第8話 母の声
今朝の灰は、いつもと匂いが違った。
書斎の暖炉。ベルタの手伝いで灰受けを引き出した時、最初に気づいたのは匂いだった。普段の灰は薪の焦げた匂いがする。今朝の灰には、それとは別の匂いが混ざっていた。
古い紙の匂い。
長い間保管されていた紙が燃えると、新しい紙とは違う匂いを出す。糊が焦げる匂い。インクが蒸発する匂い。湿気を吸った繊維が乾いて燃える、少し甘い匂い。
大量に燃やしている。
ふるいにかけた。手が震えたのは寒さだけではなかった。灰の量がおかしい。昨夜一晩で、ここ数日の合計より多い紙が燃やされている。
紙片が出てきた。
一枚目。二枚目。三枚目。四枚目。五枚目。六枚目。
六枚。
今までの最多だ。一晩で六枚。油紙が足りるかどうか、数えた。袖の中に四枚。あと二枚分しかない。
六枚を拾い上げて、一枚ずつ油紙に包んだ。最後の二枚は、油紙を半分に裂いて使った。薄い。紙片を守れるか怪しい厚みだ。
ベルタが声をかけた。
「今日は灰が多いねえ。旦那様、夜中に暖炉を焚いてたのかねえ」
「そうかもしれません」
声が平らに出たか、自信がなかった。
◇
部屋に戻って、六枚の紙片を並べた。
一枚目。焼けすぎて何も読めない。
二枚目。鉄媒染のインク。一文字。「二」。またこの字だ。
三枚目。紙が古い。他の紙片と質が違う。厚みがある。高価な便箋。そして——
筆跡が、違った。
今まで灰から出てきた紙片の筆跡は、ほとんどが父のものか、差出人不明の事務的な字だった。
この紙片の字は違う。細くて、右上がりで、少しだけ傾いている。
見覚えがあった。
どこで見たのか、すぐには思い出せなかった。指で文字の凹凸をなぞった。インクが紙に食い込んでいる。筆圧が強い。だが線は細い。ペン先が細いのだ。
母の字だ。
六歳の記憶は曖昧だ。母の顔はぼんやりとしか覚えていない。だが手紙を書く手は覚えている。細いペン先。右上がりの字。インクの匂い。
どうして。
どうしてもっとはっきり言ってくれなかったのか。「暖炉を見ていなさい」ではなく、何が起きているのか、何を残したのか、何を守ればいいのか。六歳の子どもに暗号のような言葉を残して死んで、十四年も灰を拾わせて。
——母を責めたいのか。
息を止めた。違う。違うはずだ。でも、今、一瞬だけ、母の字を見て最初に湧いたのは懐かしさではなく苛立ちだった。それが恥ずかしくて、紙片から目を逸らした。
四枚目の紙片も、同じ筆跡だった。読めた文字は「この子は」。三文字と助詞。
五枚目。同じ筆跡。「ではありま」。
六枚目。焼けすぎている。文字の痕跡がほぼ消えている。指でなぞっても、凹凸が感じられない。読めない。
手が止まった。
母の手紙が、灰から出てきた。
母は十四年前に死んだ。手紙は、生前に書かれたものだ。それが書斎の暖炉で燃やされた。昨夜。十四年間保管されていた手紙が、なぜ今になって。
指の先が冷たい。紙片を持つ手が小さく震えている。紙片は脆い。力を入れたら崩れる。
◇
朝食の席で、父に聞いた。
考えてからではなかった。口が動いた。
「お父様、お母様の手紙は、書斎にありますか」
食堂の空気が止まった。
ゾフィーが匙を持ったまま私を見た。継母の手が、茶碗の上で一瞬固まった。
父は私を見なかった。スープを飲む手を止めず、視線を皿の上に落としたまま答えた。
「そんなものはとうに処分した」
嘘だ。
今朝の灰がそれを証明している。「とうに処分した」なら、今朝の暖炉から母の筆跡の紙片が出る理由がない。古い紙の匂いがする理由がない。
ただし——父は嘘をついている自覚があるのだろうか。
「とうに処分した」と父は言った。本当にそう信じているなら、昨夜の焼却を知らないことになる。
では、誰が燃やしたのか。
継母の手が、茶碗の上で固まっていた。一瞬だけ。すぐに戻った。だが、あの一瞬を見た。
オーレンの調査で書斎の施錠部分が開放された。整理をしたのは継母だ。ゾフィーの婚約準備の書類を探す名目で、継母が書斎に入っていた。その時に、母の手紙を見つけたのかもしれない。
見つけて、読んで、焼いた。
推測だ。確かめる手段がない。今ここで口にすれば、疑っていることが知られる。
「そうですか」
それだけ答えて、スープに戻った。冷めている。いつも通り。
脂の膜を匙で寄せた。手が震えていないか確かめた。震えていない。食卓では震えない。十四年の訓練が、ここでは効く。
◇
午後、廊下でオーレンとすれ違った。
オーレンは帳簿を持っていなかった。珍しい。手ぶらで、少し考え事をしている様子だった。足が止まった時、靴底が床に擦れる音がした。
「アシュフォード嬢」
「カレスさん」
「少し伺いたいのですが」
「はい」
「お母様の領地について、何かご存知ですか」
息を吸った。肺の奥が詰まった。
母の領地。この人がその言葉を口にした。帳簿の調査で見つけたのだろう。「故公爵夫人の持参地」の記録が不自然だったのかもしれない。
答えたかった。
灰の断片のこと。手帳の暗号のこと。法務書房で読んだ相続法のこと。蝋型のこと。今朝の灰から出てきた母の筆跡のこと。
全部が喉の奥で詰まって、何一つ出てこなかった。言葉の順番が見つからない。どこから話せばいいのか分からない。そもそも、話していいのか分からない。
口は開かなかった。目だけが動いた。自分で感じた。左右に、ほんの少しだけ。
オーレンは、それ以上聞かなかった。
昨日の書庫と同じだ。踏み込んで、一歩で止まる。だが今日の目は、昨日と違った。計算している目ではなかった。帳簿の数字を読む時の目でもなかった。
何を見ていたのだろう。
「失礼しました」
オーレンは去っていった。
廊下に立っていた。手のひらが汗ばんでいた。冬の廊下で、手のひらだけが湿っている。
◇
夜。
蝋を削って短くなった蝋燭に火をつけた。残りはこれと、手つかずの二本。
六枚の紙片を、もう一度並べた。
母の筆跡の紙片は三枚。
「この子は」。
「ではありま」。
そして、読めない一枚。
「この子は」と「ではありま」。
繋げると——「この子は人形ではありません」になるかもしれない。母が私のことを書いていたのなら。
だが「ではありま」の後ろが欠けている。「ではありません」かもしれない。「ではありますが」かもしれない。「ではありました」かもしれない。あと二文字が足りない。
読めない一枚を手に取った。
指でなぞった。凹凸がない。炭化が深すぎて、文字が消えている。この一枚に何が書いてあったか、もう誰にも読めないかもしれない。
紙片を握りしめたくなった。
握れなかった。握ったら崩れる。灰に戻る。
代わりに、自分の手を握った。右手で左手を。爪が掌に食い込んだ。
母の手紙を、誰かが十四年間、書斎の施錠された場所に保管していた。それがオーレンの調査をきっかけに開放され、誰かに見つかり、焼かれた。
母は何を書いていたのか。
「この子は人形ではありません」——もしそう書いていたのなら。
母は知っていたことになる。私が人形にされることを。あるいは、人形にされる前の私を知っていて、それは違うと書き残した。
六歳の私に「暖炉を見ていなさい」と言った母。暖炉の灰に何かが残ることを、母は知っていたのだろうか。
蝋燭の炎が揺れた。短くなった芯が傾いている。
紙片を油紙に戻した。読めない一枚も、丁寧に包んだ。読めなくても、捨てない。
手帳を開いた。今日の記録を暗号で書き込んだ。母の筆跡。断片の内容。六枚。
インクが薄い。水で割ったインクはもう限界に近い。灰色の字がページに滲んでいく。
書き終えて、手帳を閉じた。
左手を開いた。爪の跡が、掌に四つ残っていた。赤い三日月が四つ。消えるまでに少しかかった。




