第1話:聖女の祝福料理? 食材に謝れ
神の味と呼ばれたスープを、俺は吐き出しそうになった。
王宮厨房の奥、銀の大鍋から立ちのぼる湯気は白い。香りも、白い。悪い意味で。
白羽鳥の骨。
月根菜。
聖草。
光豆。
雪塩。
祝福水。
素材だけ見れば、悪くない。むしろ上等だ。前世の厨房なら、仕込みの段階で全員が少し黙るくらいには、使い道のある材料だった。
だが、鍋の中で死んでいた。
火は弱すぎる。骨から旨味は出ていない。聖草の青臭さだけが浮いている。月根菜は甘さを出す前に煮崩れ、光豆はただ濁りになっている。雪塩は、神聖さとやらに遠慮して、味の中心まで届いていない。
それを、王宮料理長オルディスは恭しく銀の匙で掬った。
「これが、聖女セラフィナ様の祝福を受けた白祝の聖餐スープだ」
周囲の料理人たちが、息を呑む。俺は、もう一度だけ鍋を見た。
ひどい。
食材がかわいそうだった。
「レンジ」
隣にいた下働き頭が、俺の肘を小突く。
「余計なことを言うなよ。今日は王太子殿下の快癒祝いだ。聖女様の料理に文句なんかつけたら、首が飛ぶぞ」
「首より、舌の方が心配だ」
「は?」
俺は、味見用の小匙を取った。下働き頭が止めるより早く、白いスープを口に含む。
温かい。魔力が、舌の上を撫でる。なるほど。これが祝福か。舌の表面が、ふわりと軽くなる。喉が温まり、胸の奥に柔らかな光が落ちる。疲労が薄れる。腹の底に、何かありがたいものが沈んだような気になる。
そのあとに、味が来る。
いや。
来なかった。
「まずい」
厨房の空気が止まった。誰かが包丁を落とした。銀の床に、乾いた音が響く。
料理長オルディスが振り返る。白い口髭が、怒りで震えていた。
「今、何と言った」
「まずい、と言った」
「貴様……!」
「正確には、味がない」
俺は空の小匙を置いた。
「祝福で舌を撫でて、出汁のなさを誤魔化しているだけだ。この食材は、まだ一度も料理されていない」
次の瞬間、厨房の扉が開いた。白い衣装の少女が立っていた。聖女セラフィナ。まだ十六、七だろう。淡い金髪に、薄青い瞳。両手は胸の前で重ねられている。指先だけが、少し震えていた。
その後ろに、王太子エドヴァルド。さらに神官、近衛、貴族たちの姿。最悪の客入りだった。
「……今の言葉は、本当ですか」
セラフィナが言った。声は静かだった。怒っているというより、信じられないものを聞いた顔だ。
オルディスが慌てて頭を下げる。
「聖女様、殿下、申し訳ございません! この者は厨房の雑役でして、礼儀も味も知らぬ者です。ただちに――」
「本当か、と聞きました」
セラフィナの視線が俺に向く。俺はもう一度、鍋を見た。白い湯気。死んだ香り。祝福だけで立っている皿。
「本当だ」
王太子エドヴァルドの眉が動いた。
「聖女の祝福料理に、雑役が文句をつけるか」
「祝福には文句をつけていない」
「では、何に文句をつけている」
「料理に」
厨房が、また凍った。俺は鍋の横に積まれた素材を指す。
「白羽鳥の骨は煮立てるだけじゃだめだ。月根菜は甘さを出す前に溶かしている。聖草は苦味を油に逃がしていない。光豆は潰し方が荒い。雪塩は飾りか。味の中心に触れていない」
「き、貴様……!」
オルディスが赤くなる。俺は続けた。
「聖餐だから薄いんじゃない。下手だから薄いんだ」
誰かが息を呑んだ。近衛が一歩前に出る。だが、王太子が片手を上げた。
「面白い」
面白くはない。食材は死んでいる。俺は笑っていなかった。
「ならば、作れるのか」
「作れる」
「聖女の祝福なしで?」
「むしろ、ない方がいい」
セラフィナの瞳が揺れた。王太子が笑う。貴族たちは、ざわついた。
「よい。作らせてみろ」
「殿下!」
オルディスが声を荒げる。
「聖餐会の場で、雑役の料理など――」
「聖女の料理をまずいと言ったのだ。ならば、口だけかどうか見ればいい」
王太子は俺を見た。
「ただし、同じ食材を使え。異国の香辛料も、秘薬も、魔法もなしだ」
「いらない」
俺は袖をまくった。
「捨てる予定だった部分を使う」
「捨てる予定?」
俺は、鍋の横の木箱を指した。
白羽鳥から削いだあとの骨。月根菜の皮と端。聖草の茎。光豆の薄皮。飾りに使うには形が悪いと除けられた小さな実。下働きが、ゴミとして片づける予定だったものだ。
オルディスの顔が歪む。
「残飯で聖餐を作るつもりか!」
「残飯じゃない」
俺は白羽鳥の骨を手に取る。
「お前が味を捨てただけだ」
鍋を一つ借りる。いや、奪った。
まず骨を焼く。白い骨の表面に、薄く色がつくまで。強すぎる火ではない。焦がすのではなく、香りを起こす。脂が滲む。厨房に、さっきまでなかった香ばしさが立ち始めた。
月根菜の皮と端も焼く。切り口が薄く色づき、甘い匂いが出る。焦げる一歩手前。そこで止める。
聖草は刻まず、茎だけを潰す。青臭さが出る前に、温めた鳥脂へ落とす。油が、草の香りを抱く。
「何をしている……」
オルディスが呻いた。
「香りを移している」
「聖草は清浄の象徴だぞ。油に沈めるなど」
「象徴で腹は満ちない」
骨と根菜を鍋に入れる。水を注ぐ。煮立てない。泡が立つ寸前の火で、じっと待つ。
この世界の火は荒い。魔石炉は便利だが、火加減を力任せにする料理人が多い。熱いなら早い。強いなら偉い。そんな考えで、食材を殺す。
俺は鍋を見た。白羽鳥の骨から、静かに味が出る。月根菜の甘さが沈む。光豆を潰し、少しずつ混ぜる。濁らせない。とろみだけを借りる。雪塩を入れる。今度は飾りではなく、味の背骨として。最後に、酸味のある星果を一滴だけ絞る。
厨房の空気が変わった。誰かが唾を飲んだ。神官が、慌てて口元を押さえる。
皿に注ぐ。白い。だが、さっきの白とは違う。白祝ではない。白羽鳥と月根菜の色だ。
俺は銀の皿を王太子の前に置いた。
「食え」
近衛が剣に手をかけた。
「無礼者!」
「皿の前で肩書きを振るな。冷める」
王太子は、剣を抜きかけた近衛を手で制した。
「……いい」
彼は匙を取った。
その場にいた全員が、王太子の手元を見る。セラフィナも見ていた。オルディスも。神官も。貴族たちも。
王太子が一口、スープを飲む。表情は変わらなかった。
だが、喉が動いた。次に、もう一口飲んだ。
それだけで十分だった。
聖女の祝福料理は、一口で祈りを語らせる。だが、俺のスープは、王太子に二口目を飲ませた。貴族たちがざわめく。
「殿下……?」
セラフィナが小さく呼ぶ。
王太子は、聖女の白祝スープの皿を見た。それから、俺の皿を見た。もう一度、俺の皿を口に運んだ。
セラフィナの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「……祝福は、入っていないのですか」
「入っていない」
「でも、体が温かい」
「温かいものを飲んだからだ」
俺は言った。
「それが料理だ」
セラフィナは何かを言いかけて、口を閉じた。オルディスが前に出る。
「認められるものか! これは聖餐ではない! ただの、ただの下賤なスープだ!」
「なら、そっちを飲め」
俺は、聖女の白祝スープを指した。オルディスは動かなかった。
「どうした」
「……」
「神の味なんだろう。飲めばいい」
彼の喉が鳴った。だが、手は動かない。もう香りが違うからだ。舌が知ってしまったからだ。祝福で撫でられた空っぽの白と、骨と根菜と塩で立った白の違いを。
王太子が、静かに匙を置いた。
「名を」
「レンジ」
「家名は」
「ない。今は厨房の雑役だ」
「では、雑役レンジ」
王太子の声は冷たい。けれど、皿は空になっていた。
「聖女の祝福料理を侮辱した罪は重い」
「侮辱したのは、俺じゃない」
「何?」
「この食材をあの鍋に入れた奴らだ」
また、沈黙。俺はセラフィナを見る。彼女は怒っていなかった。ただ、砕けた顔をしていた。少し可哀想だとは思った。だが、皿の上では関係ない。
「祝福で味を足すな。先に鍋の中を見ろ」
セラフィナの肩が、小さく震えた。王太子が、うっすらと笑う。
「明日の晩餐で、もう一度作れ」
オルディスが顔を上げた。
「殿下!?」
「王宮料理長オルディスの皿と、この雑役の皿を並べる。貴族たちの前でだ」
貴族たちが、一斉にざわめいた。俺は、鍋を片づけながら言った。
「食材は選ばせろ」
「好きにしろ」
「あと、そこの白羽鳥の骨を捨てるな」
オルディスが怒鳴る。
「貴様、まだ――」
「黙れ」
俺は、初めて料理長を正面から見た。
「高級食材を台無しにして、伝統と呼ぶな」
その日、王宮聖餐会で、聖女の白祝スープは最後まで残った。
誰も不敬を口にはしなかった。誰も聖女を責めなかった。誰も、神の味ではなかったとは言わなかった。
ただ、王太子の皿だけが空だった。
それで十分だ。
神聖な味という看板は、その日、少し剥がれた。
剥がした下には、まだ料理されていない食材の匂いがした。




