第12話 脱出の朝
靴の中敷きから髪飾りを出すのは、これが最後だった。
糸を切った。小刀で、十四年分の縫い目を一つずつ切っていく。黄ばんだ糸がぷつぷつと切れる音がする。小さな音。中敷きが剥がれて、その下に母の髪飾りが見えた。
金属が汗で変色している。元の色はもう分からない。だが裏の紋章は残っている。花と鍵。
手に取った。体温を吸って温まるのを待たなかった。冷たいまま、革鞄の中に入れた。
靴に足を入れた。中敷きが薄い。糸を切ったところが窪んで、足裏に石畳の冷たさが直接伝わる。十四年間、髪飾りの角が当たっていた場所に何もない。足が軽い。軽いのに、歩きにくい。あの角がないと、足の置き方が分からなくなる。
◇
革鞄の中身を確認した。
着替えが一着。冬用の肌着と、木綿のブラウスと、黒い上衣。どれも古い。
母の髪飾り。
蝋型。洗濯場の棚の裏から回収した。油紙に包んだまま、割れていないことを確認した。蝋の表面に、花と鍵の紋章が反転して浮かんでいる。
オーレンの刷毛。
それだけだった。
手帳は入れなかった。手帳は持っていかない。油紙に包んだ紙片の束も、持っていかない。
鞄を閉じた。軽い。荷物が、これだけしかない。
部屋を見回した。北向きの部屋。暖炉がない。壁に結露の跡がある。机の上にインク瓶が一つ。中身はほとんど空だ。蝋燭が二本。作業用手袋が一組。親指がほつれている。
置いていくものの方が多い。だが、持っていくものの方が重い。
◇
朝が早かった。まだ誰も起きていない時間に、洗濯場へ行った。
ベルタはもう来ていた。この人はいつも屋敷で一番早い。湯を沸かす釜の前に立っている。
「ベルタ」
「ああ、お嬢様。早いねえ」
「今までありがとうございました」
ベルタは洗濯物を仕分けている手を止めなかった。
「はいはい」
聞こえたのか、聞こえていないのか。分からなかった。いつもと同じだ。いつもと同じように、ベルタは洗濯物を触っている。関節が腫れた指で、布を掴んで、籠に入れて、次の布を掴む。
この人に、どう伝えればいいのだろう。ずっと油紙をくれたこと。灰捨ての手伝いを受け入れてくれたこと。洗濯場の裏で泣いても気づかないでいてくれたこと。
伝える言葉がなかった。伝えたら、説明しなければならない。説明するには、全部を話さなければならない。ベルタにそれを聞かせるのは、違う。
「ベルタ」
もう一度呼んだ。
ベルタが顔を上げた。
「お嬢様、今日は油紙はいるのかい」
「……いいえ。もう、いりません」
「そうかい」
ベルタは洗濯物に戻った。
それだけだった。それだけで終わった。
洗濯場を出る時、湯気の匂いが背中について来た。石鹸と灰汁の匂い。この匂いを嗅ぐことは、もうないかもしれない。
振り返らなかった。振り返ったら、動けなくなる。ベルタの背中は、一番見慣れた背中だ。あの背中がなければ、私はとっくに壊れていた。ベルタは知らないだろう。知らないまま、洗濯物を畳み続ける。それでいい。
◇
オーレンの小部屋の前に立った。
朝が早い。だがオーレンも早起きだと知っていた。小部屋の明かりがついている。帳簿を朝から読んでいるのだろう。
扉を叩いた。
「どうぞ」
入った。
小部屋は狭かった。机一つと椅子一つ。帳簿が積まれている。窓が一つ。明かりは蝋燭。
オーレンが椅子から立ち上がりかけて、止まった。
私の手に、手帳があった。
手帳と、油紙の束。十四年分の灰の記録。暗号化された数字。紙片の断片。劣化したもの、読めなくなったもの、母の筆跡のもの。全部。
「カレスさん」
声が震えなかった。不思議だった。昨日は泣いた。一昨日は紙片を落として壊した。今日は、声が出る。
手帳を差し出した。
「全部です。暗号の読み方も、お教えします」
オーレンは手帳を見ていた。私の手を見ていた。手帳の角が手汗で湿っている。表紙が擦れている。端が折れている。十四年分の重さが、革の表紙に染み込んでいる。
二日前は一ページだけ見せた。今日は全部渡す。
「これは利用ではありません」とは言わなかった。言葉で否定しても意味がない。一ページではなく全部を渡す。その差分が、言葉の代わりだ。
オーレンが手を伸ばした。
手帳に触れた。私の指とオーレンの指の間に、手帳の厚みがあった。
受け取った。
少し間があった。オーレンは手帳を両手で持った。重さを確かめるように。帳簿を持つ時と同じ持ち方だ。だが、指の力が違った。帳簿より丁寧に持っていた。
「……これは、預かります」
声が低かった。いつもより低い。
「必ず返します」
前に「告発するつもりはない」と言った。あの時は、条件つきの言葉だった。
今日の言葉は違った。「返す」。手帳を返す。預かったものを持ち主に戻す。それは、終わりがある約束だ。始まりと終わりがある。
「お願いします」
頷いた。
「——オーレンさん」
声に出た。初めて、この人を名前で呼んだ。
十四年間、誰の名前も呼ばなかった。父を「お父様」と呼ぶ。継母を返事の中に名前を入れずに避ける。ゾフィーは「ゾフィー」だが、それは幼い頃からの習慣で、名前を呼ぶ行為ではない。ベルタは「ベルタ」と呼ぶが、それは注意を引くためだ。
オーレンさん、と呼んだのは、それ以外の何かだった。用事でもなく、習慣でもなく、注意を引くためでもなく。ただ、名前を呼びたかった。手帳を渡した後に、この人の名前を一度、自分の声で言っておきたかった。
オーレンは少しの間、何も言わなかった。
口が開いた。閉じた。また開いた。
「……お気をつけて」
それだけだった。
格好悪い返事だと思った。でも、この人はいつもそうだ。紙の前では正確で冷静なのに、言葉になると不器用になる。帳簿の数字は読めるのに、人の顔を読む時に詰まる。
格好悪い返事で、十分だった。
◇
裏口に向かった。
父はまだ寝室にいる。継母もゾフィーも起きていない。使用人棟からは物音がし始めている。もうすぐ屋敷が動き出す。
正門は使わなかった。正門を使う理由がない。令嬢として正門から出る資格を主張するつもりはない。使用人の出入り口から出る。十四年間、この屋敷で私がいた場所は裏方だった。出ていく場所も裏方でいい。
裏口の扉を開けた。
冷たい空気が顔に当たった。冬の朝。鼻の奥が痛い。息が白い。
砂利を踏んだ。靴底が薄くなっていて、石の形が足裏に分かる。髪飾りがない靴は、ただの靴だった。何の重みもない。
革鞄を持ち直した。着替えと髪飾りと蝋型と刷毛。それだけの重さ。
十歩目で振り返った。
煙突から煙が上がっていた。使用人が朝の暖炉に火を入れたのだろう。暖炉の灰は、今朝からベルタだけが捨てる。ベルタは紙片を拾わない。灰は灰として、ただ捨てられる。
あの煙の下に、まだ紙片が残っているかもしれない。
拾わない。
もう拾わなくていい。
十一歩目から、前を向いた。
砂利の道が、王都の石畳に変わるまで歩いた。足裏が冷たかった。髪飾りがあった場所が、靴の中で空っぽだった。
空っぽでいい。
もう、靴の中に隠すものはない。髪飾りは鞄の中にある。取り出せる場所にある。十四年ぶりに、母の形見が足の下ではなく、手の届くところにある。




