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人形のような公爵令嬢はお断りです。〜暖炉の灰で手紙を読める私は、自分の足で歩きます〜  作者: 秋月 もみじ


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第11話 人形が泣く日


継母の字が、灰の中にあった。


朝の書斎。灰受けからふるいにかけた紙片のうち、一枚だけ筆跡が違った。


父の字ではない。母の字でもない。角張った、やや右下がりの字。横線を引く時に力を入れすぎて、紙に跡が残るような書き方。


招待状の宛名を何十枚も書いた。あの時に見た字だ。継母が下書きした宛名の字と、同じ癖がある。


紙片に残っていた文字は「——内容を」の三文字。それだけ。


だが、それだけで十分だった。


母の手紙を燃やしたのは、父ではなかった。


父は「とうに処分した」と言った。あれは嘘ではなかったのかもしれない。父は本当に、母の手紙はもうないと思っていた。書斎の施錠された一角に残っていたことを、父自身が知らなかった。


オーレンの調査で施錠部分が開放された。継母が婚約準備の書類を探す名目で書斎に入った。そこで母の手紙を見つけた。読んだ。そして——焼いた。


「内容を」。


内容を読んで、焼いた。母の手紙の内容が、継母にとって都合の悪いものだったから。


何が書かれていたのか。


灰から出てきた母の筆跡の断片を思い出した。「この子は」「ではありま」。母は私のことを書いていた。それだけではない。領地のことも書いていたはずだ。法務書房で読んだ相続法。遺言。売却凍結。


母は、知っていたのだ。


領地が狙われていることを。私の権利が脅かされることを。だから手紙を書いた。だから遺言を残した。だから「暖炉を見ていなさい」と言った。


母は感情的だったのではない。


父が「あの女は感情的だ」と言っていたのを、使用人を通じて聞いたことがある。母が死んだ後、父は何度かそう言っていた。感情的。扱いにくい。面倒な女だった、と。


だから私は感情を消した。


母のようになったら嫌われる。母のように感情を出したら、壊れる。壊されたのが母なら、壊されないためには感情を出さなければいい。人形でいればいい。


十四年、そう信じてきた。


違った。


母は感情的だったのではない。問題を見つけて、声を上げようとしたのだ。領地のこと。権利のこと。娘のこと。それを「感情的だ」と言われて、黙らされた。


母は壊れたのではない。壊されたのだ。


紙片を持つ手が震えた。


震えているのが分かっていたのに止められなかった。指先が揺れて、継母の筆跡の紙片が指の間から滑った。


床に落ちた。


砕けた。


乾いた灰の紙片は、落下の衝撃で三つに割れた。端から粉になって、石畳の上に散った。


しゃがんで拾おうとした。指で摘まんだ。崩れた。灰は指の間からこぼれていく。押さえるほど崩れる。


証拠が一つ減った。


手が止まった。膝が石畳についた。冷たい。膝の皮が硬くなっている場所に、石の角が当たる。


部屋にいられなかった。


◇


洗濯場の裏に行った。


壁に額を押しつけた。石の壁。冷たい。額に当たる石の表面がざらざらしていて、押しつけると痛い。痛みで、頭の中が少しだけ静かになる。


壁の向こうで、ベルタが洗濯物を畳んでいた。布がぱたぱたと鳴る音がしている。歌はない。今日は静かに畳んでいる。


ベルタは私が裏にいることを知らない。壁一枚隔てて、私がここにいることに気づいていない。耳が遠い。足音も息も聞こえない。


泣いた。


声は出さなかった。出す癖がない。十四年、泣く時に声を出したことがない。声を出すと誰かに聞かれる。聞かれたら「どうしたの」と聞かれる。「どうしたの」に答えるためには、説明しなければならない。説明するためには、感情を言葉にしなければならない。


言葉にしたくなかった。母のことを、まだ言葉にできない。


だから声を出さずに泣いた。涙が顎から落ちて、外套の襟に染みた。鼻の奥が詰まって息がしにくくなる。口で息をした。白い息が壁に当たって散る。


母は、ここで泣いていたのだろうか。


洗濯場の裏。誰も来ない。ベルタは気づかない。屋敷で一番安全な場所。母もそれを知っていたのだろうか。


泣いている間に、壁の向こうでベルタが動いた。畳んだ洗濯物を籠に入れる音。足を引きずる音。ベルタの足は冬になると痛む。


ベルタが、壁の向こうで言った。


「お母様もよく洗濯場に来てたよ」


声が大きい。独り言かもしれない。洗濯物に話しかけているのかもしれない。私に言ったのかもしれない。壁越しだから分からない。


「……知りませんでした」


小さく答えた。声が掠れていた。泣いた後の声だ。


ベルタは返事をしなかった。聞こえなかったのか、聞こえても返す必要がないと思ったのか。洗濯物をまた畳み始めた。ぱたぱたという音が続く。


母もここに来ていた。


母もこの壁に額を押しつけたのだろうか。この石のざらざらした感触を知っていたのだろうか。泣いて、顔を洗って、何食わぬ顔で居間に戻ったのだろうか。


「感情的な女」と言われた母が。


感情的だったのではない。ここに来て泣いていたなら、それは感情を隠していたのだ。私と同じだ。隠して、隠して、それでも溢れたものをここに置いていった。


母は人形ではなかった。人形のふりをしていた。私と同じように。


ただ、母は最後に声を上げた。手紙を書いた。遺言を残した。私はまだ声を上げていない。


◇


顔を洗った。


洗濯場の水桶から水を汲んで、両手で掬って顔にかけた。冷たい。冬の水だ。目の腫れは引かない。冷水で洗っても、泣いた跡はすぐには消えない。


鏡がない。自分の顔がどうなっているか確かめようがない。目が赤いのは分かる。鼻の下も赤い。こすったから。


外套の襟の染みを手で押さえた。乾けば目立たなくなるだろう。


部屋に戻った。


床に、砕けた紙片の粉が残っていた。継母の筆跡の紙片。「内容を」と読めたはずの紙片。もうない。灰に戻った。


手帳に記録は残っている。暗号化した数字で。だが、紙片そのものは失われた。感情に振り回されて、手が震えて、落として壊した。


人形でいれば、こうはならなかった。人形なら手は震えない。紙片を落とさない。


でも、人形は母の字を見て何も感じない。母の手紙が燃やされたことに怒らない。継母の筆跡を見ても手が震えない。


人形でいたら、十四年間灰を見続ける理由がない。


手帳を開いた。


最初のページ。六歳の字。


「おかあさまのいったとおり、はいをみています」


その横に、余白がある。十四年間、何も書き足さなかった余白。


ペンを取った。インクが薄い。もう限界に近い。灰色の字しか書けない。


書いた。六歳の字の隣に、二十歳の字で。


「お母様は正しかった」


右上がりの字。母の字に似ている。矯正しようとしたことがある。しなくてよかった。


手帳を閉じた。


◇


翌朝。


廊下でオーレンとすれ違った。


昨日の亀裂がまだあった。あの「今日はここまでにしましょう」が、廊下の空気の中に残っている。


目が合った。


オーレンの視線が、私の目元に止まった。


赤い。まだ赤いのだ。昨日泣いて、冷水で洗って、一晩寝ても消えなかった赤みが残っている。


オーレンの口が開きかけた。何か言おうとした。言葉が唇の手前まで来て、止まった。


唇を閉じた。


何も言わなかった。


私も何も言わなかった。


二人で廊下に立って、何も言わずに、三秒ほどそうしていた。石畳の冷たさが靴底から伝わってくる。壁の向こうで時計が鳴った。


オーレンが目を逸らした。帳簿を脇に抱え直して、小部屋の方へ歩いていった。


残された。


あの人は私の目の赤みを見た。泣いたことに気づいた。だが何も聞かなかった。


書庫の時は「掃除道具がない」と指摘した。暖炉の数を聞いた。靴墨の匂いに気づいた。蝋の破片を見た。全部、観察して、記録した。


今日は、何も言わなかった。


その違いが、何を意味するのか。仕事で観察しているなら、目の赤みも記録するはずだ。記録しないなら、それは仕事ではない。


考えるのをやめた。今は、それを考える順番ではない。


◇


部屋に戻った。


机の上に、刷毛がある。


オーレンの刷毛。二日前にもらった。使っていない。昨日の亀裂の後、使う権利があるのか分からなくなって、板の上に置いた。


手に取った。


木の柄が掌に収まる。軽い。手帳より軽い。


使う。


母の手紙の断片がまだ油紙の中にある。「この子は」「ではありま」。あの紙片は、油紙ではなく刷毛で扱った方が安全だ。脆い紙を、指ではなく毛先で持ち上げれば、崩さずに済む。


さっき、継母の紙片を落として壊した。指で持ったから壊れた。刷毛があれば、壊さなかったかもしれない。


刷毛を使う。


利用と言われた。半分は認めた。それでも、この刷毛は使う。


母の紙片を守るために。亀裂があっても、使えるものは使う。遠慮している間に紙片が崩れたら、取り返しがつかない。


油紙の束を開いた。母の筆跡の紙片を、刷毛の毛先でそっと持ち上げた。


軽い。


指で摘まむのと全く違った。紙片に触れる圧が、毛先を通すと十分の一になる。紙片が撓まない。端が崩れない。


この道具を作った人間は、壊れやすいものを扱う人間だ。


紙片を新しい油紙の上に移した。「この子は」。三文字と助詞。母の字。


読めない一枚も、刷毛で移した。読めなくても壊さない。


手帳を開いて、今日の日付を書いた。


蝋燭には火をつけなかった。朝の光で十分だった。北向きでも、朝は少しだけ光が入る。灰色の光だが、手帳の字は読める。


書き終えて、刷毛を手帳の隣に置いた。


使った。


もう「使っていない道具」ではない。

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