第7話 形見の裏側
靴の中敷きを剥がすと、縫い目が十四年分の汗で黄ばんでいた。
糸が少しほつれている。何度も足で踏んできた場所だ。その下に、母の髪飾りがある。取り出す。指の間で、金属がすぐに体温を吸って温まる。靴の中にいる時はいつも温かい。足の熱を吸っているから。
取り出すと、冷えるのは早い。冬の空気に触れた金属は、あっという間に指先の温度を奪っていく。
裏を返した。花と鍵の紋章。母の実家の家紋。
法務書房で読んだ条文が頭に残っている。相続の確定。受益者の身元証明。この家紋が、私と母の実家を繋ぐ証拠になるかもしれない。なるかどうか、確かめる手段が私にはないが——この紋章を、手元から離さない形で保存しておきたかった。
髪飾りは靴に戻す。いつも通りに。だが紋章の形は、別の場所にも残しておきたい。
机の上の蝋燭を見た。残り三本のうちの一本。
小刀で蝋を削った。薄く、薄く。削りすぎると蝋燭が短くなる。一本で二晩。それが崩れる。
だが、今は蝋が要る。
削った蝋を掌の上で温めて、柔らかくした。髪飾りの裏に押しつける。紋章の凹凸が、蝋に移る。指で端を押さえて、形を整えた。
蝋が固まるまで待った。冬の朝だ。すぐに固まる。
剥がした。蝋の表面に、花と鍵の紋章が反転して浮かんでいた。細かい線まで写っている。
油紙に包んだ。袖には入れなかった。落とす危険がある。蝋は脆い。
洗濯場に持っていく。ベルタの棚の裏、油紙の束の下に隠した。ベルタは棚の裏を掃除しない。あの人の手では、棚の奥に手を入れるのが難しい。関節が腫れているから。
隠しながら、少しだけ後ろめたかった。ベルタの手の不自由さを利用している。あの人は知らない。私が何を隠しているかも、なぜ隠しているかも。
蝋燭が一本、三分の一ほど短くなった。今夜の作業時間が減る。
◇
屋敷は慌ただしかった。
ゾフィーの婚約準備が本格的に動き出している。生地の見本、招待状の下書き、式の段取り。継母が使用人を指図して走り回っている。
私には裏方仕事が回ってくる。招待状の宛名書き、贈答品の包装、食器の在庫確認。公爵令嬢の仕事ではない。だが「リーネさん、これをお願い」と継母が言えば、断る理由がない。
宛名を書きながら、インクが減っていくのを見た。私の手帳用のインクではない。屋敷のインクだ。だが、手帳のインクが底をついたら、このインクを少しだけ借りることはできるだろうか。
考えて、やめた。盗みは盗みだ。たとえ一滴でも。
午前中いっぱい宛名を書いた。右手の小指の外側が、紙に擦れて赤くなっている。
◇
午後、ハンナから聞いた。
「文書管理局の方、滞在を延ばされるそうです。書庫も調べたいとか」
書庫。
この屋敷の書庫は一階の奥にある。古い帳簿、契約書の写し、領地関連の書類が保管されている。母が生きていた頃の書類も、あるかもしれない。
母の遺言の写しが、あるかもしれない。
相続法の条文は法務書房で読んだ。だが、母の遺言そのものは見たことがない。存在するかどうかすら確かめていない。書庫にあるなら、見ておきたかった。
「書庫は誰でも入れますか」
「鍵はかかっていませんけど、旦那様のお許しがないと……」
「分かりました」
お許しは出ない。聞けば「お前には関係ない」と言われるだけだ。
だが、書庫に鍵はかかっていない。
◇
夕方、ゾフィーの婚約準備の荷物を書庫の隣の収納に運ぶ仕事を引き受けた。
これなら、書庫の近くに正当な理由で行ける。
収納に荷物を入れた後、書庫の扉を見た。開いている。中に明かりが点いている。
誰かがいる。
一歩、扉の前まで行った。中を覗いた。
オーレンだった。
棚の前に立って、古い帳簿を一冊ずつ引き出している。背中がこちらに向いている。外套を脱いで、シャツの袖を少しまくっている。書庫の埃のせいだろう。古い紙と、鼠の糞の混じった独特の匂いが、扉から漏れてくる。
入るべきか、戻るべきか。
入った。
足音で気づかれた。オーレンが振り返った。
「——アシュフォード嬢」
「お掃除に参りました」
口が勝手に動いた。左手の薬指を、親指で押さえていた。
オーレンの目が、私の手元に落ちた。それから、周囲を見回した。書庫の床。棚。私の手。
「掃除道具を、お持ちではないようですが」
静かな声だった。
手ぶらだった。箒もない。雑巾もない。掃除をする人間の格好ではない。宛名書きで赤くなった右手の小指の外側だけが、妙にはっきり視界に入った。
言葉が出なかった。
嘘がこんなにあっさり崩れたのは、十四年で初めてだった。灰のこと、靴磨きのこと、庭仕事の跡——全部通してきた嘘が、掃除道具がないという一点で崩れた。
顔が、変わった。自分で分かった。
眉が下がって、唇が閉じた。困っている顔。人形ではない顔。こういう顔をしたのは、いつ以来だろう。思い出せない。
オーレンは私を見ていた。何秒か。長いのか短いのか分からなかった。
それから、帳簿を棚に戻した。
「書庫は埃が多いので、長居はお勧めしません」
そう言って、自分から先に書庫を出ていった。
追い詰められなかった。
嘘を指摘されて、理由を聞かれて、言い訳を求められる——そういう流れを覚悟していた。だが、オーレンは何も聞かなかった。「掃除道具がない」と言っただけで、それ以上は踏み込まなかった。
優しさだろうか。
いや。あの人の目は優しくなかった。暖炉の数を即答した時と同じ目をしていた。何かを量っている。私が書庫に来た理由を、聞かずに推測しようとしている。
泳がされている、と思った。
泳がされている方が、追い詰められるより厄介だ。追い詰められたら言い訳をすればいい。泳がされたら、自分の行動の全てが材料になる。
◇
書庫を出て、廊下を歩いた。
右手を見た。蝋の破片が、人差し指の付け根についていた。朝の蝋型の名残だ。洗ったつもりだったが、残っていた。薄く白い。灰の黒、靴墨の茶色とは違う。
オーレンはさっき、私の手を見た。いつもそうだ。あの人は手を見る。この白い破片にも気づいただろうか。
廊下の角を曲がった時、背後で紙を繰る音がした。
振り返った。
オーレンが廊下の窓際に立って、自分の手帳を開いていた。何かを書いている。左手で手帳を押さえ、右手で短い鉛筆を動かしている。筆圧が強い。紙に食い込む書き方だ。
目が合った。
オーレンは手帳を閉じた。表情は変わらなかった。「失礼」とだけ言って、小部屋へ戻っていった。
あの手帳に、何を書いたのだろう。
掃除道具のない令嬢。蝋のついた指。暖炉の数を知っている令嬢。灰捨てを手伝う令嬢。靴墨のついた手。
あの人は記録する人間だ。私と同じだ。ただし、記録する対象が違う。私は灰を記録している。あの人は、私を記録している。
部屋に戻った。
蝋の破片を爪で削り落とした。白い粉が机の上に散った。
今日、一つだけ確かなことがある。
人形の顔に、ひびが入った。オーレンの前で、困った顔をした。十四年かけて作った顔が、掃除道具の一言で崩れた。
あの人がそれを、手帳に書いたかどうかは知らない。
蝋燭に火をつけた。短くなった蝋燭。今夜の灰の確認は、早めに切り上げなければならない。




