第9話 共犯の条件
オーレンが差し出したのは、手袋ではなかった。
薄い刷毛だった。
毛先が極細で、柄が短い。木製の柄に使い込んだ跡がある。オーレン自身が日常的に使っている道具だ。新品ではない。
「文書修復用です。炭化した紙片を扱う時に使います」
廊下だった。朝の靴磨きを終えて書斎から戻る途中、オーレンが小部屋の前で待っていた。待っていた、と思う。偶然ではない。私が朝と夕方に書斎の前を通ることを、この人はもう知っている。
刷毛を見た。受け取らなかった。
「アシュフォード嬢」
オーレンの声は低い。だが威圧はない。帳簿を読み上げる時の声に近い。事実を並べる声。
「あなたの手は、灰を扱う手です」
呼吸が止まった。
「私は同じ手を毎日鏡で見ています」
オーレンが自分の右手を上げた。人差し指と親指の黒ずみ。私と同じ色。
否定できなかった。否定する言葉を探す時間すらなかった。灰の黒ずみ。靴墨の匂い。暖炉の数の即答。掃除道具のない書庫。全部、もう見られている。
「何を集めていたのか、見せていただけますか」
オーレンの目がまっすぐこちらを向いていた。
「もしあなたが書類の処分に関わっていたなら、今のうちに話した方がいい。調査が進めば、後から説明するのは難しくなります」
処分に関わっていた。
共犯者だと疑っている。灰を扱う令嬢は、家の不正を手伝っていた可能性がある。オーレンから見れば、その推測は妥当だ。灰を「読んでいた」のか「消していた」のか、外からは区別がつかない。
「……少し、考えさせてください」
声が小さかった。自分でも聞き取れないほどだった。
オーレンは刷毛を引っ込めなかった。差し出したまま、少しの間そうしていた。
それから、刷毛を廊下の窓枠に置いた。
「ここに置いておきます。使うかどうかは、あなたが決めてください」
そう言って、小部屋に戻っていった。
窓枠の上に、刷毛が一本残された。
◇
一晩、眠れなかった。
北向きの部屋。蝋燭は点けなかった。残りが少ない。暗い天井を見ていた。
手帳を見せるかどうか。
見せれば、十四年間の記録がオーレンの手に渡る。灰から拾った断片。暗号化した数字。紙片の状態。日付。全て。
オーレンは文書管理局の人間だ。帳簿を調べている。灰の記録と帳簿を突き合わせれば、何かが見えるかもしれない。私一人では繋がらなかった断片が、帳簿の数字と重なった時に意味を持つかもしれない。
だが——見せた手帳が、私を「共犯者」の証拠にされる可能性もある。灰を集めていた令嬢。家の秘密を知っていた令嬢。知っていて黙っていた令嬢。
全部を渡す気にはなれなかった。
母の手紙の断片は、渡せない。「この子は」「ではありま」。あれは証拠ではない。母の声だ。誰にも渡したくない。
寝返りを打った。毛布が薄い。足が冷える。靴の中の髪飾りが、暗い部屋の隅で見えないまま存在している。
十四年間、一人で灰を見てきた。
一人で紙片を拾い、一人で暗号を作り、一人で記録した。誰にも見せなかった。見せる相手がいなかった。
今、相手がいる。手が黒い人間が、目の前にいる。
だが、その人が味方かどうかは分からない。調査官だ。仕事で来ている。私のために来たわけではない。
信じていいのか。
いや——信じるかどうかの問題ではない。手帳の記録だけでは、何も動かせない。法務書房の条文を知っても、手続きの方法が分からない。灰の断片だけでは証拠にならない。
一人では、足りない。
ずっと前から分かっていた。分かっていて、誰にも言えなかった。
毛布を引き上げた。足の指が冷たい。爪先を毛布の中に押し込んだ。
全部ではなく、一部だけ見せる。
暗号の一ページだけ。数字の羅列。読み方を教えなければ、ただの数字だ。それを見せて、反応を見る。
朝が来るのが遅かった。
◇
翌朝。
洗濯場の裏手に、オーレンを呼んだ。
正確には、オーレンが小部屋から出てきた時、廊下で「少しお話ができますか」と言った。左手の薬指を押さえていなかった。嘘ではないから。
洗濯場の裏は、屋敷の中で一番人が来ない場所だ。壁の向こうでベルタが洗濯をしている。ごしごしという音が聞こえる。ベルタは耳が遠い。壁越しの会話など聞き取れない。
石鹸と灰汁の匂いが、壁から漏れてくる。足元に水溜まりがある。排水が悪いのだ。靴の底が少し濡れた。
手帳を出した。
開いた。
一ページだけ。三日前の記録。暗号化した数字が並んでいる。
オーレンに見せた。
手帳を持つ指が震えていた。手帳の角が、手汗で湿って少し丸くなっている。何年も使っている手帳だ。表紙が擦れている。端が折れている。汗で波打っている。
「……これは」
オーレンが手帳を覗き込んだ。近い。外套の匂いがした。安い染料の匂いと、紙の匂い。
「数字ですね」
「はい」
「日付と……これは何かの記録ですか」
「暗号です」
言った。言ってしまった。
オーレンの眉が、少しだけ上がった。
「これは家計簿ではありませんね」
口元が動いた。
笑ったのではない。何と呼べばいいのか分からない。唇の端が、ほんの少しだけ緩んだ。一瞬だけ。すぐに戻った。
ようやく、と思った。
十四年。暗号で記録して、誰にも見せずにきた手帳。誰が見ても家計簿にしか見えないように作った。その暗号を、初めて「家計簿ではない」と見破った人間がいる。
見破ってほしかった。
ずっと。
言葉にしたことはなかった。考えたこともなかった。だが今、「家計簿ではありませんね」と言われた瞬間に、奥歯を噛んでいたことに気づいた。ずっと噛んでいた。いつからか分からないほど長く。その力が、ふっと抜けた。目の奥がじんとした。泣くような熱さではない。もっと硬くて冷たい。長く凍っていたものに、細い線が入った感覚だった。
オーレンが口を開きかけて、止まった。
私の口元を見ていた。あの一瞬の緩みを、見られた。
沈黙が三秒ほどあった。洗濯場のごしごしという音だけが聞こえていた。
「……全てのページを見せていただくことは、できますか」
「今日は、このページだけです」
声は平らに出た。一ページ。全部ではない。
オーレンの目が、一瞬だけ細くなった。それから、頷いた。
「分かりました。あなたを告発するつもりはありません」
信じたかった。半分だけ信じた。「告発するつもりはない」は「必要がなければ」という条件がつく。この人は調査官だ。任務がある。私のために来たわけではない。
「この数字の読み方を、教えていただける日は来ますか」
「……それは、あなた次第です」
言い返すつもりではなかった。だが口が動いた。あなた次第、というのは——あなたが何をする人間かを見てから決める、という意味だ。
オーレンは少し間を置いて、「それは公平ですね」と言った。
手帳を閉じた。袖の中に戻した。角が手汗で湿っている。
◇
洗濯場の裏を離れる時、オーレンが言った。
「昨日、窓枠に置いた刷毛を——」
「持っています」
嘘ではなかった。朝、窓枠から取った。今、袖の内側に入っている。手帳の隣に。
使っていない。使えば、「今後もあなたの道具を借りる」という意味になる。借りるということは、関わるということだ。一ページ見せた。それだけでいい。今日は。
「使うかどうかは、まだ決めていません」
オーレンは何も言わなかった。頷いただけだった。
背を向けて歩いた。洗濯場の角を曲がった。
ベルタの歌が聞こえた。音程の外れた、古い子守唄。耳が遠いから自分の声の大きさが分からないのだろう。壁越しに、ぼんやりと響いている。
袖の中に、手帳と刷毛がある。
手帳は十四年分の記録。刷毛は、今日もらったばかりの道具。
重さが違う。手帳の方がずっと重い。だが、刷毛の軽さが妙に気になった。柄の木が滑らかで、使い込まれていて、誰かの手の温度がまだ残っているような気がした。
気のせいだろう。冬の廊下で、木の柄に温度が残るはずがない。
部屋に戻った。
机の上に刷毛を置いた。手帳の隣に。
使わない。まだ。
でも、捨てなかった。




