王宮料理の真髄である」


 周囲の料理人たちが頷く。俺は肉を見た。

 銀角鹿の赤身は、静かに光っている。その横で、黒冠ソースが濁った沼みたいに沈んでいる。もったいない。あまりにも、もったいない。


「おい、雑役」

 オルディスが俺を見る。

「貴様の皿も、同じ銀角鹿を使え。だが黒冠ソースは使わせん。あれは王宮料理長のみが扱える秘伝だ」

「いらない」

「負け惜しみか」


「食材を隠す泥は、皿に乗せない」


 一瞬、厨房の音が消えた。

「……泥?」

「泥だ」


 俺は銀角鹿の肉を受け取った。

「この肉は、香りがいい。赤身の酸味もある。脂が少ないなら、火入れと余韻で食わせる肉だ。なのに、あのソースは全部潰す。肉を食わせたいのか、伝統を舐めさせたいのか、どっちだ」


 オルディスの手が震えた。

「無礼者が……黒冠ソースは王家の味だぞ!」

「王家の味なら、肉を殺しても許されるのか」

「貴様!」


「伝統って言えば、昨日の失敗が今日も許されると思うな」


 近くの若い料理人が、息を呑んだ。


 俺は肉に触れる。冷たい。中心温度が低すぎる。焼く前に少し戻す必要がある。

「火を入れる前に、肉を起こす」

「肉を、起こす?」

 誰かが呟いた。


 俺は銀角鹿の表面に薄く雪塩を振った。強くない。血の香りを立たせる分だけ。

 それから、月橙という小さな果実の皮を削る。酸味が強く、香りは柑橘に近い。果汁ではなく皮を使う。肉に直接触れさせない。油に香りを移す。


 鍋に獣脂を少しだけ落とし、低い火で溶かす。そこに、月橙の皮。森胡椒。聖草の花だけを一粒。

 香りが立つ。黒冠ソースの重い匂いを、細い刃で裂くような香りだった。


 オルディスが眉をひそめる。

「そんな軽い香りで、銀角鹿を受け止められるものか」

「受け止めるんじゃない」


 俺は肉を焼き台に乗せた。

「通すんだよ」


 肉の表面に火が触れる。強火で一気に焼き固めたいところだが、この肉はそれでは硬くなる。

 表面に色をつけ、すぐに火から外す。休ませる。

 また戻す。

 また外す。

 焦らない。


 王宮料理人たちがざわつく。

「焼いているのか、止めているのか……」

「中途半端だ」

「いや、香りが……」


 銀角鹿の表面がゆっくりと色づく。肉汁を閉じ込める、などという雑な話ではない。

 肉汁は閉じ込めるものじゃない。逃げたいものは逃げる。なら、逃げた分も皿の中で拾えばいい。焼き台の下に落ちた肉汁を、小鍋で受ける。


 そこへ、焦がした月根菜の小片を入れる。甘さ。香ばしさ。そこにほんの少し、酸味の強い赤葡萄酢。

 煮詰めない。黒冠ソースのように、すべてを同じ重さに沈めない。最後に、香りを移した脂を一筋だけ入れて、揺らす。


 乳化させすぎない。皿の上で、肉と混ざる余地を残す。

「ソースではないのか?」

 若い料理人が小さく言った。

「ソースだ」


 俺は肉を切る。中は赤い。ただの生焼けではない。熱は届いている。赤身の色が、まだ生きている。

「肉の邪魔をしないソースだ」


 銀の皿に、薄く切った銀角鹿を並べる。上からかけない。

 皿の底に、月根菜と肉汁のソースを薄く敷く。肉はその上に置く。食べる者が、切った時に初めて触れる程度でいい。

 仕上げに、雪塩を一粒。月橙の皮を、香りだけ。完成だ。


 オルディスの皿も、完成していた。厚く焼かれた銀角鹿。その上に、黒冠ソースが惜しげもなくかけられている。

 見た目は重厚だ。王宮の歴史を食えと言わんばかりの皿。肉の顔は、見えない。


 晩餐会場へ運ばれる。俺は料理人の列の末席に立たされた。

 王太子エドヴァルドが中央に座り、隣に聖女セラフィナ。その向こうに王妃、神官長、貴族たち。


 オルディスは自らの皿を説明した。

「銀角鹿の王宮風。黒冠ソースでございます。三百年の伝統を、今宵も変わらぬ形で」


 拍手が起きる。貴族たちは安心した顔をしている。伝統は、食べる前から人を満足させる。便利な味だ。


 次に、俺の皿が置かれた。王太子が見た。

「名は」

「銀角鹿の火入れ。月根菜と肉汁のソース」

「地味だな」

「皿は名前で食うものじゃない」


 神官長が眉をひそめた。王太子は笑った。

「では、食べよう」


 まず、オルディスの皿。王太子は肉を切り、口に運ぶ。貴族たちも続く。

「懐かしい味だ」

 神官長が言った。

「これぞ王宮の晩餐」

 別の貴族が頷く。

「重厚で、気品がある」


 オルディスの顔に、勝ち誇った色が浮かぶ。俺は黙っていた。

 懐かしい。王宮らしい。重厚。気品。


 誰も、肉の味を言っていない。


 次に、俺の皿。王太子が肉を切る。ナイフがすっと入った。口に運ぶ。

 場が、静かになった。


 王太子の表情は変わらない。だが、咀嚼が遅くなった。肉を噛む。赤身の香りが出る。月根菜の甘さが、後ろから支える。肉汁のソースが、舌の上で初めて混ざる。月橙の香りが、最後に抜ける。


 彼は、飲み込んだ。


「……銀角鹿は、こういう味だったのか」


 それで終わりだった。貴族たちの顔が変わる。

 一人が、急いで俺の皿を食べた。そして、自分の前に置かれた黒冠ソースの皿を見た。もう一度、俺の皿へ手を伸ばす。


 オルディスの顔から色が消えた。

「そんなはずはない……」


 彼は自分の皿を食べる。次に、俺の皿を食べる。そして、何も言えなくなった。

「どうした、料理長」

 王太子が穏やかに聞く。

「三百年の伝統だろう」


 オルディスの唇が震えた。

「……黒冠ソースは」

「うん」

「銀角鹿の、香りを……」


 そこで止まった。自分で言うのが怖いのだろう。俺が代わりに言ってやる。


「殺している」


 会場の端で、誰かが息を呑んだ。オルディスが俺を睨む。だが、反論は出ない。

 セラフィナが、俺の皿を小さく口に運んだ。昨日より、顔色は落ち着いている。

「……祝福がなくても、温かいだけではないのですね」

「昨日も言った」

 俺は答えた。

「それが料理だ」


 王太子は、静かにナイフを置いた。

「オルディス」

「は……」

「明日から、黒冠ソースの使用を禁じる」


 会場がざわめいた。

「殿下!」

「ただし、廃止ではない」

 王太子は俺を見る。

「三百年の伝統だ。殺すには惜しい。だが、このまま食わせるには重すぎる。作り直せ」


 オルディスは、膝をつきかけた。だが踏みとどまった。

「……この者に、ですか」

「違う」

 王太子は言った。

「お前がだ」


 オルディスの目が見開かれる。

「この雑役に負けたまま、王宮料理長でいるつもりか」


 沈黙。俺は皿を見ていた。まだ肉が少し残っている。冷める。だから言った。


「伝統を守りたいなら、味を見ろ」


 オルディスが俺を見る。

「三百年同じ味だったんじゃない。三百年、誰も疑わなかっただけだ」


 その夜、黒冠ソースは王宮晩餐の席から下げられた。公式には、改良のための一時停止。貴族たちは「さらなる高みのため」と言った。神官たちは「王太子殿下の深慮」と言った。


 誰も、負けたとは言わなかった。

 だが、王宮料理長オルディスは、その夜から黒冠ソースの鍋の前で味見を始めた。


 三百年の伝統という看板は、まだ壁にかかっている。けれど、少し傾いた。

 俺は厨房の隅で、残った銀角鹿の骨を拾った。まだ使える。


 食材は、権威より正直だ。

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