第10話 灰の中の取引
手帳の数字と帳簿の数字が、同じ月に跳ねていた。
洗濯場の裏。作業台代わりに使っている板の上に、手帳を開いている。隣にオーレンの帳簿が置いてある。
二日前に一ページだけ見せた手帳を、今日は三ページ分開いた。全部ではない。だが、一ページでは作業にならないとオーレンが言ったので、三ページに広げた。暗号の読み方は、まだ教えていない。私が数字を読み上げて、オーレンが帳簿と照合する形だ。
「この数字は日付ですね。八月、九月、十月」
「はい」
「この時期、帳簿に計上されている支出が急増しています。名目は『領地管理費』。ですが、内訳が不自然です」
オーレンが帳簿のページを指で押さえた。爪が短い。紙を扱う人間の爪。
「管理費が三倍に膨れている月があります。同じ月に、あなたの記録でも灰から出る紙片の量が増えている」
「はい。八月から、灰の量が変わりました」
声が少し硬い。自分の記録を他人に読み上げるのは初めてだった。十四年、自分の目だけが見てきた数字を、声に出している。喉が乾く。
「この『ヴォル』という断片ですが」
オーレンが帳簿を繰った。指が止まった。
「帳簿の支出先に、ヴォルフリート商会という名前があります」
ヴォルフリート。
「ヴォル」の後に続く文字。ヴォルフリートの「ヴォル」。
あの三文字が、商会の名前の一部だった可能性がある。「伯」「領」は「ヴォルフリート伯爵領」かもしれない。帳簿に伯爵の名はないが、商会の名前がある。
「ヴォルフリート商会は、ある伯爵家が経営に関わっている商会です。三年前に横領で追放されたヴォルフリート伯爵の——」
三年前に追放された伯爵。
「区」「画」「境」。区画。境界。領地の売買に使う用語。
「あなたの記録と帳簿を突き合わせると、同じ時期に、同じ相手への支出と書簡のやり取りが重なります」
オーレンが帳簿を閉じた。閉じてから、私を見た。
「公爵が、追放された伯爵と領地の取引をしている可能性があります」
可能性。まだ可能性だ。灰の断片は推測の補助にしかならない。帳簿の数字も「管理費」としか書かれていない。確定するには、もう一段の証拠がいる。
だが——繋がった。
バラバラだった断片が、帳簿の数字と重なった瞬間に、形が見えた。三文字と一文字と一文字が、ひとつの名前になった。
手が震えた。寒さではない。首の後ろに汗が冷えて張りついている。冬の洗濯場の裏で、汗をかいていた。
◇
作業は二時間ほど続いた。
板の上に紙片と帳簿が並んでいる。石鹸の染みが残った板だ。その上に、十四年分の灰の記録と、公爵家の帳簿が一緒に載っている。
炭の匂いが立ち込めていた。紙片を広げると、灰の匂いが板の上に溜まる。オーレンは匂いを気にしなかった。この人も炭化した紙を日常的に扱っている。慣れている。
帳簿を照合しながら、オーレンが時折メモを取っていた。筆圧が強い。鉛筆の先が紙に食い込む。
「アシュフォード嬢」
オーレンの手が止まった。帳簿の上に鉛筆を置いた。
声の温度が変わった。
「一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「あなたはこの調査が始まる前から——出ていくつもりだったのでは」
板の上の紙片が、風もないのに揺れた気がした。揺れていない。私の目が揺れただけだ。
「私の調査を、利用するつもりで手帳を見せたのではありませんか」
オーレンの目は、帳簿に向いていた。私を見ていなかった。
それが余計に堪えた。目を合わせて聞かれるより、帳簿を見ながら聞かれる方が逃げ場がない。この人はわざとそうしているのか、それとも、私の顔を見たくなかっただけなのか。
左手の薬指を、親指で押さえかけた。
嘘をつこうとした。違います、と。あなたを利用するつもりはありませんでした、と。
指が止まった。
押さえなかった。
嘘をつけなかった。
半分は、そうだ。
灰の断片だけでは何もできないと分かっていた。一人で集めた記録が、このままでは誰の目にも触れずに終わることも分かっていた。オーレンの調査が来た時、これを使えるかもしれないと考えた。考えて、手帳を見せた。
計算はした。この人の調査と、私の記録を組み合わせれば、何かが動くかもしれない。その計算はあった。
「……半分は、そうです」
声が出た。小さかった。洗濯場の向こうでベルタのごしごしという音がしていて、私の声はその音より小さかった。
オーレンは顔を上げなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
板の上の紙片が乾いていく匂いがした。炭の匂いが薄くなっていく。
「……今日はここまでにしましょう」
オーレンが帳簿を閉じた。
立ち上がって、帳簿を脇に抱えた。いつもの動作だ。いつも通りに帳簿を持ち、いつも通りに背筋を伸ばして、洗濯場の裏から出ていこうとした。
冷たくはなかった。怒っていなかった。声も目も、いつも通りだった。
いつも通りであることが、一番苦しかった。
怒ってくれた方がまだ楽だった。怒りには言い訳ができる。「いつも通り」には何も返せない。
「カレスさん」
呼んだ。声が掠れた。
オーレンが足を止めた。振り返らなかった。
「……半分は、と言いました。残りの半分は——」
言葉が見つからなかった。残りの半分を何と呼べばいいのか。「信頼」は大きすぎる。「期待」は甘すぎる。「助けてほしい」は言ったことがない。
「残りの半分は、あなたの手が黒かったからです」
出てきた言葉は、それだった。
オーレンの背中が少しだけ動いた。息を吸ったか、肩が揺れたか。
「……今日はここまでに」
同じ言葉を繰り返して、オーレンは角を曲がっていった。
◇
一人になった。
板の上に紙片が散らばっている。片づけなければ。
手が動かなかった。
しばらく板の前に座っていた。石鹸と灰汁の匂い。ベルタの歌が壁の向こうから聞こえる。音程が外れている。いつもと同じだ。世界は何も変わっていない。
刷毛が袖の中にあった。
昨日もらった刷毛。使っていない。今日の作業でも、油紙で紙片を扱った。刷毛は使わなかった。
袖から出した。
木の柄が滑らかだ。使い込まれた跡がある。オーレンの手の跡。
使う権利があるのだろうか。
利用した、と言われた。半分は認めた。残りの半分は「手が黒かったから」と言った。あの言葉が何を意味するのか、自分でも整理がつかない。
刷毛を板の上に置いた。紙片の隣に。使わない道具が、使えない道具に変わりかけている。
紙片を一枚ずつ油紙に包み直した。手が少し震えていた。さっきの震えとは違う。さっきは繋がった興奮だった。今は、別のものだ。
片づけを終えて、部屋に戻った。
◇
北向きの部屋。
机の上に刷毛を置いた。手帳の隣。
手帳を開いた。
最初のページ。
十四年前の字がある。六歳の手で書いた、震えるひらがな。
「おかあさまのいったとおり、はいをみています」
灰を見ています。
六歳の私が書いた。母に言われた通りに灰を見始めた頃。意味も分からずに。何が残っているかも分からずに。ただ、母に言われたから見ていた。
その隣に、十五歳で暗号を作り始めた頃の数字が並んでいる。字が変わっている。子どもの字から、大人の字に。右上がりの癖は変わらない。母の字に似ている。
利用したのか。
オーレンの調査を。あの人の仕事を。あの人がここにいることを。
計算した。それは本当だ。
だが——。
十四年間、一人で灰を見ていた。毎朝、暖炉の前にしゃがんで、ふるいをかけて、紙片を拾って、暗号に変えて、手帳に書いた。誰にも見せずに。誰にも見破られずに。
初めて「見てくれる人」が現れた時、計算より先に、もっと手前のところで、何かが動いた。
手帳のあの暗号を「家計簿ではない」と言ってくれた時の、あの——口元が緩んだ瞬間。あれは計算ではなかった。
利用したのか、していないのか。半分は利用した。半分は、ただ見てほしかった。
どちらも本当だから、どちらかだけを選んで差し出すことができない。
手帳を閉じた。
刷毛が隣にある。使っていない。使えなくなりかけている。
明日、オーレンが小部屋から出てきた時、何と言えばいいのか。
何も浮かばなかった。言葉ではなく、手の中に刷毛の軽さだけが残っている。
蝋燭をつけなかった。暗い部屋で、手帳を胸に抱えて、毛布を引き上げた。
六歳のひらがなが、瞼の裏に残っている。
はいをみています。
見ていた。ずっと。




